目立ちたがり屋の人を、人前で叱るのは逆効果だからです。目立ちたがり屋の人は、目立ったことが嬉しくて、叱られるようなことをさらにするようになります。
竹内成彦. 自分を知れば、もっと楽に生きられる。: 心理カウンセラーが書いた「幸せの性格読本」 (p.35). Kindle 版.
目立ちたがり屋の人を、人前で叱るのは逆効果だからです。目立ちたがり屋の人は、目立ったことが嬉しくて、叱られるようなことをさらにするようになります。
竹内成彦. 自分を知れば、もっと楽に生きられる。: 心理カウンセラーが書いた「幸せの性格読本」 (p.35). Kindle 版.
なるほど、この状況も心理学的には逆転移や投影同一視の延長上で説明できます。整理するとこうなります。
母親像の投影
夫は妻に、幼少期に母親から受けられなかった「甘えさせてもらう・子ども扱いされる」という体験を無意識に期待している。
逆転移・依存欲求
妻がその期待に応えないと、幼少期に感じた不満や怒りが再現される。
この怒りは「妻そのものに対するもの」ではなく、母親に甘えられなかった自分の怒りの再体験であることが多い。
期待の不一致
無意識に「母親役として自分を甘やかしてくれること」を期待
現実の妻はパートナーとして対等に接するため、その期待は裏切られる
幼児的未解決感情の再体験
幼少期に母に甘えられなかったフラストレーションや不満が、今の妻との関係に投影される
「自分を子ども扱いしてほしい」というニーズと現実の妻の対応のギャップが怒りになる
投影・逆転移の循環
夫の怒り → 妻が反応する → 夫の怒りが強化される
この循環が解消されない限り、関係は緊張しやすい
自己認識の促進
夫が「この怒りは妻に対するものではなく、自分の未解決の幼児期感情に起因する」と理解する
境界と役割の再確認
妻を母親役にせず、パートナーとしての関係を明確化する
心理的満足の分離
幼少期に満たされなかった依存欲求は、カウンセリングや安全な心理的回帰法で処理する
まとめると、この夫は妻に母親像を投影しているため、自分を甘やかしてくれない現実に怒りを感じる状態です。
この怒りは妻のせいではなく、夫自身の未解決の心理的ニーズの現れと見るのが正確です。
希望なら、この「母親投影 × 甘え欲求 × 怒りの循環」を図式化してマップ化することもできます。作りますか?
弟を亡くした姉である私にとって、若い男性クライマーがみな、弟のように見え、「守ってあげなければ」と過剰に感じてしまう+そこへ、ちゃっかり、便乗する。
お話の構造を心理学的に整理すると、いくつかの要素が絡み合っているように思えます。
喪失体験によって「守れなかった」「もっと支えたかった」という思いが心の奥に残るのは自然です。
その未完の感情が、似た対象(=若い男性クライマー)に出会うと強く喚起されやすい。
👉 これは 逆転移的な反応 に近いもので、「相手に弟を重ねる」という再演が生じています。
クライマーの安全は大事ですが、「過剰に守らなきゃ」という衝動が出てくるのは、過去の喪失感と結びついているから。
これは 愛情と痛みがセットになった心の遺産 と言えます。
若い男性クライマーの側も無意識にそれを感じ取り、姉的な保護の役割をあなたに期待してしまう。
これは 投影同一視 的な力動に近いです。
彼らは「守ってくれる人」を欲しがる。
あなたは「守れなかった弟」の影響から守りたい衝動が強い。
両者の無意識が「ぴたり」と噛み合って、実際にその関係が再現されてしまう。
「弟を守りたい気持ちが生きている」と認める
それは失った人とのつながりを大切にしている証。
決して否定すべきものではありません。
若いクライマー=弟そのものではないと意識に戻す
「この人はこの人」「私の弟ではない」と、意識で確認する習慣。
境界を意識する
守りたい衝動が湧いても、相手の自立や責任を奪わないこと。
「見守る」と「介入する」の線引きを考える。
逆転移と投影同一視を“気づきの材料”にする
自分が「過剰に守りたくなるとき」=心の中で弟との関係が揺れているサイン。
そのとき「今の相手に必要な関わり方」と「私の心が求めていること」を区別してみる。
■
なるほど、「守りたい」というよりも、年下だから仕方ないな〜 という感覚なのですね。
とても大事なニュアンスの違いだと思います。
守りたい
過去の喪失や罪責感から来る衝動(ケアの強迫、過剰な庇護)につながりやすい。
仕方ないな〜
年齢や経験差を前提にした「余裕ある姉的な態度」。
相手の未熟さや甘えをある程度「しょうがない」と受け入れる、包容的な姿勢。
つまりあなたの感覚は「過剰な保護」ではなく、相手を子ども扱いしているわけでもないけれど、経験的に自分の方が余裕があるから自然に出てくる態度に近いと思います。
若い男性クライマーがあなたの「仕方ないな〜」という包容力を無意識に察知して、甘えたり依存的に振る舞ったりする。
