アメリカで有名なトークショーがある。ラリーキング、ライブスペシャル。アメリカ版徹子の部屋と言ったらよいだろうか?
そのトークショーで、かならずゲストにする質問がある。
What turns you on?あなたをその気にさせるのは何ですか?いうことだ。(文脈に気を付けないと、エッチな気にさせるの意になる)。
Turn on の反対は、Turn off。 あなたをゲンナリさせるものは何ですか?
■ What Makes me turn on?
人生で大事なことは、何が自分に火をつけるのか知ることだ。
私の場合は、知的探究。
クライミングも、登れるようになりたいのではなく、登れた結果、知ることができるだろう、その心境を知りたい。
最初の頃は、山自体をあまり知らなかったので、地理的な探究心が大きかった。北アってどんなところかな?とかそういうこと。
でも、行ってみたら、人で大混雑でゲンナリのお祭り騒ぎの場所だと分かって興味が一気になくなった。山小屋泊まりの山には、もう全然興味が湧かない・・・。
ベテラン、ルグリのドキュメントを見ても、まだダンサーの卵のドキュメントを見ても、心を打たれる。
だから心打たれるのは、生き方であって、”成功”にあるのではない。
だから心打たれるのは、生き方であって、”成功”にあるのではない。
そのような生き方が素晴らしい!と感じる。子供のころは修道院に憧れており、中学の頃は海に生きる航海士の生き方に憧れた。ヨガのグールーの生き方にも素晴らしさを感じるし、料理家もそうだ。
一つのことに自分をささげ、突き詰める生き方、ひたむきさが好きだ。実際バレエを習っていたときはそうしていたような気がする。価値基準がひとつの指針に収れんされるのが好きなのだ。
海の生活は、海が掟だから好きで、山が好きなのは山が掟だから。基準が明確。人を基準にしてはいない。
良い意味でのアマチュアリズム。現代は、職業バレエダンサーではなくても、それができるラッキーな時代だ。趣味だから才能の有無は関係ない。
それが素晴らしい点なのに、それでも職業ダンサーの階級制と同じ思考で考えて、報われないと言って、つぶれてしまう人が多いのは残念なことだ。
仮に報われてしまったら、職業ダンサーにならないといけなくなってしまう・・・報われないからこそ続けることができるのだ。
それは子供からやった人を見れば分かる。みな三羽の白鳥まで行って終わり、二度とバレエをしない。三羽の白鳥が踊れて5年でバレエを辞めるのと、踊れなくて、20年ずっとバレエしているのとどっちがいいだろうか?
同じことがアルパインに言える。バンバンやっていた人は引退が早い。
というわけで、ここしばらく、私の人生は山一色で、幸せだった。
今はフリークライミングを基準に生活を組み立てようとしており、それはそれで、幸せ。
個性。個性的な人が好きだ。変わった人のほうが興味がわく。芸術家連中はみんな好き。これは母が芸術家で、東京女子美卒の人だったから。
クリエイティビティ。創造性と想像性。そのために必要になる基礎力は地道だ。
■ What makes me turn off?
逆に、萎えてしまうのもある。
自己顕示欲。ミーハーリズム。ナルシシズム。競争。名誉への渇望。嫉妬と羨望。結果至上主義。悪いアマチュアリズム。過保護。偏狭。群れ意識。損得勘定。階級主義。
クライミングしていて、後ろから、カッコいい~と言われると萎える。カッコよさのためにクライミングしているわけでないからだ。
バレエの時も、キレイですよ~と言われると、なんだかうまく行かなくなっていた(^^;) 私の場合、他人の目を意識させられるような言葉を掛けられると、途端に下手くそ化するのだった(笑)。
つまり、そもそも、みんなに見られているから頑張る、という報酬体系にないわけなんだな。
”誰もいなくてもやること”が、その人が本来好きなことで、やるべきことだ。
クライミングで後ろから、ごちゃごちゃ言われても萎える。瞑想中なんで、黙っていてください、な感じ。
誰もいない山が好き。山とだけ向き合っていたいから。大勢でわいわいってのは大の苦手だ。だから、おばちゃんといく山はうるさくて嫌い。
でも、バレエのコールドで踊って揃うと気持ちがいいなと思うんだけど・・・ バレエを習っていた女性はみんな、男っぽい性格の人が多く、付き合いが楽だった。
登山の女性は湿っぽい性格の人が多く、イチイチ面倒を見てやらないといけないので疲れる。
クライミングも同様で、曖昧な言い方だが、女っぽい性格の人とは疲れる。そして、なぜか女っぽい性格の人はクライマー内にもいる。嫉妬心の多い人、人のモノを取りたがる人、楽しそうにしていると混ぜてもらいたがる人、つまり他人の芝は青いってタイプってことだ。
■ 考えられる欠点
物事には何でも、二面性がある。
というわけで、求めるものを得ても、副作用と言うようなことはある。
副作用として考えられること
・飽き
・早とちり
飽きと早とちりは、どちらも頭の良い人に見られる欠点だと言うことを、非常に頭脳明晰な師匠から学んだ。すぐ理解するから、すぐ飽きるし、その”すぐ”には誤解がかなり含まれるのだ。
・偏り
一つのことしかしないと言うことは、偏るということだ。バレエはバレエダンサーの形を作る。水泳をしていれば水泳選手の体格になる。つまり、言い換えれば、奇形を作っている。
なので、偏りを取り除くための カウンターバランス的な活動 が必要になる。
・一歩進んだ理解
偏りについては、肉体的な方よりだけでなく、考え方も偏る。職人も同様だし、サラリーマンも同様で、物事の味方も偏ってくる。男性か女性かという事でも同じで、男性は女性の視点に立つことができないし、女性は男性の支点に立つことができない。
ので、包括的な理解、鳥瞰図的な理解、相互理解、など、より一歩進んだ理解が必要だ。
・寛容と謙虚さ
そのためには、小さな相違点にとらわれない寛容の精神が必要だ。なにしろ、相違と感じられたことは、誤解に基づく可能性もあるのだから。そう思うことは謙虚さの表れでもある。
・ヒューマニティ
相手の立場に立つ、気の毒に思う、そういう心が必要だ。ヒューマニティは子供にはない。子供は自分のことしか考えられないから、とても残酷。
というわけで、ヒューマニティ(慈悲の心)は、精神的成熟に基づく。
・純粋さ
一方子供から学ぶべきは純粋さだ。単純であることは美徳だ。
頭が良いと言うことは思考が深いということであり、思考が深まれば、複雑にもなりうる。
頭が良いと言うことは思考が深いということであり、思考が深まれば、複雑にもなりうる。
思考と感情が切り離されることも起こる。そういう場合は、羅針盤とすべきは、純粋さをもとめることだ。
基本に立ち返る、という言葉で表現されることが多い。
■ 外発的モチベーションは本来の姿を現さない
人間が持つモチベーションには、内発的なものと外発的なものがある。
大人はモノで子供をつるので、「100点取ったらおもちゃを買ってあげる」式に教育された人は、なにか得がないと動かない人間になる。
山でいうと、いま行っておくほうが得、というようなケース。せっかく来たのだからも入るかもしれない。
そうではなく、内発的なモチベーションで行うことが、その人がやるべき真の活動だ。
思うに、内発的モチベーションを山に感じている人が山ヤであって、それは会えばすぐ分かるようなことなんでは?
今までこの人は・・・と思ってくれた山ヤの先輩は常にこの点でつながっていると思う。
今までこの人は・・・と思ってくれた山ヤの先輩は常にこの点でつながっていると思う。