■ クライミングの意味
クライミングは総括すると、私にとって
父がなぜ私たち兄弟3人を捨てたのか?
を理解する場となった。答えは、ただ単純に 少し先を考えていない、というだけだった。やったらやりっぱなし、かっこいいかどうかが行動原理で、リスク=安全管理や相手の生命より自分の短期的な欲求の解放が上、というのが、ごく単細胞なクライマーの行動原理なのだった…(汗)。 事実は、残酷だが、よく理解はできた。
従って、親子関係のラスボスの中では、父との関係を清算というか、消化する機会・時間、というのがクライミングの意味だ。
■ 自然農の意味
自然農は、クライミングに変わるステキな活動としてここ3年ほど取り組んだが、
なぜ自然農の理念ではなく、川口由一という個人を崇拝することになるのか?
ということについて理解が進んだ。
日本では儒教の影響が強く、キリスト教とは違う意味で、自己犠牲的な父母への報恩を義務化されている。
実際、自然な情として、女性には、他者をいたわりたいという本能が備わっており、それは20代の若い間に発現するが、その気持ちは、親となった時、子供の奴隷となって、子を中心とした生活を苦と捉えないために神が備えた能力、と思える。
その能力=母性に甘えようとする人は、男性女性を問わず、依存的な人、おかもん仏教説話で言うところの、我利我利亡者として、発現する。
つまり、
・精神的に自立が出来ていない人が子役となり、
・自分の身を顧みず、他者のニーズにこたえようという過剰適応を起こしている人が親役、
になり、共依存が出来上がるのだ。
この共依存の成り立ちが理解できたのが、自然農、だった。川口さんの代替え人物=指導者のいうことは丸のみ、という状況で、例えば、4時間炎天下で酷使されることも恍惚、とかそういう倒錯したことになってしまう。(健康に悪いと教えても、辞めない)
アルパインでも昭和の教え方の人たちは、そうだ。先輩の言うこと丸のみ。師匠の言うこと丸のみ。
共依存状態にある人は、この心的状態が快適すぎて、その依存から逃れることができない。
とくに依存する側。される側ではなく…。される側が共依存が終わるとき、去る側だ。
■ 縁の質の見極め
仏教では、人との縁は、コントロールできないもの、とされる。
分かりやすい事例は、子の巣立ち。子は親離れしても、親は子離れできないことが多い。
どんな関係でも、追いかけていく方が基本的には、メリットを享受している側だということが言えるだろうと思う。
クライミングでは、バディを組むので、その人間関係でどのような関係性か?というのが、クライミングライフの幸福の大部分を締める。
仮に、一度バディを組んだクライマーと縁に終わりがきた時、追いかけてくることがあれば、その関係は、相手にとってよりメリットが大きい関係だった、平たく言えば、50:50の関係ではなかったということが言えるだろう。
■ 縁は選ぶべし
縁というのは、選ぶべし、だと私は思う。選ぶ基準は自分が快適に感じたかどうか?ということによるべきだろう。認知行動療法によると。
今回は、おかもん先生の仏教説話講座を開くことができ、楽しかった。
人生において大事なことは何だろうか?どのような過ごし方をするのが大事だろうか?
私は、無邪気に自然と戯れることが人間性の霊的な成長に強く関連があると思う。
なぜなら自然界の在り方というのは、無言の教えで、無言の教えというものは、前提から学ぶものであり、前提というのは、すなわち無意識のことであるからだ。
昨日、はバナナボートに乗って、非常に楽しかった。そういう無邪気な喜びを失ったことが、現代人が感情開放に疎くなり、自己破滅的手段に訴えることがある、ということにも、つながっているような気がする。
いうなれば、リストカットするくらいなら、バナナボートで絶叫しているほうがうんと健全だということだ。
クライミングも同じで、
・リストカットの試みに値するのが、大ランアウトであり、無謀なトライ(根子岳だの、ノーマットだの)であり、
・バナナボートで絶叫に相当するのが、きちんとしたクライミング
ってことだ。
ということで、クライミングに接することがなくても、同じ経験ができれば、私には
MTBでもバナナボートでも良い
ということの確認になった。
昨日は、一緒にバナナボートに乗ってくれた、ともこさん、先生、ありがとう!