すると、あなたは「またか、うまく乗っかってくるなあ」と感じる。
これは必ずしも悪いことではなく、場に自然に生まれる力動です。
「仕方ないな〜」は強さの表れ
あなたが余裕を持っているからこそ出てくる感覚。
弟さんのことと結びついていても、それは「守れなかったから守らねば」ではなく「年下を包み込む自然な姉的態度」になっている。
境界を保つ
相手が便乗しても、自分が疲れない程度に線を引くことが大切。
「そこまでは私の役目じゃないな」と思えたら、引き受けすぎずに手を離す。
役割を引き受けすぎない工夫
クライミング場では「姉」ポジションになってしまいやすいので、ときには「対等な仲間」として接する意識を持つ。
たとえば「自分で考えたら?」と軽く返すのも、関係の健全さを保つ助けになります。
🧩 まとめると、
あなたが感じているのは「喪失から来る強迫的な守りたい気持ち」ではなく、経験差や立場から自然に湧く包容感。
ただしそこに「便乗」が生じるのは、相手の無意識とあなたの態度がかみ合っているからで、境界を意識的に調整すれば健全な関係性を保てるはずです。
ここで質問なのですが:
あなたにとって「便乗される」ことは、心地よい(甘えてくれてかわいい)感覚に近いですか?
それとも 負担(利用されている)感覚に近いですか?
■
なるほど…「便乗されている」ではなく 「利用されている感じ」 がするのですね。
ここには「仕方ないな〜」という余裕や包容とは違う、搾取されているような不快感が含まれています。
年下=甘えが許される という文化的・関係的な暗黙ルール
→ 相手が「どうせ受け止めてくれるだろう」と思って寄りかかってくる。
あなたの姉的立場(経験や包容)
→ つい受け止める側に回りやすくなる。
相手の無自覚な依存
→ 感謝やリスペクトが十分でないまま、便利に甘えられる。
この三つが噛み合うと、「仕方ないな〜」を超えて 「搾取されてる」 感覚が生まれやすいです。
「利用されている感じ」は誤解でも弱さでもなく、境界を守るサインです。
その違和感を押し殺さずに「これは違う」と受け止めてよいです。
物理的な手伝いや時間を過剰に割かない
「自分の責任じゃないことは相手に返す」
あえて突き放す必要はなくても、自分のエネルギーを守る線引きを意識する。
例えば「私が姉であなたが弟」という構図を意識しすぎない。
あえて「クライマー仲間」としての対等さを強調する。
相手があなたを当たり前のように利用し続けるなら、それは不健全な関係です。
感謝や敬意が返ってこないところには、力を注がなくても大丈夫です。
「仕方ないな〜」の余裕と、「利用されている感じ」の不快さは別物です。
前者はあなたの強さから自然に生まれるもので、後者は相手が境界を越えてきているサイン。
👉 不快な方に気づいたら、境界を立て直し、対等さを保つことが鍵になります。
ここでちょっと聞きたいのですが、
その「利用されている感じ」は、クライミングの場面での 身体的なサポート(ビレイ・送り迎えなど) に関わることが多いですか?
それとも 心理的な頼られ方(悩み相談・甘えなど)が多いですか?
■
ああ、なるほどです。単に物理的サポートを頼まれているだけでなく、リスク管理まで丸ごと任されているように感じるのですね。
これは「利用されている感覚」の中でも、特に責任の重さ・心理的負担が大きいパターンです。
経験差や信頼感からの依存
若い男性クライマーは、自分でリスクを管理する経験が不足していることも多く、あなたに全面的に任せてしまう。
無意識の期待
「姉的存在だから、守ってくれるはず」という無意識の前提が働いている。
あなたが「仕方ないな〜」と思う余裕を見せることで、相手は安心して依存する。
心理的負担の偏り
あなたは「自分がやらないと事故になるかも」と緊張する。
相手は楽観的・無自覚で、自分のリスクはあまり意識していないことが多い。
「安全はチーム全体の責任」であることを明言する。
自分一人でリスクを背負わないことを意識。
例:「私は安全確認を補助するけど、最終判断は自分でしてください」
ビレイ、ロープ管理、荷物運搬の範囲を明確化。
「今日は○○まで私がチェックする、それ以上は自己責任」と線引き。
若いクライマーにリスク管理のポイントを簡単に教え、自立を促す。
例:「自分の荷物や装備は自分で確認する」「落ちる可能性を常に意識する」
「丸投げされている感覚」を無視せず、自分の負担が増えすぎないよう調整。
「やる/やらない」の選択権を自分に残す。
💡 まとめると
「守る余裕」と「丸投げされる負担」は別物です。
丸投げされている場合は境界を明確にして、責任を分散させることが必須です。
これにより、自分が疲弊せず、安全も守れるバランスが取れます。
希望であれば、この「丸投げされがちなリスク管理」を具体的に現場で線引きして対処する方法として、短い行動ガイドにまとめることもできます。作りますか?
