2024/02/02

【心理学】行動変容と罪悪感

■ 行動変容と罪悪感

私の悩みを正確に言い表すというだけで一苦労なんだが…。

それは、しつこい罪悪感が私の行動変容を妨げている、ということだ。

私は独学の人、なので、ベイビーステップは得意中の得意である。したがって、この行動変容の妨げは、私らしいことではない。

例えば、英語の習得における行動変容なんて、小学生3年生からの自覚に基づく、長い長いラジオ英会話による9年もの独学時代を経てすら、なかなか習得できなかったので、業を煮やして、アメリカに行ってしまった。私はしつこい性格である。習得するまで辞めない。

その間、積み上げた挫折感は、ものすごく、やるべきと思って積み上げた復習の山は積みあがるばかり、一方で新しいラジオ講座は毎日課題を積み上げるばかりで、読まねばならない英字新聞は貯まりまくるし…無力感・挫折感・無能感は、日々積みあがる。

級長、生徒会、キャプテンに加え、お姉ちゃん役、で責任が重く、その上、自分の余暇には、将来の”脱出”に備えて、勉強したいわけだから、子供というより、現代の大人と同じタイムスケジュールで生きる子供時代だった。

そこから学んだ、独学のコツは、いくら自分に厳しく叱咤激励したとしても、できないものはできないのだし、毎日単語10個覚えよう、とか、そもそも方法論からして破綻しているのである。そもそも、生活に必要もなく関連も薄いのだから、覚えることに意味を見出せなければ覚えられない。

当時、効果があった学習法は、英語の歌を歌うこと。それはストレス発散になったからである。しかし、それすらテキトーな発音でまじめに学習したことはない。なんせテキトーな発音のほうが英語そのものに近いのであるからにして、そのほうが良い。

おかげで、ルパン・ダ・サードという発音が、ルパンでさぁ~と聞こえており、なるほど、これがルパン三世という意味だったのか、と気が付くのに20年近く費やすことになったが…(笑)。

ある日、突然、気が付いた。

この、ある日突然、というのが独学の常なのである。

このある日突然をいかに起こすか?がしばらくテーマだった。

そして、その”ある日突然”は、脳内サーチで考え続けることで起きる。

最初に問いをインプットしていないと起きない。

なぜだろう?こうなのか?ああなのか? 考え続けている中で、大体、3上、で、ある日突然の理解、は来る。3上というのは考えていないとき。トイレ、お風呂、散歩。なので、いくら考え続ける、と言っても、文字通り、デスクにへばりついていては、できない。

例えば、水泳を習得するなら、水の球をつかむとはいかなる意味であろう…と思い続けながら、ただ家にいても習得はできない。泳ぎに行くという具体的行動が必要だ。

なにしろ、我々は物質界にいることを忘れてはならない。スピの人は、おそらくそこらへんが間違っていて、物質界の行動を伴わずに、思考は現実化する、と思っている。ただ念じるだけで、思考が現実化することはない。念じた結果、思考が行動化し、その行動が現実を作る。原因と結果の法則から我々は逃げられないのだ。

今まで独学で習得したことで、そうでなかったことは一個もない。

■ 常人には理解されがたい成功の形

さて、登山での成功、そしてクライミングでの成功、についてだが、常人には理解そのものができない。例えば、夫は全く私の成功を理解していない。

私の成功は、一般の人に理解しやすい、本が売れる、人気者になる、有名人になる、お金持ちになる、ということではない。もとより、私の登山がそのような価値を求めるものでないからで、別にそうなりたいと思ったことがそもそもない。その辺の男性クライマーと同列に扱わないでほしい。

私の成功を説明すると、40年前の山岳会のリーダーだったり、トップクラスだったりした人がやっとこさ40年の研鑽の末、たどり着いた境地に、3年でたどり着いた、ということだ。

これはひとえに青ちゃんが自分の娘ばりにかわいがってくれたためだ。指導者は、どうやってか、自分が教えられる最高地点に、教えらえる側を導きたいと思っている。その成功事例だ。私自身、感謝があったので、それでUIAAの書籍の出版契機を作ったことで、登山界への恩は返せたかな、と思っていた。

