2016/08/29

類は類を呼ぶ方法

■ チャンスロスはない時代

今日は、こんな動画が回ってきた。すごいギタリストだ。

現代は、自分自身が何ができ、どういう人間なのか、誰かに見出されなくても、自ら世界に発信することができる。

つまり、”才能があるにも関わらず、才能が見出されない”という古典的な機会喪失は、経験しなくて良いのだ。



ちなみに、ネット上で新人アーティストの登竜門としては、次のようなものも有名だ。

Jango http://www.jango.com/  著作権切れの無料音楽が聞け、数曲に一曲、無名アーティストの曲が混じり、投票によって、アーティストは世間の評価を聴くことができる。

http://thisisgallery.com/  画家の作品発表の場。

これは、芸術活動だけにとどまらず、才能を見出されたい運動系の人たちも、かならず自分のサイトに、動画なり、作品なり、自分の才能を表現するもの・・・を置いている。

■ 一億総表現者の時代

クライミングはクリエイティブなものだ・・・と言われる。

私自身は、まだクライミングが創造的なものでることを理解するための、ベーシックなスキルを得る途上にあり、クライミングにおけるクリエイティビティについては、全く理解の範疇外だ。

ので、クライミングにおけるクリエイティビティをここで論じるつもりはない。

が、創造的なクライミングをしている人は、それを表現者として世界に示すことができる。

今、ここで論じたいことは、創造性を、あるいは、単純に自分らしさ・・・を理解してもらう、理解する・・・のは、世間の側の責任ではなく、表現者の責任である時代だということだ。

世間に見る目がないから、俺の(私の)才能が埋もれているという、古典的言い逃れは、もはや現代では通用しない(笑)。

■ 等身大の自分をさらけ出す

たとえ、創造者と言えるような上級クライマーではなくても、当サイトのようなサイトは有効だ。

クライマー間で、パートナーを組む場合、最初に問題になるのは、

 相手が安全な相手かどうかワカラナイ

ということだ。

面接でも履歴書を見るだろう。その履歴書に相当するものが必要だ。

むろん、半径10mでパートナーニーズが満たせるような、幸運な環境にあれば必要がない。しかし、現代では、そのような恵まれた環境にあることはおそらく稀だろう。

パートナーは全国に散らばっていることが多い。

現ナマ情報、つまり、登ってみて、ビレイヤーの手元を見て、あるいは発言を聞いて、そのクライマーを理解する。それが基本だ。面接と同じことだ。

しかし、それには、相当な洞察力が必要になる。このような洞察力は、人生経験に属すため、一朝一夕に得ることはできず、結果として、洞察力に欠ける人は、誰が見ても危険な相手だと分かるクライマーを避けることができないかもしれない。

それにまた、自分自身が相手を危険に陥れないためには、

 等身大の自分を理解してもらう

必要もある。 自分の至らなさが相手を危険に陥れることは、避けては通れないことでもあるのだ。

登山の安全は多くは、過信にあり、過信が起らないためには、客観的に自分の実力を評価できる、ということが必要だが、それが非常に難しい世界であることは否めない。

安全かどうか、ビレイが確実かどうかの端的目安は

 経験の量

である。経験は年数では情報に偏差が大きすぎる。登山歴10年のベテランと言っても、1年に数回登山するレベルだったりもするからだ。

登山歴が10年であっても、ムンターで懸垂下降することもできない人もいるし、気象判断、危険の認知などになると、ほとんど意識の差になってしまい、何年の登山経験があっても、リーダーのあとをついて歩くだけの登山をしていた人は、まったく無知と等しい。

ので、そうしたことは、表現されなくてはならない。

表現することで、その登山者の身の丈の姿が表現され、そして、表現されると言うことは理解されるということだ。

≪クライマーズサイトの利点≫

 1) 自分のポリシーが明らかになることによって、自然と危険なクライマーを遠ざける
 2) 自分の履歴書となる
 3) 等身大の自分の姿を知ってもらうことにより、相手も安心が増す

■ 類は類を呼ぶべし 

逆説的だが、サイトを作れば、個性は否応なしに表現されてしまう・・・表現したくなくても、出てしまうのが個性なのだ。

好みがあう、嗜好があう、そういったことは、視覚情報だけでなく、文字情報だけでもなく、非言語な情報が必要だ。

自分自身のカルチャー、価値観、そういうものが表現される、されてしまう、のは、

 類は類を呼ぶ

ことになり、人生の質を上げるため、歓迎すべきことだ。