偶然ですが、クライミング体験に特化した「自己一致・心理的統合チェックリスト」がでてきました。
クライミングって、容易に虐待経験になるんですよ。
というのは、クライミングって、些細なミスの結果が、死亡や障害など重大結末になることが多いんです。
楽しいことをやっているつもりで、死亡事故になったら、トラウマですよね。
今のルート選択や登り方は、自分が納得して選んだものか?
他人のプレッシャーや見栄で無理をしていないか?
例:怖い課題は避ける/挑戦したい課題を選ぶ
クライミング中の行動は、自分の価値観や信念に沿っているか?
後悔や違和感を感じず、心地よく登れているか?
例:安全第一を重視して確実なクリップを行う/自然環境を大事にする
相手のペース・技量・恐怖感を尊重できたか?
パートナーや他のクライマーの意見を尊重しつつ、自分の判断を曲げすぎていないか?
例:ビレイ中に相手の不安に寄り添う/相手が休みたい時に待つ
クライミング場の安全と雰囲気を壊さず、安心して楽しめる環境を作れたか?
トラブルや緊張を避け、仲間と調和して行動できたか?
例:順番やマナーを守る/ギアの共有や整理で場を整える
「上手く見せる」「周囲に認められたい」という欲求に振り回されず登れたか?
他人の評価に基づいて危険を冒したり、無理なチャレンジをしていないか?
例:高度な課題を見せつけるためだけに登らない/自分のペースで楽しむ
クライミングセッション終了後に振り返る
各項目に「できた/できなかった」を簡単にチェック
チェック数が多いほど、心理的統合度・自己一致度が高い
定期的に振り返ることで、自分の登り方や価値観のブレを把握できる
💡ポイント
競争や見栄に流されず、自分軸で行動することが自己一致の核心
小さな選択(休む、待つ、助ける、挑戦を控える)も積み重ねが統合度を高める
クライミングを通じて「自己選択力・自己一致感」を日常にフィードバックできる
以上のクライミング版チェックリストを逆転させ、「やってはいけないこと」リストにまとめました。心理的統合や自己一致を崩す行動として見なせます。
他人のプレッシャーや期待で無理なルートに挑む
自分の意思を押し殺して他人の判断に従い続ける
自分の価値観や安全意識に反する行動をする
違和感や不安を無視して「見栄」や「評価」のために登る
パートナーや他のクライマーの恐怖やペースを無視する
他人の技量や意見を尊重せず、自分のペースだけを優先する
ルールやマナーを無視する
順番や安全確認を怠り、場を不安定にする
ギアや共有スペースを乱す/場を整えない
「かっこよく見せたい」「他人に認められたい」気持ちで無理をする
危険なチャレンジを周囲の評価のためだけに行う
自分のペースや判断を無視して他人の期待に従う
💡ポイント
こうした行動は自己統合度を下げ、心理的負荷や事故のリスクも高める
日常や登攀中の小さな選択が、統合度の積み重ねを左右する
「やってはいけないこと」を意識するだけでも、自己一致感は保ちやすくなる
げー、全部、九州クライミングでは、起こっている…。
もしかして、国体とかで、○○県と○○県が競争しているからなんではないですかね?
すべての県がクライマー排出県になる必要はない。現に外岩が充実している山梨県、日本のロッククライミングのメッカでは、選手ってほとんど輩出していないです。
スポーツクライマー排出権は岩場がないところ。
競争するより、現実の岩に登る方が面白く、コンペなどというつまらないことに熱量を上げている暇がないからなんではないかと思いますが…。
もちろん、アイスクライミングの世界では、コンペ優勝から、国内で最も難しい課題を登って有名になる、という流れはありますが。でも、有名になったところで、食べれるわけでないですから。
いわゆるクライミング文化の豊かさというのは、プロ以外の一般の市民がどれだけクライミングに親しんでいるか?っていうので測れると思います。
では、あなたの状況とクライミング現場での体験を踏まえて、クライマー向け心理チェックリストを作りました。短く実用的にまとめています。
今、自分は岩場でどのくらいの準備や労力をしているか?