問題はここからだ…。

■ 問題1

私が感謝の念を持っていることで、護身にスキができた。

例えば…技術の未熟な人でも、より上級の山を経験することで成長できる…と知った。私の荒船山昇天はミックスのルートで、現代のトップクライマーが、5000、6000mの標高に、このようなクライミングを持って行っているのだ、ということが分かった…。これは青ちゃんの親心が作った山だ…。

それで、たとえ、自分の山を自慢したいだけの人でも登ればわかることがある、とより寛容になった。そのため、防御が甘くなり、それは白亜スラブで結実した…。殺されかけた。

これは、感謝のダークサイド、いくら感謝が心の健康に良くても、それが、

 トンデモな人に容易に利用される人格

を作っていては、全く逆効果なのである。寛容と脇の甘さは異なる。

■ 問題その2

私がUIAAとのコンタクトで、登山総合アルパインの出版契機を作ったことで、多くの人の嫉妬を招いた。

ある女性クライマーとか「私だって英語さえ話さればできた」と言ったのだ。

その書籍、何年もずっと、インスボンの登山店で、ほこりをかぶっていたので、インスボン大好きの日本人クライマーが誰も目にしなかったとは思えない。特に老年期の定年退職クライマーは、宿にズラリと名前が記帳してあった。ので、結局、目に入っても、行動化を誰もしなかったのである。

日本の登山・クライミング界は、俺だって一人で成長したんだ、お前らも勝手に頑張れよ、という論理で貫かれている。私のように、次に続く人がより良く学習できるように、と考えている人は、まぁ数えるくらいしかいない。そのうちのほぼ全員が知り合いか、友達だと思うが?

で、グレード追っかけクライマーに甘くなってしまったおかげで、殺されかける羽目になったんだが、これはもういい。解決した。

おかげで、父親に水に落とされたという言語化できずにイメージだけだったトラウマが発見でき、今は水泳という生涯、趣味にできそうなアクティビティに結実間近だからである。なんせ泳げないせいで、ラオスで、ピクニックがあったとき、みんなが池に飛び込んでいるのを、「いいなぁ」と思いながら、ただ見ているしかなかったんである。金づちは自覚があった。パーティの壁の花みたいなものだ。

さて、私が行動化したいのは、

 自分の人生を生きる、

ということについてだ。具体的には、

 アクティブにスポーツとともに生きる人生をきちんとまっとうする、

ということについてだ。80代の水泳の先生たちを見ていて、素直に素敵だなぁと思う。

ところが、しつこい罪悪感が障壁となって、行動化できていない。

罪悪感の源泉は、どこなのか?が良く分からない。 

しばらく取り組んでみたが、親子関係には、原因はなさそうだ。

症状は、近づいてくるクライマーが全員、私からなんらかの利得を搾取しようとしている、こいつはお人よしだから利用してやれと思っている、サディストに見えていた。

…この症状は、大体あっているってことで、解決した。

あまりに全員がサディストに見えるので、ヒロさんに紹介された萩原さん(すでに亡くなった)や、小鹿野のまささん、クライミングインストラクター協会の会長の奥村さんまで、私を殺しにやってきているのか?と疑心暗鬼が止まらなかった…

奥村さんには悪いことをした。なんせ、せっかくビレイ講習を開いてくれ、たぐり落ちでも、ちゃんとキャッチできる、というデモをしてくれたのに(背の低いクライマーのリスクは手繰り落ち、で、これは、最もやってはならない危険行為とされているんだが、したくなくても、なってしまうのである。なんせピンが遠いわけで)、「だまされてはいけない」と叫んでしまったのである。

あれは、今考えても、なぜそういう言葉が出たのか不思議で、奥村さんのビレイなら登れるけど、当時、相方のA木さんは、俺はできていると思うタイプで、講習にも出る気がそもそもないし、私の周囲の人は、何人も声をかけたが、ビレイ習得に対する意欲が低く、自分は勉強する気がないのに、相手にばかり確実なビレイを要求するという自己中タイプのようだった。そもそも、俺はビレイできている、と思っているから、奥村さんが指導者でめったにない機会なのに、講習にも来ない。費用もたったの1000円なのに。

