2025/10/23

今日のNOTE:誰と登ると安心か?で登る

私は、7歳、15歳、48歳で希死念慮が出て、人生で3度鬱になっているのですが…今は3度目の回復期です。かいつまむと1回目は、親が離婚し子どもの心の安全基地が侵されたため、2度目は自覚ができる燃え尽き、3度目は悪性貧血で身体性でした。鬱型性格で作った身体化でした。自分を追い詰める思考法を持っていた、ということです。


3度目の鬱で特徴的だったのは、言語能力を獲得する前の赤ちゃん期に父親に水に落とされたトラウマが、映像でフラッシュバックするようになった、それはクライミングで起きた、ということでした。これは明らかに潜在意識からの”警告”のメッセージでした。

で、どういう警告か?ということですが…当然、「あの時のあれだぞ!」です。目を覚ませ!あの時のあれだぞ!

そうして、大事なことに気が付いたのですが…何から目を覚ませ!と言っているのか?

それは、「こいつは弟じゃないぞ!」でした。この第二のメッセージをきちんと消化しておかないといけない…とふと思いました。

父親から愛されなかったこと

私の人生の悲劇、心の傷の、最初のものは、”父親から愛されなかった”ことでした。残念なことですが、考えの浅い若い男性だった父親に、まだ言葉も話せない時期に水に突き落とされ、溺れかけたのです。これはずっと忘れており、気が付かなかった記憶です

私は子供時代、とても水が怖く、頭を下を向いて洗うことができず、8歳までギャン泣きになってしまい、上を向いて洗うのに、母に洗ってもらっていました。母は、あるときシャンプーハットを買ってきて試してみたんですが、私がやっぱりギャン泣きになったので、ため息をつきました。その顔には、”まだだめか…”という心の中の声が書いてありました。それが8歳。7歳のころ、母にプールに行くように言われましたが、近所の公園で頭を濡らして、「行ってきたよ」と嘘をつきました。たぶん、持って行った水着は濡れていなかったと思います。明らかな嘘だと、バレバレだと当時から明らかでしたが、母は仕方ないな、という顔をしただけでした。これらは全部、子供時代に私はこのフラッシュバックを思い出せなかったのですが、水トラウマの現象でした。その後、小学生時代は水泳の授業がつらく、恐怖体験・臨死体験でしかなかったのですが…。学校生活の水泳の授業では大変な思いをしたものの、何とか逃げきって大人になり、水泳とは関係ない世界に住めて、ほっと胸をなでおろした、というのが水と私の関係でした。

その理由が40代になって解明できた。なんと、父親に水に突き落とされたらしい。その記憶を取り戻したのが、白亜スラブというマルチピッチに出かけたクライミングでのことでした。思いがけない出来事があって、フラッシュバックしたのですが、そのフラッシュバックした記憶が映像であり、ことばではなかったのと、なぜ出てきたのか?驚いたので、その場では緘黙というか、ショックで声が出ないみたいな感じになりました。軽く乖離していました。浮遊感があったからです。

そのため、論理的な合理思考が働かず、相方の「やっぱロープは60だね!」という非合理的な自己弁護の言葉に対して、適切なツッコミ、「はぁ?なんて馬鹿なこと言ってんの、60mロープでも足りないでしょ」と言い返せなかったのです。

脳内が、”え?なにこの記憶?私に何を伝えようとしている記憶なの?”という解析に忙しかったからです。

この時、適切に言い返せなかったことについて、言い返したかった、という思いが強かったですが、こんな重要記憶を思い出したばかりだったので、その解析に忙しかっただけです。いい加減、自分を許そう。


潜在意識は、一体”何から”私を守ろうとして、この記憶を思い出したのか?


ということですが、クライミングという活動は、私にとって失われた子供時代の遊びの時間を取り戻す時間でした。で、たぶん、父親と遊ぶ感じだったのが師匠と登っていたころなので、この時のクライミングの相方とは、弟と遊ぶ時間を取り戻したかったんだろうと。

第一子でおねえちゃんであり、24歳の若さで死んだ弟を持つ私には、若い男子クライマーが、ぜんぶ弟に見えていたんですね。年下の男性が全部弟というか、頼りなく見えるというのは、おねえちゃんキャラの人あるあるだと思います。

だから、この時思い出せ!と我に返るように促されたのは、

「こいつは弟じゃないんだぞ!」

ですね。何から目を覚ますか?