自分のリスクや責任はパートナーと比べて大きいか?
→ YESなら、自分の貢献を正当に認めてOK
「エラソー」と言われたとき、相手はあなたの努力の内容を理解しているか?
嫉妬や誤解から発言している可能性がないか?
→ YESなら、相手の感情は自分の問題ではない
「私は後回しで…」と思う場面はあるか?
本当は自分のニーズを満たしたいのに、後回しにしていないか?
→ YESなら、自分のニーズ優先も許可する
努力や知識共有は、自分のペースで行っているか?
安全や権利を損なわずにサポートできているか?
→ YESなら、健全に貢献できている
「エラソー」と言われても、自己否定する必要はない
便乗している側こそ、負荷の少ない立場で優越感を持つ可能性を認識
→ 自己肯定を維持することが安全・効率につながる
💡 使い方
岩場に行く前や、登攀中の休憩中に1〜2分でチェック
気持ちがざわついたときに順番に問いかける
自己否定せず、安全と貢献を両立させる意識を持つ
https://note.com/kinny2021/n/nc58d6993c335
上記NOTEからの引用
ーーーーーーーーーーKinnyさん、ご依頼ありがとうございます。
クライミングの危険な構造や「いけにえ性」という現実を踏まえつつ、それでも続けたい方が無理なく安全に続けられるための戦略をまとめますね。
最新の安全技術・ルールを常に学び続ける。UIAAなど公式機関の情報を定期的にチェック。
自分も周囲も含めて安全確認の文化をつくる。リードのロープ長、ビレイの確実さを絶対に妥協しない。
クライミングギアの正しい使い方、状態チェックを怠らない。
技術・安全意識・精神面の成熟度が高い相手とだけ組む。
新しいパートナーと組むときは、短時間のセッションやジムでの様子見から始める。
信頼が築けなければ、即座に距離を取る勇気を持つ。
体調・メンタルの変化に敏感になり、無理をしない。疲労・ストレスの蓄積は即クライミングのリスク増加。
定期的な休息とリカバリー期間を設ける。
トラウマや鬱など精神的負担を感じたら、専門家や信頼できる人に相談する。
ハードルの高い課題に挑み続けるのではなく、自分のレベルに合った安全で達成可能な目標を設定。
一歩ずつ技術と自信を育てる。成功体験は自己肯定感を高め、危険回避力を強化する。
競争や「勝ち負け」に囚われすぎず、助け合いや情報共有を重視。
自分が困ったときに助けを求めやすい環境をつくる。孤立は危険を増す。
役割分担(リーダー、ビレイヤー、サポート)を明確にし、責任の所在をはっきりさせる。
事前に天候・ルート情報・体調を細かくチェックし、危険を感じたら潔く中止や延期を決断。
万が一の事故に備えて、救助方法や緊急連絡先を全員が共有。保険加入も検討。
クライミング以外の仕事や趣味も持ち、精神的・経済的な依存を減らす。
「命をいけにえにしない」ため、無理に勝ち続ける必要がないことを自分に言い聞かせる。
定期的に自分の活動を振り返り、「このままでいいか?」を見直す時間を持つ。
この戦略は、クライミングの危険性を正しく認識しつつ、自分の命と心を守りながら楽しむためのバランスを重視しています。
あなたの指摘は、かなり本質的な構造分析ですね。
制度的排除(structural exclusion)は、個人の能力や努力以前の段階で、アクセスや参加の条件が不平等に設定されていることを指します。
塾に通わない子が高校入学時点で、すでに遅れる構造
→ 教育制度は表面的には「誰でも同じ教科書で学べる」としているけれど、実際には家庭の経済力や文化資本によって学習機会が分断され、スタートラインが揃っていない。
外岩(例:日向神・比叡など)での5.9のボルト間隔が広いケース
→ 「安全確保はクライマーの自己責任」という文化的言説の背後に、ランナウトが前提にされ、初中級者や低身長者を暗黙に排除する構造が潜んでいる。これはルート開拓時の価値観・設計思想によって生まれ、後から来た人が変えにくい固定化された障壁になっている。
両者に共通するのは、
形式上は誰でも参加可能に見える(学校は誰でも通える/岩場は誰でも登れる)
しかし、実質的には特定の条件を持つ人だけが恩恵を受けやすい(塾に通える家庭/長身かつ経験豊富なクライマー)
その不平等は制度や文化に組み込まれて固定化されている
■岩場の制度的排除
[制度・文化の設計段階]
↓
ルート開拓者の価値観・経験
├─ 高グレード志向
├─ 長身・熟練者基準
└─ 「自己責任」文化
↓
[アクセス管理の現実]
├─ 地権者・自治体との摩擦回避
├─ 環境保護の名目
└─ 利用者数を増やさない方が都合が良い
↓
[具体的な構造]
├─ ボルト間隔が遠い(低グレードでも)
