信用残高という考え方があるのをご存じだろうか? 人は相手を信用するとき、残高を積み上げる。
しばらく前に失望を味わった。失望が大きかったのは、理由がある。パートナーを信頼していたからだ。
信頼と言うのは曲者だ。信じれば信じるほど、失望の幅は大きくなる。
しかし、失望の痛みを恐れて、信頼しないと言うのは、弱虫のやることだ。
■ 同レベルと登るのが一番楽しいこと
そもそも論になるが、クライミングというのは、レベルが同じくらいの者同士で登るのが一番楽しい。
それは誰だって知っている。
だから、すごいクライマーがそのまま自分に合ったクライマーとは言えない。
レベルが離れすぎていると、互いに登りたい課題が違ったりして、楽しめないものだ。
そんなことは改めて言わなくても、誰にでも明白で、私が一緒に登って一番楽しい人は、正直な所、すごいクライマーではない。(すいません)。
しかし、休みの都合などで、そうそう、いつも釣り合ったパートナーと登れるとは、限らない。誰にとっても、パートナーというのは、そういう事情であり、相手が理想的な相手ではなくても、まったく登れないよりは、うんと良いのだ。
だから、パートナーには常に「ありがとう」と言う。”当たり前”の反対語としての”ありがとう”、だ。
そういう風に妥協しているのではあっても、それを「妥協です」と、面と口に出して言う必要はない。
それどころか、害悪だろうから、誰も言わない。言わなくても分かるからだ。
そもそも、大抵の人にとっては、きちんとビレイしてくれる人なら何でもいい。
プロがプロジェクトを登るときだってそうだ。そもそも、ビレイだけで謝礼が出る。時給千円。でもクライマー同士なら、返礼は、代わりに一本ビレイする、で良い。
でも、そんな自己中心的で、アケスケなことは誰も言えない。
一方、誰でも登れないところも、触ってみたい。だから、トップロープになれば、もっといいな~と下心があるが、それは贅沢というものだ。
初心者の場合は、その贅沢を贅沢とも知らないで、当然視しているから、参ったな、になる。
■ 見返り?
そういう訳からか、初心者には、見返りを要求するベテランもいる。
みな内心は、もっと見返りが欲しいらしい。トップロープ張ったんだから、ガイド料を払ってもらいたい、そんな気分なのかもしれない・・・。
それを知ってから、私はいつも小川山の駐車料は払うことにしている・・・。
イコールパートナーなら、お互い様、なので、信用残高の貸借対照表は、貸し借りゼロだ。
■ 出世魚
そもそも、クライミングは難しい活動で、1グレード上げるのも、大変だ。すぐに上達はしない。
クライミングの上達には時間がかかる。しかも、クライミングには、”センス”の有無が大きく関係している。
それでも、無いセンスを頑張って、みな11だの、12だのまで頑張る。最近は、センスがある人なら、1年で12まで行ってしまう。
すぐに習得するタイプの人、登れる人は、もっと登れる相手と登りたくなって、次々とパートナーを出世魚のように脱皮して行ってしまう。
だから、置いて行かれる側は、とても寂しいものだ。
しかし、置いて行かないで、と泣きつくわけにもいかないし、恩知らずと、ののしるわけにもいかない。だから、一抹の寂しさを感じつつも、受け入れるしかない。
だから、登れない時代に一緒に登ってくれた人は恩師だ。
そういうことは、昨日クライミングを始めたような、経験の浅いクライマーにだって、1年も登れば、すぐに明らかになる。
ちゃっかりしている人は、お得な部分だけを吸い取って、恩は着ない。そういうちゃっかりタイプとだと、寂しすぎて、捨てられる前に自分から捨てる人もいる。どうせ相手はすぐ自分を捨てるだろうから・・・、ということだ。
残念ながら、私はあまりちゃっかりしているタイプではないので、なかなかそういうことはできない。
いいとこどりはできず、結局、損得勘定なしで、不器用に2年待っても、自分の力でルートに行く方を取る。
■ 過去の傷
しかし、大変だった。過去の傷が大きく傷口を開いた。まるで狙いを定めて、傷をえぐりだすようだった。
つらかった子供時代が思い起こされた。残酷だ。
苦しみの理由は、そんな過去の話を持ち出さなくても、パートナーの信頼を得ていると、それだけ厚く信頼していたからだった。
私と過ごす時間が他の人より長くなり、理解してもらえていると期待していた。
が、仕方ない。
自分のことは、ほとんど話をしていなかったからだ。その必要があるとは、思ってもみなかった。
クライミングするのに身の上話が必要とは思わなかった。
私の去年の登山日数は100日越えである。それだけで十分、分かってもらえると思っていた。
■ 情熱
登山の実力というものが、どういうものを指しているのかわからないが、山の内容はどうあれ、100日以上、山に登る人は、努力と情熱を傾けている。そのことは誰にも明らかに分かる。
努力は、意思のなせる業。結果は、運と実力。
結果(グレードや本チャンルートの凄さ)が出ても出なくても、努力自体(プロセス)に意味があるのが、趣味というものだと思う。
だから、結果(=実力)で判定されることは、理不尽だったし、それに私は客観的に見ても、登山者として見たとき、キャリアの浅さに比して、実力不足でもなんでもない。
トントンどころか、その浅いキャリアで良くやってるね~ってところだ。
でも、まぁ同じように浅いキャリアでも、スイスイ登る人もいる。それは認める。才能の差だ。
才能の有無は運みたいなものなので、才能がある人と登りたい人はそうするしかない。
■ プライベートを語る
私はあまり人の人生には興味がない。人のプライバシーに興味がないのは、良いことなのだと思っていた。
山は人を区別しない。苦労した人も、苦労していない人も、山は山。だから、山はいい。
私自身の生い立ちは、大抵の人よりも、苦労した話だ。
たいていの人は面食らい、受け止められない。
そんな話を誰かに語りたいとも、あまり思わない。頼んでもいない同情を買って、えこひいきされるのは嫌だし、そもそも、思い出すと、痛みで涙があふれてくるからだ。自己憐憫に染まるようで、好きではない。
でも、中には、自分の人生を語る人もいるし、人は語りたいことを語りたいので、大抵は聞く側に回っている。
なぜ家族の話や人生の話を聞いているのか、とても不思議な気分になる時もある。
そういう話をする人には、お返しの話が必要なのかもしれなかった。
■ 裏付け情報?
