Fear is the LOVE LANGUAGE of the narcissistic relationship
■ 横山ジャンボさんの記事
ルートは誰のものか - ルート開拓・整備の課題と展望 と題する記事がある。
https://www.alpine-climb.jp/post/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E9%96%8B%E6%8B%93%E3%83%BB%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%AE%E8%AA%B2%E9%A1%8C%E3%81%A8%E5%B1%95%E6%9C%9B
この中に引っ掛かる一文があった。注文…のクリーニングの件で
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仲間や岩場で会ったクライマーは、おおむねポジティブな反応だったものの、もちろんネガティブな意見も存在した。曰く、「登れる者のエゴ」と。
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え?「登れる者のエゴ」??
注文の多い料理店ってそんなにすごいグレードだったっけ?と思って見直してしまった。手元にトポがないため確認できないが…そんなにすごいグレードだったはずがない…というのは、私が大学生の後輩を連れて登っていたころに、師匠が「じゃ、3人で」と提案したルートがここだったからだ。
当時、大学生のO君は、一年間の超親切な英才教育の結果も出ず、ビレイもままならず、ムーブも今からで、いくらエイハブ船長1級が登れても、私がリードできる5.9は、取りつくのも怖いということだったので、錫杖では、どう考えてもお荷物なんだが、そこは、歩荷力と相殺、という組み合わせで、師匠がリードし、私がO君を監視し、O君の歩荷力のおかげで私は荷を担ぐ労力から解放されて、足を引っ張らずに済む、というのが算段だった…
…ということから、逆算すると、今日登られているマルチピッチのような、高難度フリーではないようだったので、私も、いつか行きたいルートの射程範囲に入れたままだ。
そんなルートの錫杖、注文…で、「登れる者のエゴ」???
■ ”登れる?”ってどの程度のことを言うのか?
今の基準では、5.10代を登るテンプラクライマーは、登れる人、には入らないんだが…
登れる人って、5.13を登る人のことで、5.13ですら、もはや登れる人口が増えて、珍しくもなくなってきているような具合だ。
従って、5.12は男性なら、まぁいつも登れるわけではなくても、何か1本くらいは登れるルートがあるだろう。女性ならこれは、5.11となるだけで、グレードはスライド。
なので、特に努力を要するのは、男性なら、5.12以上から上、女性なら、5.11から上で、それ以下は、登れるって言わないんじゃないのだろうか…。
一応、アルパインのクライミングでは、2グレード下げて登れと言われている。墜落が、フリークライミングと違って致命的だから、だ。なので、5.9のルートなら、5.11がいる。それもRPではなく、11ノーマルは要るだろう。
でも、11ノーマルってそんなにすごいグレードか?というと男性の場合はそうでもないと思う。
もちろん、クライミングの種類にもよるが。フィンガーの11で指が入らない人など、どうすればいいのだってなるよなぁ…でも、注文がそのような凝ったルートとは聞いたことがないんだがなぁ。
…以上のような理由で、不思議に思い、引っ掛かっていた。
ジャンボさんほどの人ですら、クライミング界のルサンチマン…男性の嫉妬による足の引っ張り合い…には苦労するんだなぁと思っていた。お気の毒だなぁ。
そういう思いを持ちつつ、今朝出会ったのがこの動画だ。
そうか、登れる者のエゴという非難は、Unprocessed Shame(未処理の恥の感覚)だったのか。
おそらく、登れる者のエゴだ!と言って、クリーニングを責めて来る人は、登れない自分に対して、未処理の恥の感覚がある人だろう…
■ ジムの恩恵がない
昔のクライマーは、誰しもがクライミングジムの恩恵にあずかれたわけではない。
だから、ジム育ちクライマーと比べると、ムーブは稚拙だ。あれやこれやと華麗なムーブが出せるかという出せない。
かといって、ゲレンデでは俺が一番登れるし、いまさらお金を出してジムに行く気にはなれない。