つまり、愚かな人にどれだけ機会を提供しても、本人に意志がないから学ばないってことだ。

カットアンカーが危険だ、という私のしごく常識的な指摘については、文部省登山研究所から、黒田さんが論文を書いてくれた。その上、日本の登山教科書の”高みへのステップ”が、30年ぶりに再販されることになった。

が、まぁ問題は、上記のように、そもそも学ぶ気がないこと、意識レベルが低いことだ。

男性クライマーや登山者は、自分たちがどうやって一般登山からロープが出る山へ、何を学べばいいのか?という、山の要素の因数分解ができない、平たく言えば、分かっていないことが分かっていないので、まぁ巷の山岳会を見ていると、それらが遭難防止という、行動変容につながったか?というと? 全然、変わっていないだろう。相変わらず、隣の人を模倣していればいいという発想のままのようだ。

私が軽々と超えたラインが越えられない人たちなわけで、気の毒だなぁとは思うが、会に入ったら、私の命が脅かされてしまう。

彼らが自分たちの判断力が上だ、という固定観念が壊せないからだ。

ツヨツヨクライマー排出で歴史的に鳴らしていた福〇山の会のていたらくを見ると、あきらかだ。私をビレイしている間に、もう一人登っていたんですからね、いったいどんなビレイだ?

さて、そんなこんなで、私の山のジャーニーは、一時停止中だし、それは正しい。

これ以上の経験は積むだけ、失望という山の高さを高くするだけだ。

私が行いたい行動変容は、そうした障壁をうまく避けつつ、日本に健全な生涯スポーツとしての市民クライミングを根付かせること。なぜかというと、根拠もなく危ない危ないの大合唱で、挑戦をそもそもしない自己正当化を日本国民はこれでやめることができるから、だ。

で、その手段には、

・クライマーズウィロストの日本における創設

・AACの事故報告書が年次で出版されているように同じものを日本でも出版

・アクセスファンドの公的組織立ち上げ

の3点である。

特に最後のものは、大事で、日本では、クライマーがあまりに愚かなこと…自分で自分の首を絞めること…をするので、大体の場合、地主が忍耐の緒を切らして、岩場閉鎖になる。

慣れているクライマーは岩場閉鎖になっても、誰も見ていないから登る。

むしろ、一般クライマーが来なくなってラッキーくらいな勢いである。要するに、不景気になっても消費税上げれるからラッキーと思っているくらいの自民党や、大雨で災害が来ても、地方交付金を削られずに済むからラッキーと思っているくらいの地方行政と同じで、後退することが、二次利得になっているのである。

一般に、高度な記録、世界の最高難度、などの記録は、第2登が出て、それが本当にその難しさだと認定されなければ、記録にならない。ところが、岩場が登攀禁止だと、その確認作業ができない。しかるに2登者が迎えられない。これも言いっぱなしで、栄誉が得られるという二次利得になってしまっている。

そんなこんな日本のクライミング行政… 原因は?

ある弁護士によると、ガバナンスの問題、だそうだ。これはオリンピック委員会と同じで、

 腐敗が原因

って意味だ。弁護士に言われるくらいなんで、正当な指摘であろう。

ようするに登山行政、クライミング行政に携わる人たちがみな、汚職中って意味です。

では民間の活動はどうか?というと…ヤマレコやヤマップのような新しい動きがあっても、パブリシティ寄りってことは、結局、人気投票で、自己顕示欲の山、を推進してしまう論理構造の上にあるってことです。

いや~、こんな日本に誰がした? 私じゃないぞ?

さて、こうして健全な義憤が出てきたところで、これで行動化できないのは、いったいなぜか?ってところが問題なのです。

私の行動変容の妨げは罪悪感、と言うところまでは突き止めているんだが…

いったい私は何に贖罪したいのであろうか?

           自分の歩んだ道を振りかえったところ