私は、元々あまり詮索好きなタイプではない。
私は人を信頼するとき、目の前のその人以外の情報をあまり必要としない。
今から築く人間関係に過去の履歴書が添付していないと不安になる、ということはない。
目の前の相手の言動と態度だけを見て、信頼できるか、できないか、判断できる。
その判断力には自信があり、これまで、あまり失敗したことはない。それは確実に強みだ。
予断や前情報、名刺に書いてある会社名では判断しない。
しかし、多くの人は、そうではなく、相手を信頼したい!と思った時に、過去の情報や所属、その他地位を表す、何らかの情報を求めるようだ。
例えば、職業は何か?結婚はしているのか?
それは自分の判断力に自信がないからかもしれない。
あるいは、目の前の情報と履歴書を突き合わせて、納得したいからなのかもしれない。
有名大企業の名前を出すと、「なるほどね」と落ち着いたり、「子供は欲しかったけれど、できないんです」という当たり障りのない言葉を聞いて、安心したりする。
■ 関係を深めるのは怖いもの・・・
私が疑問なのは、相手が求めている私からの受容、アクセプタンス・・・言い換えれば、安心や保障・・・を、どうしたら、相手が満足する十分な量だけ、与えることができるのか?ということだ。
平たく言えば、一体何を差し出したら、相手は安心と満足を得るのか、ということだ。
■ 過剰反応
人は誰しも心に傷を抱えている。癒されない傷もある。そうした傷をなでる言葉には、普通の対応ではなく、過剰反応してしまう。私自身もそうだ。
子供の養育が大変だと言う愚痴が私にとってそうだ。
そうした愚痴を聞かされると、私自身がその問題の解決をなんとかしなくては!という気持ちに駆り立てられる。
それは、子供に同情するからだ。親の側ではなく、子供の側に自分を重ねてしまう。
親が苦しんでいると、自分のせいだと感じるのが子供なのだ。これは、どの子も普遍的にそう感じる。
たぶん、愚痴っている当人が得たいのは、ただの慰めの言葉だったかもしれない。
・・・が、私には子供が多くて養育が大変だと愚痴っている人を慰められない。それは、その人が担って当然の苦労でしかない。
子供を持つという選択をその人はした。選択には責任がつきもので、経済的苦難のあることは、最初から分かっている。
その愚痴の共感者役を、私に求めるのは、男親に捨てられた娘であるという過去からして、非常に酷なことと言えるだろう。
■ 過去を赦す
私はつらかった過去は断ち切りたいと思っている。
結婚する相手を間違った母を許したいし、充分なだけの収入がなかった母を許したい。
私と弟と妹と母を捨てた父を許したい。
経済的に困窮するシングルマザーの娘を助けなかった祖父母を赦したい。
孫を助けてくれなかった祖母や祖父を許したい。
25歳にもなって、姉の私の家に転がり込んだ妹を許したい。
私の結婚式でバッグを無心してきた祖母を許したい。
年金代わりにまだ26の私へ無心をしてきた祖母を許したい。
そして、そうした家族の求めに応じられるほど、強くなかった自分を許したい。
いまだに弱い自分を許せない自分、それさえも、許さなくてはならない・・・。私は弱く、無力な立場にいる。
「男の子でさえあったらよかったのに・・・」という皆の、溜め息が聞こえてくる。でも、私は女の子に生まれてしまったし、期待には応えられない。
■ 自分自身を見た
愛する家族の皆を救う、スーパーマンになれたら、どんなに良かったろう・・・かつて、そう思っても、いた。でも、冷静に考えると、どんな人もそれぞれが自立すべきだ。
だから本当はスーパーマンなんていらない。子供に必要なのはお金ではなく愛情だ。
それでも、困窮することは怖い。怖いのは人の弱さで弱さは許されなくてはならない。困窮しても死にはしないが、大変なことはやはり大変である。
誰かに頼られるのも、大変で苦しい。みなが頼るスーパーマンであっても、やはり人は人だ。
人と人は、学びあうことあるから引合される。出会いに偶然はない。
私は、私自身をその人の中に見た。家族の中で、唯一まともな判断力が備わっている人。現実を動かす力がある人。
そのことは、昔、恋人のデイブに指摘された。
You were the only one who understands things.
物事が見えている人が引き受けざるを得ない。 大体いつもそうなる。山でも同じだ。
■ ディストラクション
本来やるべきことから目が逸れてしまう場合、距離を置かなくてはならない。
ただ楽しいはずのクライミングが楽しめず、めんどくさいな~ = タイムオフ。
本来、人生のモロモロ・・・そういうことをすべて忘れられるのが、山の良さ。
とはいえ、人は弱いもの。弱さは許されねばならぬもの。