いや、行っては見たが、逆に、体を壊す羽目になり、むしろ登れなくなってしまった…ということも多い。
というので、結局ジム通いは老体に鞭打つだけのこととなり、結局、普段通りのクライミングを続けることになったんだよなぁ…
ということが、正直な感想なんだろう…
■ 昔の人の登り方
昔の人の登り方は、誰でも使える、でっかいガバをつなぐことができる長身の人がリードして、あとの”そのガバに手が届かないみんな”は、フォローで登ってきたのだ…。
このことは、Tさんというヒマラヤ系の人とフリーに出かけて分かった。Tさんは年齢にしてはえらく長身(180cm)であり、私とパートナーが登れない課題を登ってくれたが、Tさんにとってはそのルートは十八番の楽勝で、いつもみんなに登ってあげて、ロープをかけてあげるルートらしかったからだ。
というわけで、昔の人は、リードを取ってきた山岳会のトップクライマーでも、そこまでフリークライミングのムーブの力は強くない。まして指力となると全然、だ。
それで、すでにフリークライミングでの成長が取れる年齢を過ぎてしまっているので、「いいなぁ、若い奴らは」という思いがあると思う。
■ 残念もあるが、なんで俺?いまだに俺?感もある
それが、残置がないルートでは、未処理の恥、という感覚につながるのだ。
俺なんてそんなに登れない、というセリフは、青ちゃんからもよく聞かされた。男性社会は、いつまでたっても誰が誰より登れたか?で競争しているものなんだなぁと思ったが…
競争をむしろ推進し、クライミングの多様な価値を無視してきたのが、これまでのJMSCAのスポーツクライミングへの傾倒だった。
みな、山岳会が廃れた、アルパインクライミングが廃れた、と言って残念がるが、上位組織の人たちが、最も推進しているのが、リスクゼロ、冒険ゼロのスポーツクライミングなのだから、因果関係はあっているし、若者たちは頑張っているのである。大人の言うとおりに。
さて、こうした未処理の恥の感覚の特徴は、ナルシストにとって(そして当然だが登山界にはナルシストが多いのは見て取れるだろう、みんなが山をやる理由は”山がかっこいいから”ではなく、”俺がカッコよく見えるから”、である。ヤマレコの記録を見れば明らかだ)、
いきなり怒る
という行動に出ること。周囲の人はなぜ、そんなに怒っているのか、分からない。
よく分からないが地雷を踏んだらしい…という風に周囲の人からは知覚される。
つまり、これを現実に翻訳すると、注文…に残置がないからって、なんでそんなに怒るのか、周囲の人は分からない、面食らう、ということになる。
つまり、ジャンボさん的に言い換えれば、「登れる者のエゴ」という非難を受けた、と実際に言われなくても、”感じられる”のである。
なぜなら、いつ爆発するとも知れない、怒りに対して、周囲のモノは、常にびくびくと怯えて行動をとらされるからである。
そうなると、周囲の側は、その地雷を踏むのが怖いので、相手に合わせた行動をとるようになる。
それはだんだんエスカレートし、しまいには、100%相手に合わせて行動しないといけない羽目に陥る。
これは、受動的だが、ナルシスト側のコントロール、操作なのである。
このナルシストが束になって、アルパイン界では大量発生している…のがアルパイン業界であり、古いクライマーにとっては、やっぱり、今の時代の人がうらやましく、そして、俺だって機会が与えられれば、登れるようになったのに…とも、思うし、でも、今教えている、若い奴ら、ロープワーク出来ねえじゃないか~という現実が、実際にもあるからである。
私の経験では山岳総合センターで会った講習生の男性たちですら、私に懸垂下降のセットの仕方を教わらなければならない人もいた。まだこっちだって、習って3日目みたいな状態なのに、だ。
結局のところ、ムーブはできても、リードを任せられる奴いねーじゃん、みたいな…ことになる。
結果、いまだに俺がリードかよ…とルートファインディングや、リスク管理、ロープワークの経験値上、ならざるを得ない。
師匠のようにそれが楽しい人はいいんだが、そうではなく、もう引退したいよ、という人もいるのであるから…。 俺がリスクを取ってリードを取るのに、なぜかセカンドのやつは、スイスイ登ってきやがるんだ?…というのが、面白くないのである。
俺だってリスクフリーでスイスイ登りたい=残置利用、ってことになる。
これは、往年の登山ガイドが、聞いてよ~と、セカンドでスイスイ登ってきた女性の愚痴を言ってきたことから分かったんだが。
■ 問題解決