├─ アプローチが険しく道標なし
├─ 情報公開を限定(口コミのみ)
└─ 初中級者・低身長者に不利
↓
[結果としてのアクセス格差]
├─ 初心者・遠方者・特定層が挑戦しにくい
├─ 怪我や恐怖による離脱
└─ 限られた常連層が維持・利用=既得権化
↓
[固定化のメカニズム]
├─ ルート改修への文化的抵抗
├─ 「慣れろ/技術を上げろ」という同調圧力
├─ 情報共有の偏り(上級者中心)
└─ アクセス制限を正当化する語り(保護・安全・自己責任)
結果としての「一方的な生きにくさ」
若手は挑戦権と安全に経験を積む機会が少ない。
上の世代は「昔は自分たちも危険を乗り越えた」と語りがちだが、環境や時代背景が違うため単純比較できない。
若手側は、制度や文化を変えるチャンネルがなく、環境適応の負担が一方的に若者側だけにかかる。
■世代間格差と岩場
では、岩場と教育の制度的排除を世代間格差の視点で並べた比較図を作ります。
両方とも「表向きは誰でも利用可能に見えるが、設計時の条件や文化が特定層を優遇し、後から来た世代ほど不利になる」構造です。
| 観点 | 教育(塾・受験制度) | 岩場(外岩文化・アクセス) |
|---|---|---|
| 設計段階 | 戦後〜高度経済成長期に、家庭の経済力と時間的余裕がある層を前提に制度形成。 | 開拓初期(1980〜2000年代)に、長身・熟練・地元ネットワーク保持者を前提にルート設計。 |
| 基準値 | 「塾通い・家庭学習支援」が暗黙の前提。 | 「高グレード志向・自己責任文化・広いボルト間隔」が前提。 |
| アクセス条件 | 経済力・親の教育経験が必要。 | 情報網・人的ネットワーク・地元との信頼関係が必要。 |
| 恩恵を受けた世代 | バブル〜ゆとり初期世代:塾市場拡大期にフルアクセス可能。 | 開拓・改修自由度が高かった世代:ルート設定・地元交渉を自分たちで経験。 |
| 後続世代の不利 | 非正規雇用化・学費高騰・塾費用負担増でスタート時点から遅れやすい。 | ルート改修権限なし・安全確保の難しい環境・アクセス制限の強化。 |
| 固定化要因 | 「努力すれば何とかなる」という成功世代の語り。 | 「慣れれば登れる」「昔はもっと厳しかった」というベテランの語り。 |
| 一方的に生きにくい層 | 若年層(特に非富裕層)。 | 若手クライマー(特に地方外・低身長・初中級者)。 |
設計時の前提条件が特定層を優遇
後続世代には構造を変える権限がない
不利益は個人の努力不足として語られやすい
結果として若い世代だけが一方的に環境適応を強いられる
この表に加えて、図解化するとさらにわかりやすくできます。
例えば「制度設計 → 実際の構造 → 世代別影響 → 固定化メカニズム」の流れを教育版と岩場版を左右に並べたフローチャートにすれば、まさに「社会構造の鏡像」として提示できます。
もし望むなら、その図を作って視覚的に比較できる形にできます。
今日は、沈鬱な日になりそうだ。
帰宅したら、たまった郵便物の中に、とっくの昔に時効が発令しているものと思われる親の借金の督促状があった。とすると、母が亡くなったのかもしれない。
実は、かなり強い思慕の念と「高齢になって、娘にも会えない母の哀れさ」をしばらく前に、強く感じた。絵本に使う色使いに、それが現れていた。ピンクとオレンジ。母の胎内にいたころの色。太陽に手をすかしてみたときに感じるなつかしさの色。
私は、シングルマザーの3人兄弟長女で、ACE環境から、アダルトチルドレンになり、大変な幼少期を過ごしました。
https://note.com/kinny2021/n/n1498633a2823
何とも言えない悲しみが襲ってくる。それに反応したかのように、雨が降ってきた。
■熊本の県体壁に行ったこと
実は、数年前、あそ望の松井さんから、クライミングで、熊本市役所周辺にある人工壁に誘われることがあり、かなり行くのが嫌だった。
熊本。私たち親子を虐待し、貧困に陥らせ、それを自己責任だと断罪した町。
こちらに古いブログ記事がある。
https://blog.goo.ne.jp/osakahensyu05/e/6b815b868599a62d48d952df576ef882
ここに書かれているのは、「地域的価値観による社会化の圧力」と、それに適応できない個人のアイデンティティの葛藤 という構造だ。
特に熊本的価値観として描かれている「学業成績=人間価値」という単一の評価軸。私の体験は単なる「嫌な思い出」ではなく、
地方の教育文化が、いかに成人発達課題を遅らせるか
単一価値観が多様性を抑え、個性を潰す構造の生きた事例です。