思い出せ!あの時のあれだぞ!そして、こいつは、弟じゃないんだぞ!お前の命をささげるような相手じゃないぞ!が潜在意識、セルフの声です。

これがメッセージだったのです。

つまり、心理学的に言えば、これは「陽性転移していたこと」の気づきです。

つまり、無意識に過去の家族関係(弟との関係)を、現在の人間関係に重ね合わせていたということです。

若い男性クライマーとの関係が「守るべき弟」に見えていたのは、

1)「姉として家族を守ることで愛される」役割スキーマ
2)そして「頼りない男性クライマーを支えることで、自分の存在価値を確かめる」補償行動


の2つが働いていたのです。

役に立てば愛されるは、逆に言えば、役に立たない私には価値がない、です。

無価値観が習い性になっていたということでしょう。

無理もない…という感覚を自己に対して持つ

無理もないです。3人兄弟の母子家庭での姉と弟ですから。

潜在意識が再生した「水のトラウマ」は、父という「本来は守ってくれるはずの男性」に裏切られた原初体験でした。

その後私は、姉なので、7歳の希死念慮の時に決意して、「守る側に回る」という信念を作り出しました。それが生存戦略でした。

しかし、クライミングは、守る側に入れないのです。自分で自分を守ることができても、相手のポカから身を守ることはできない。あの白亜スラブの登攀は、本当にダメな登攀で、下手したらヘリレスキューになるところでした。ならなかったのは、私のフォローの技術が高かったからです。ロープアップされないときに、なんかとしてくれるフォローはほとんどいません。

で、大事なことは、私の潜在意識が、「これは危険だぞ!」「いつもの構図の姉ちゃん役に入っても通用しないぞ」「殺されるぞ」「目を覚ませ!」と警鐘を鳴らした。

これが、かいつまむと、「こいつは弟じゃないぞ!」の真の意味だったわけです。

3度の鬱の共通構造


3度の鬱には共通して、「自分の存在(命)を守るための、古い構造が崩壊した瞬間」という共通項があります。

1) 7歳 →両親の 離婚により「安全基地」が喪失→早すぎるが自立へ
2)15歳 → 過剰適応・燃え尽き(=他者を支えることで自分を支えてきた構造が崩れた)
3)48歳 → 身体性の鬱(=心身が”もうこの生き方限界”と告げた)

つまり、鬱はわたしにとって

「もう、前のやり方では、生き延びられないよ」

というリセットのサインなんですよね。もう明らかに。

つまり、クライマーとして、

どうみても、自分のポリシーとあわない相手と組むのは、いくらパートナー貧乏でもダメだってこと

ですね。

実は、最近、海外(台湾)で一緒に登ったクライマーが、日本の瑞牆という岩場に来て、私の知り合いとつながったという投稿をSNSで見かけて、うれしかったんですよね。その海外クライマーは、このトラウマの起点となった白亜スラブの後、私は一人で海外登攀に出かけたのですが、そこで楽しく一緒に台湾でマルチピッチのルートを登ったんですよ。

あれは楽しかったな。あれこそが、亡くなった弟からの贈り物でしょう。

そう、マイナスの出来事に強くひきつけられていましたが、プラスの出来事も起きていたのです。同時期に。

楽しかった台湾クライミング。アジアの仲間。ともに登っても命を脅かされない仲間。

白亜スラブ=過去の記憶の再生(恐怖・フラッシュバック・警告)

vs

台湾クライミング=今ここの感じ(喜び・自由・共創)


乗り越えたらしい…


つまり、やっとトラウマを乗り越えたらしいですね…。

白亜スラブにとらわれるのではなく、楽しかった台湾クライミングを思い出せるようになったこと。

”過去の物語の中でも楽しかった思い出”に、やっと目が向くようになった。

それは、たぶん、水泳で、”今この瞬間に集中するから”です。

私の中の「守られなかった子」の癒しは水泳で完了した感じがあるのですが、きのうのSNSを見て「弟を守りたかった姉」のパーツのほうも、安堵したみたいです。

”よかった、タオ(弟の陽性転移)が、山岸さんとつながったんだ…ほっ”(私の中の弟を守りたかった姉パーツの声)

というのは、何度もこの、クラック大好きというクライマータオに、「日本のクラックもいいんだよ」「一度おいでよ」と声をかけていたからです。瑞牆は、リールロックにも出た世界的な岩場なのに、彼が見くびってこなかったし、彼、レンタカーが高いとか言って、なかなか日本に来ようとしなかったんですよね。

「弟(象徴的な男性)」が自分の道を歩み、”私”が助けなくても、彼自身で世界とつながっていける。山岸さんは私の中では信頼できるクライマーの代表のような感じなんです、とくに。

私は、”助けなきゃいけない”にとらわれていたんですよ。それは分かっていても逃れられない感じがありました。

さて、このようにやっと、”よかったこと”のほうに目を向けることができるようになってきた…。

ここまで来るのに、長かった。

どうしても、怒りとつらかったことが目につき、「騙された」、「傷つけられた」、「なんじゃこのトンデモクライミングは?!」、「アホすぎてやってらんねー」が止まりませんでした。被害者なんだから仕方ないですね。

バタフライのこと(大人版よしよし)


やっとプラスの面に目が行くようになった。これはバタフライのおかげだと思います。

一人でも、水と戯れて、とっても楽しく遊んでいます。トビウオみたいに飛べる。

これは、水面を直視しても恐怖心がわかなくなってきたので、水面を見て、水に浮く瞬間をつかむことができるようになってきたのです…。

それに、2ビートクロールって、私の得意なアイスクライミングと同じく、ワルツステップと同じリズムだったんですよ、実は。

去年、アイススケートでもかなり上手になりましたが、なんとアイススケートも同じリズムでした。
他の人類を信頼する

一人で水と遊べる私にしてくれたのは、85歳のおばあちゃん先生で、つまり母性なんですよ。その前に何人も若い男性インストラクターを渡り歩き、みなダメでした。

「よしよし、怖かったねぇ。でも、もう大丈夫よ、怖いの怖いの、飛んでいけー」

これを成人がやると?