個人に対する問題解決としては、未処理の恥の感覚が、登れるか登れないかに起因している以上、クライミングジムで、易しく登れる課題から、グレードを上げて自分自身が十分満足する難度まで登るしかないだろう…
現代の若者が、すっかり肉体労働がなくなったオフィスワークで余っている体力を消費することが目的で設定されているような、どっかぶり課題は、往年のクライマーたちには向かない。
かといって女・子供が登る垂壁に一緒に取り付く気にはなれない。
ので、おじいちゃん向けの壁を作ってあげるのはどうだろう。その際は、当然おじいちゃん向けと書かず、マスターズ、と書いておかなくてはならない。
それにこうした人たちに指への負担が重い課題を与えても、先に指が壊れて登れなくなるだけなのだから、私はアックスで登るドラツーは、ある意味、マスターズにおすすめなのではないかと思う。もちろん、上手に使わないとアックスが凶器になるのだが。
ちゃんと登れるように訓練できる場があってこそのレベル維持。
注文くらいは、たぶん、アルパインクライミングを志す人のみんなが登れてしかるべき、登竜門、みたいなことなんではないのだろうか…。
■ 登れないのではなく登らない
そうしたルートは、年を取って登れなくなっても、登れないのではなく、登らないのである。
2人の同年齢の老クライマーでも、十分登り切った人と登り切れなかった人では、取れる態度が違う。
例えば、往年のクライマーで栄誉ある米澤先生は、もう俺はリード欲はないよ、と言っていた。それで私のリードのセカンドも快く勤めてくれたわけである。親と同じ感覚だ。
一方、松〇さんは、こんな簡単なところのセカンドは楽しくない、と感じていたようで、私が楽しくリードしたルートだったので、松〇さんと組むのは、難しいと感じた。
私がセカンドをするしかないか、私が登れたとしてもトップを取るには不安を感じるルートを不安なまま、取りつかされる羽目になるだろう、と思われた…。
私はインスボンに3度も行っているが、師匠によると、ああした古典的ルートでいくらセカンドでスイスイと登れても、リードが取れるには5年はかかるという話だった。
私は、インスリッジでいいからリードを取るのが大事という鈴木さんの教えを守っている。
だから順番飛ばしをやらず、順繰りにあげて行きたいのだが、それが可能になることが少ないのが現実だ。
だから、九州で登り損ねたルートは黒髪山のアルパインルートで、これも先輩にセカンドを依頼したがダメだった。そうした自分の山で協力してくれる人が真のパートナーであり、あとは相手を利用したいだけの人だ。
結局、男性は自分が登りたいところのセカンドを無理を強いやすい対象の女性には求めるばかりで、相手がクライマーとして成長するのをサポートするようになるのは、すっかり自分の山が終わって、もうおじいちゃんになってから、なのではないだろうか?
おあいこ、かわりばんこ、ということにならないんだが…。まぁ、これは師匠の青ちゃんとの関係でも同じだった…かれが私をセカンドにしたかったのは、リードの取り合いにならないから(笑)である。
私は当時、5年はセカンドでついて回るべしという、その5年の時期にいたので、そう問題にならなかっただけである。
インスボンでリードの取り合いになるのがクライマーにおいては普通だ。
ところが、九州では比叡でリードで、リードの押し付け合いになっており、なぜか女性で一番弱い、私がリードを取ることになって、びっくり仰天したんだが…。
まぁ、これはインスボンの経験があったので、切り抜けた。
このルートは、後輩のセカンドを務めてくれる稀有な先輩のおかげで登れた。
■ 登竜門は登竜門として最善のスタイルを貫くべきでは?
私個人の考えでは、注文…くらいは、残置なしで登れるような実力というかレベルが、一応日本のアルパインクライミングの最低限のプライドとして、ふさわしいのではないだろうか…。
ボルトだらけになったことをなぜ日本のアルパインクライマーは恥じないのか?エイド時代を知らない私のようなクライマーには疑問だが…。
アルパインの基礎を教える山岳総合センターでは、残置は信用してはいけない、というのが、ほとんど初日に生徒全員に伝えられる話だったが…。
日本のアルパインクライミングがどのレベルを最低到達点とするのか?については、長く業界に携わる人たちが喧々諤々の議論をして、話をまとめるべきだろうと思う。
菊地さんみたいなクライマーに書記をさせず、誰か別に書記をさせたらどうですかね?
考えるのと記録を取るのでは、話が違う技能のような気がするが。