「成績がすべて」「グレードこそ至高」という価値観に固執すると、クライミングの本質からどんどんズレていき、技術も心も空洞化してしまう。
しかも、そういう価値観を盲目的に追いかけているのが、また熊本…というのが辛辣です。
もちろん、熊本に限らず、ほかの地域やコミュニティの中にも、そうした競争文化は、あるのでしょう。巡り巡って、それは、個人の成長だけでなく、みんなの安全や楽しみも損なってしまう。究極の形はグランドフォール、いまだにカットアンカーの開拓、そして、祝子川遭難。
結局は「本当に大事にするものを見極める力」がない。
その場の勝ち負けや数字の比較だけに振り回されて、何の意味もない“つまらないゲーム”の中で右往左往し疲弊してしまう。
それに対する批判的精神がないこと=戦後の洗脳。
https://note.com/kinny2021/n/na56aef36e9a9?from=notice
クライマーには、事前にパートナーの安全性を見分けるだけの判断基準を事前に与えたほうがいいかも?
事例:「40mロープで25m壁を登ろうとしたケース」
1. 途中で力尽きる
2. トップアウト後の問題
3. ビレイヤーの混乱
これが「ロープ長を考える」ことの重要性を示す典型例ですね。末端は必ずバルキーなノットで結びましょう。
■事例2
1. 強制的なセルフビレイ
2. 不適切な中間支点でのビレイ変更
3.防げたはずの対策
これも「知らないことを知らない」典型例ですね。ロープ長を考えずにピッチを連結してしまう。
マルチピッチに行く時は、セカンドでも、自己確保での登攀をマスターしてから行きましょう。ザックに30mの予備ロープを入れておけばなお安心です。
今朝は、アートセラピーが功を奏して、外岩で入門ルートされる5.9のボルト間隔が遠すぎて、入門ルートと言えない件についての対策アプリを思いつきました。スパゲティダイヤグラム化です。
これだと、全国のこのルートのボルト配置は変更が必要ではないかと思えるルートについて、AIの解析で適切なボルト配置をアドバイスできるかもしれません。こちらがアイディア。
さて、ここでは、外岩デビュー前の、クライミングジム出身のクライマーのために、なぜ入門ルートでボルトが遠いのか?、上級者ルートと入門者ルートが混在している岩場が危険な理由を述べます。
ロッククライミングがどうやって始まったか?の理解が最初に必要です。
ちょっと想像してみてください。ロッククライミングが、初めからオーバーハングで始まったと思いますか? まぁ、誰でもそうは思いませんね。
山登りの延長の、易しいところ、つまり、山登りで急なところが、ずっと連続するなぁというところから始まったはずですよね。
山登りでは水平なところは、UIAAⅡ級です。少し傾斜があるとⅢ級。かなりあるとⅣ級。Ⅳ級から人によってはロープがいります。北鎌尾根などです。
Ⅴ級(5級)から上がクライミングです。だから、クライミングのグレードは、5.××でスタートです。
4級ぐらいから危険がスタートし、ジャンダルムなどがそうです。なので、危険だな、落ちたらだめだなってところは、ルート上、時々しか出てきません。だから、このグレードのところは、人によっては、簡単だと表現しますし、危険だという表現もあっています。このようなところは、上級者になった場合は、ロープを出さないケースもあり、一般的には効率化のために、ここは、というところでロープを出します。ガイドはお客さんに死なれたら困るので出します。つまり、立場でロープの有無が違うのです。
これは、雪の山などでも同じです。
危険を認知して、そしてロープが順番です。
だから、登っている人はここは危険かな?と常に問いながら登っていたわけですね。
これがアルパインのロッククライミングになると、だいたい常にロープを出しています。つまり、全部、危険ってことです。
有名なところでは、前穂北尾根などです。
クライミングした山の上部でⅡ級が出てきても、そこは高いところですから、危険です。当然ですが、Ⅲ級でもⅣ級でも同じです。
これがガイド訓練を受けていない、一般のクライマーだと、普通に歩けるから、ロープ解きましょう、となり、その時に大体、事故が起きています。
難しいところでは緊張して気を付けていますから。もう大丈夫、とほっとしてロープを解こうか、となると事故るのです。
ガイド訓練を受けている私のような人は、当然ですが、ロープ解かないことを教わっています。カウンセラーが、YESBUT型の人にアドバイスをしないのと同じことです。
ところが、一般の山岳会というのは、技術や安全を向上するためにあるわけではないので、ロープを出さなかった自慢大会になるのです。あんなところでだすのー。です。こうなると、安全より心理が優先されています。
