2025/02/02

雪がない場所の人のための雪上歩行

 雪がない地域の人のための雪上歩行

雪上歩行は、いろいろコツがあり、てってりばやいのは雪の山に直接言って練習することだが、そうもいかない。一度、習得した歩行は、別に雪がない無雪期の山でも普通に使える。

1)歩幅は自分の腸腰筋で引き上げられる程度なので、人それぞれである。その程度に合わせた階段を見つける。

2)見つけたら、下腹部を引き上げる感覚だけで足を上げる。膝は曲がるがそれは上げた結果に過ぎない。

3)着地(ランディング)は足裏全体。これはアイゼンを履いていて、すべての爪を地面に食い込ませるため。

4)足には2kgくらいのウェイトを付けたほうがいい。振り子で足を振ったほうが楽な理由が分かる

5)ランディングしたら、完全に1点に重心を移す。したがって、反対の足はアウトサイドのフラッギング的な感じになるはずだ。完全に1点にならないと、ピッケルと足の2点支持がわかるようにならない。

6)可能であれば、ピッケルを持つ。恥ずかしければ棒でも良い。どの傾斜で、どの長さのピッケルが最適か?が理解できる。

傾斜のきつい山では、短いピッケルが必要だが、傾斜の緩い山では、当然長いピッケルが必要になる。実際の山では、どちらにも合わせることはできないので、妥協が必要になる。

妥協する際に参考にする境界線は、北岳の雪渓や白馬の雪渓。これくらいでピッケルを出すようでは、山や失格であり、一般登山者の山に差し戻しである。あの程度の傾斜は、ストックで歩ける必要がある。

7)正対だけでなくクロスウォークも練習が必要。同じ階段でクロスウォークを左右で行う。

8)最適傾斜が分かったら、傾斜の角度を様々に変えて、同じウォークを練習し、それぞれのやりにくさを一つ一つつぶす。

9)どの傾斜から、1点支持が不可能になり、ピッケル(もしくはストックや手)の2点支持を自分が必要とするのかを調査する。 それがあなたのロープを出す必要がある、傾斜です。

これは人に拠っては4級、5級は90度以上ですので、4級は30度~80度まで全部を含むので、幅が広い。年を取っていても、体重が軽い人は傾斜に対しては強い。若くても、がっちり体系の人は当然だが傾斜には弱い。下半身が重い人も弱い。腹が出ていたらなおさら弱い。

4級は落ちたら死ぬか所を含むことが多いので、念のため、ロープを出す、と記述される登山道であることが多い。ので、リスクを感じたら即ロープで確保である。

一方、5級を登る一般的なデシマルグレードを登るクライマーにとっては4級でロープを出すのはバカバカしく感じるが、たとえそうであっても、足元が崩れるリスクは本人のクライミング力では解決できない。したがって、もろい場合は、2級でも、3級でも当然ロープが必要だ。クレバスウォークを見ればわかるでしょう。北横の大岩が堆積した場所は2級だが、岩と岩の隙間が、雪に覆われていて、どこが穴か分からない。落とし穴にロープなしで出かけて落ちれば、自己脱出はほぼ不可能である。九州ではこのリスクを経験しないので、2級でロープを出す意味が理解できない。

これが理解できないまま、甲斐駒など行ってはいけない。ソロ登攀でもロープはもっていくものだ。足元がもろいなと思ったときに、お助け紐的用途で普通に使えるからだ。

※ このやり方で、砂を雪の代わりにする、という合理的根拠はないと思う。砂=落ちても大した痛みがない、ので雪に対する敬意が失われ、むしろ、害があるような気がする。

以前、野北くらいアイゼンでガンガン歩いていますというコメントをもらったが、それが間違っていると思う。一か八かに慣れすぎていて、野北では落ちても落ちた先が海なので、死亡にならない。とはいっても死者の多い岩場だが、この姿勢が災いしていると思われる。

雪上歩行は、沢の高まきで出てくる誰にも踏まれていない崩れやすい急傾斜をこなすときの足さばきと同じだ。だから、野北の岩場をアイゼンで歩くくらいなら、沢登りを習得したほうがいい。

岩場をアイゼンで登る、と言う技術が必要な傾斜へ行く以前に、2級、3級、4級の傾斜のこなし方を習得しないから、北鎌尾根で死者を出すわけである。北鎌尾根で落ちるようなら、歩行訓練不足である。八ヶ岳の赤岳は、普通に一日で3周くらいしてください。それでも一般登山者にはロープを出す山である。高校生男子には楽勝の山と位置づけされているがそれも人に拠る。今時の受験付けパソコン付の人にはロープがいる。

九州の人は粋がるほうを技術の習得より優先しているので、それがほとんどの遭難や死亡事故の原因である。

九州の人を言ったが、大体の一般登山者も同じである。したがって、山登り、特にアルパインクライミングというのは、男性のエゴイズムを自覚する成長機会であり、自己イメージが現実と乖離し、自分の真の姿を客観的に捉えられなかったことが、失敗の本質である。