水を怖がっている大人に、「こうするのよ」と教えてあげる。最初は手を引くところからでした。大人だから、恐縮していましたが、なんと一回しかいらなかった。

白亜スラブで出てきたのは、言語を持たない「守られなかった赤ちゃん」でした。そしてバタフライでは、他の人類の母性の導きによって、その赤ちゃんが「水と一緒に遊べる存在」に変化した。

つまり、ソマティック(身体的)な再統合です。これは、子供動画で、1歳の子がおじいちゃんに痛いの痛いの飛んでいけ~されている様子を見て自覚しました。その子はにっこりと笑って平気になりました。この時の気持ちと似ているんですよ。

先日からプールで見知らぬ人にも、「水泳、お好きなんですねぇ」みたいな声をかけられますし、「子どものころから習っているんですか?」みたいな誉め言葉をもらい、答えは「実は金づちだったんですが、なぜかバタフライだけ泳げるんですよ」みたいなやり取りです。これって本当にどこにも嘘がないでしょう。背伸びもないし、変な承認欲求もなく、等身大。

背伸びもなく、演技もなく、ただ事実を語る。バタフライならできるって。

だから、心が充足してきたんですね。自己受容です。バタフライなら泳げる子。

そう考えると、いつも岩場で俺ってかっけーってやらないとやっていけない男性クライマーたちの心の中には、深い傷があるということですよねぇ…。ある意味、お気の毒な方たちなんですよね。真相では。

新たな安心基地


そして、私が次に考えなくてはならないのは、もし次に岩場で誰かと登るときがあれば、

「この人とは、”ともに遊べる”仲間か?」を基準にし

「支えなきゃ」ではないことです。

私の性格は、
・非常に高いロイヤリティ(忠誠心)があり、
・コンパニオンシップ(相手への気遣い)
があるのが特徴です。

つまり、裏切らない、相手によく寄り添う力が強いって、ってことです。そりゃそうだ。シングルマザーの母の強力な助っ人役だったのですから。

これは人に対して向けられるだけでなく、対象は、家族、仕事、山、クライミングといった人格を持たなものにも広げられました。

私は山に礼を尽くし、読図を身に着けました。
クライミング技術は人と登るようになる前に、自腹で講習会に出かけ、岩場で必要な技術は身に着けてから岩場に行っている。岩への礼儀です。

アイスクライミングで師匠のリードのビレイを初めて仰せつかったときは、リードのビレイを学ぶために講習会に別に出たくらいです。

相手の命へのリスペクトがとても高いのです。日赤の救急救命は3年ごとに受けて、常に救急救命法をアップデートしていますし、講習会情報が来たら出れるものは出る。雪崩講習も山に行く前に受けました。常に学ぼうという姿勢を持ち続けている。

しかし、相手にはない。これってフェアですか?組めますか?

それは、「共に遊べるか」で言えば、Noでしょう。


「ともに遊べるか?」が新しい安全基地です。

私に必要なのは、

「共依存的ロイヤリティ」から「相互尊重的コンパニオンシップ」への進化

です。

わたしばっかり、ではなく、相互に、ということで、

それは

私が講習会に出なくなる方向ではなく、
相手が一緒に講習会に出る方向性

ということです。

私のロイヤリティの高さ、礼節、命へのリスペクトは、
成熟したアタッチメントの現れです。

なのに○○してくれないと登らないとか脅しを使ってパートナーを組まされる。

「相手を守ってやらないと関係が成立しない」というヤレヤレ感ではなく、
「互いに自立したまま関係を楽しめる」のが大事だということです。

「僕、初心者なんでまだビレイができないから、経験者と登りたい…」という人は、有料で講習を受けてから来てくれないとあぶないです。

なぜなら、クライミングパートナーは講師ではないからです。私は、実際、すごい人とばかり登っていますが、相手に講師役を期待したことはないです。それは、相手に失礼だから、ですよ。最低限のビレイくらいできるようになってから、パートナーに申し込んでいます。技術は見て盗むもので、与えられるのを期待するものではない。


「私は、山にも人にも、等身大の自分でいられる」
「私は、恐怖ではなく楽しさで生きる」
「私は、支えるのではなく、共に遊ぶ」

私は、もう守られなかった子ではない。
私は、水と友達になった。
私は、弟を助けなくても、愛を失わない。
私は、命に礼を尽くすクライマーである。
そして私は、"ともに遊べる"人と、人生を登る。

私は、もう守られなかった赤ちゃんではない。
私は、水と遊び、山とアイスダンスを踊る。
私は、母性の手に導かれて、自分を抱きしめ直した。
私は、恐怖を超えて、自分のワルツのリズムで生きる。
私は、”ともに遊ぶ”世界の住人だ。