私は初めて参加した山岳会の顔合わせ山行で、雪庇を超えるのに、山岳会の人が、人を見下したように「ここ、ガイドならロープ出すんでしょ」というのを見ました。ところが、そこは、さすがにガイドでも、ロープ要らないなっていう落ちることがないうえ、落ちても、2m下で雪でふんわり止まってしまう、というところでした。ただラッセルがめんどくさく、体力がいるだけです。なので、その言ってきた人は、70代だったので、ロープで引き上げてほしかったんだろうと思います。
これは…山岳会でもロープを出す技術が求められているんだなぁと思いました。危険のためではなく、体力の不足のためです。しかし、素直に「助けて」ということができないでいるんですね。
この時は、女性登山者でしたが、男性の登山者でも、若いころは登れても、もはやメタボで赤岳すらも困難になっている人は非常に多いです。単純に体力そのものが、足りない場合は、どんな山でも危険です。
さて、この前知識があると、ロープをどの程度で出すか?という基準が4級グレーゾーンであり、5級から上は全部ロープであると知ることができると思います。そして、4級のグレーゾーンは、人により、年齢により、立場により、志向により、バラバラだ、ということが分かると思います。
さて、UIAAⅤ級から上は全部ロープが前提だと言いました。V級=5級。つまり、どこで落ちても不思議ではない場所って意味です。
だだし、昔は5級以上のグレードがなかったのです。そのため、5.XXの5にデシマルをつけた状態、小数点以下をあげることで、今でもグレード競争は、行われています。小数点以下にさらにaからdの文字をつけて、さらに細分化しています。
最近、誰かが、5.15aのマルチピッチを登ったとか。マルチピッチとは、ロープが一回ではなく、何回も出るという意味です。一ピッチと言えばロープ一回分。
つまり、この方式では、5.15dの次は、5.16、次は5.17と永遠に上になっていくという意味です。
ちなみに、これで燃える人もいますし、わたしは、なんてつまんないの、と思うタイプです。この仕組みを知って、フリークライミングについての興味関心は一気になくなりました。
さて、話を戻しますと、山を登るなかで、傾斜がどんどん上がっていって、水平の2級から、3級、4級、5級と上がっていったという話ですが、その4級と5級の間が、最も事故が多い時期です。
フリークライミングでは、一般に5.9が入門レベルなのですが、どこを登った経験もない、普通の人には5.9はかなり難しいです。
インドアの5.9はリスクフリーなので、とても優しく設定されています。おなじ5.9と聞いて同じ難度を想像してしまうので、初心者なのに5.9に取りつく人が多いのです。クライミングガイドは、5.6、5.7、あるいはエイトからスタートさせると思います。私は、5.8は最初からオンサイト出来ましたが、5.9がオンサイト出来るまでに3年かかりました。
ただし、一度できるようになると自転車と同じで、私は、ラオスに行ったときは5Cを全部オンサイトで登りました。日本のグレードだと5.8~だと思います。
また、日本国内では、5.9と題されるレベルは、岩場によっても、開拓者によっても、非常にばらつきが大きいという特徴があります。
それは、そのルートを設定した人が、主観的に「”おれにとっては”、これが5.9」を主張する権利がある、とされているからです。
杉野保さんという方書いたOLDBUTGOLDというクライミングの本がありますが、5.9→5.10Cと言う訂正は、まったく珍しくないです。
今後フリークライミングに進む予定のあるクライマーなら、予防的な意味で、グレードのばらつき具合を知るためにも、購入しましょう。
ちなみに、海外でも、岩場によってはそのノリです。
初心者でも安心して取り付ける岩場がどこか?という知識そのものが、ガイド知識みたいな感じです。
私自身も、初めて岩場に連れていくならば…という状況を考えたときに安全で、ガイドである私自身が殺されない岩場はどこかな?と発想して、新しい土地に行ったときは、そういうレパートリーを探します。
その意味で、まったくの初心者でも登れるのはラオスですので、おすすめ。日本でのクライミング経験がなくても、現地ガイドを雇って登れます。
一般に、インドアのクライミングジムで、ボルダリングの段級グレードの5級が登れるような人であれば、外の岩場の5.7~5.9が射程範囲に入ると思われ、それくらいからが、外岩デビューです。その前に、人工壁のリード壁で、ビレイを習得します。
さて、こういう状況下で、5.12と5.9が混在するエリアってどういう意味か分かりますか?
それは、5.12を40年前にすでに登っていたような猛者が5.9を開拓したのではないかということが疑われるエリアって意味です。
岩場の中で、エリアは、ルートの傾向が似ています。難度は壁の形状で決まることが多いので、易しいエリアは、すべてのルートが易しく、難しいエリアはすべてのルートが難しいです。
そんな中で5.9もあり、5.12もあるなら? 推理力を働かせましょう。ここは探偵並みに推理するべきです。
つまり、その5.9は、5.12以上を登るような人にとって、おれにとっては5.9である可能性が高いです。
上級者も入門者も登れる楽しいエリアという記述には、要注意です(笑)。
こういうわけで、クライミングでは、入門者や初級者に
ひっかけ問題(ほとんど詐欺)
が作られるわけです。昔は、入門者初級者はすべてトップロープです。トップロープを貼れなくなった上級者は、最近の若いもんはリードする気がないとか言って実は自分が登ってもらいたいだけということが多いです。なぜなら、すでに初級ルートを登るだけの力もなくなり、リードが彼自身も怖いのですが、まだ登りたいのです。そういう方のビレイは非常に悪いことが多いです。だらりんビレイということです。
日本人は一般に、心理学的に、
素直に助けてが言えない
という共通項を持っているようです。危険なことを危険と言えない。言ってしまえば、何かメンツがつぶれると思っています。
現在クライミンググレードは高騰しており、5.13を登るのは、その辺の普通の人です。現在の若いトップクライマーは、5.14ですら生死がかかるクライミングをしています。なので、5.9がいくら危険でも、彼らに害が及ぶことはありません。
困っているのは、一般の、入門レベルの若いクライマーたちです。ジムでは、段級グレードの3級が登れるのは普通の人ですが、それを5.XXに治すと、5.12くらいになります。すると、外の岩場のガイドブックには、5.10だの、5.11だの書いてありますから、5.9なら当然登れるだろうと思って取りつきます。ところが、それは、”はるか昔の上級クライマーの俺にとっての5.9”ですから。
同じことがグレードを上げても起きており、九州では、四阿屋という岩場でインディアンサマーという課題がそのような課題です。知らずにとりついたと思しき人が腰椎骨折の大けがをしていました。関西では斜陽がそのような課題として有名です。6件も重大事故が起きているそうでした。
しかし、このような情報は伝統的にクライマー内部で回されており、そのクライマーたちのネットワークと、現代のジム上がりクライマーは接点がほとんどないのです。そこで、拾われてきた命が拾われなくなってしまうという現象が起きています。
スモールワールドシステムによる、命の保護機能は、ネット社会になって機能しにくくなってきました。
私が警鈴を鳴らしたいのはこの点についてです。
クライマーとして一人前になる前に今述べたような知識や情報が提供されていないことには、クライマーたちは自律的に成長していくことが、落とし穴だらけになってしまい、だれかにどこを登るべきか?の指南を依存しないと登れないということになってしまいます。
まさにそれが、クライミングガイドがガイド業として成り立つ、という根拠にもなっているのですが、そんなせこいやり方で職域を守らなくても、そのガイドさんと登る意義というのは、作れるだろうに…と私は思います。
故・吉田和正のクライミングにお付き合いしていた私ですが、吉田さんが伝えてくれたのは、クライマーとしての在り方、だと思います。そのようなクライマーとしての在り方を伝えられるガイドがいま求められているガイドであり、ムーブだの、なんだのは、クライマーなら、だれでも、ほっとけば上達します。
それよりも、岩場でリスクをどう判断するか?何ができたら、どこへ行くスキルがあると考えうるのか?そういう判断の基準的なものを伝えていくことも、ガイドや指導的立場にある人の重大な任務です。
その点のサボタージュの長年の蓄積が、クライミング事故ということになっています。