2022/11/26

ちょっくら雷山…普段着の山

■紫外線量

今日はお天気がかなり良かったので、近所の山、雷山へ。

いつも思うのだが、紫外線の量が福岡は足りない…カラッとしない。今日は、これは!とスイッチが入る天気で、思い付きの山。10時に家を出ても、登れる(笑)福岡の山はちっさい。山梨ではありえない小ささだ。

雷山はこの辺では、一番好きな山。下の植林がきっちり手入れされていて、沢がキレイだから。あとは駐車がややこしくないのがいい。

■ 瞑想  

最近、瞑想について学習が進んだためだが、やはり、私の山は瞑想だということが、はっきりした。

足を右、左と唱えながら、いつも歩いていたが、これは、原始仏教のヴィパッサナー瞑想と同じ。唱えることを仏教ではラベリング、という。歩く瞑想だ。

簡単に言えば、ものすごく丁寧に足置きする、という意味です。クライミングでは、猫足、というやつ。

■ めんどくさい = パワームーブなのでは?

先輩の荒木さん、瞑想苦手だったよなぁ…いつだったか、ヨガに何人かで来てくれた時、きょろきょろしちゃって全くダメだった。多動かな。

私の考えでは、めんどくさい、という気持が勝ると男性は、”えーい”とパワームーブに傾く。青木さんがそうだった。彼にとっては足を細かく拾うより、腕力任せの方が早い解決法だからだ。

だから、パワームーブで解決するタイプの人の、仏教的な意図は、めんどくさい、なのではないかなぁ?

■ 気づき

お金も同じで、実は何でもカネで解決しようという日本人体質は、めんどくさがり、という意味ではないのだろうか?

日本ほど便利な国はないと言われるが、不便を嫌うあまり、不便に伴っていた、

心理的便益、

例えば、瞑想的な生活…も失ったのが、戦後の国民生活という気がする。その心理的便益と現実社会の便益が釣り合う点はどこなのだろうか?一説は昭和30年代なのだが、アーミッシュは1950年くらいと考えているようだし。

例えば、薪の生活は不便だが、その生活がもたらしてくれていた心の充足、というものがあっただろう。

■ 気温が高い

気温も高いので半袖で歩いたら、周りの人に寒くないのかと聞かれた…。日中20度の気温なんですよ…。20度って…冬じゃないよ。九州の下界は冬とても暖かい。

小山田大さんは、九州の中では寒い日之影ですら、冬でも上裸だよ? 服着てたら、違和感あるくらい上裸定着している人だよなぁ…

周りの人は、すごくちゃんと登山ウエアを着ていたが、これも、気温や環境を考慮した結果ではなく、TVの影響、つまり、都会的な流行の結果でしかなく、本質的にミーハー全開、というのが福岡の県民性だと思った。 つまり、福岡=東京コンプレックスの強い町って意味だ。マスカルチャーに迎合しており、それだけならまだしも、他者にも迎合を強いるのだ。

アンチ東京、が好きかもしれない。大阪はゴーイングマイウェイな町だよなぁ… 別に東京が悪いわけではないが。

■ すべての植物たちが幸せに暮らしている自然の中に立つこと

山が好きなのは、色々な植物たちが、どんな形であっても、住むことを許されているから。

多様性が豊富な様子を見ると、なんだか、

理想の世界

にいるという気がしてくる。単一作物の田畑は、豊かには見えず、日本の同一性優先の国民生活を思わせられ、なんだか嫌なんだよな。

ただし、つたの絡まった木だけは、宿っている本体をいつか殺すんだろうと思って、戦慄している…。

この木は、下部半分以上が、あばたで木肌が荒れて醜いことになっていたが、上の方は生きていて、

「まぁ、色々あったけど、今は幸せ」

と言っているかのようだった。

こういう風に、メッセージを植物から受け取るから、自然の中にいるのが好き。

仏教では

植物の在り方から学べ

と言われるが、

植物は、まったく与える以外の意図をもっていないかのようだ。

例えば、このもみじ。

一切害をなす気がなく

私の木陰をどうぞ

と言っているだけ。

それがしょぼくても…どうです、このしょぼさ。

だからと言って、意図の価値が下がるわけではない。

■ 競争中の人々

いつもの道を通っているが、久しぶりで、前に来たときは、アメリカ人のニッキーと来たなぁと思った。

人と歩くと急いで歩くはめになるよなぁ。

ニッキーちゃんもだが、今日登山道で会った人たちも、

競争、あるいはスポーツ

としての登山しか知らない。それでも、瞑想としての効果は、現れるだろう。それがスゴイことだ。

あ、しゃべりながら山を歩いても瞑想にならないが。

■ 山頂以外が良き山

今日も上の、のっぱらが良かった。 ここは山頂ではない。山頂だけが価値ある場所ではない。

山頂から下った、スキー場のあと。なぜかパイオニアツリーは、入っておらず、草原が維持されている。山梨では、大菩薩嶺という人気の山の奥に、まったく人が通らず無視されてしまっている、狼平という、平原が広がる区間があり、そこがこんな様子で、好きだった。私は基本、平原が好きなのです。平原が。ログハウスを建てて暮らしたい。

手入れが入って丸太で土留めが作って会った。今日は、格別、空気が良い日だった。上はカヤの、のッぱらでここが一番好き。

麓にいかづち神社があるが、イチョウの木の紅葉で、地面が真っ黄色に絨毯を敷き詰めたようになっており、気持ちが良かった。このイチョウ、下部で、全く違う木を合体して宿していた。


下山したら、いつも立ち寄る窯でオバチャンとお話。言葉の布施。善行為。

地元の人たちの話…雷山村には20件住んでいるのだそうだ。

気分よく下山して帰ってきた。

のんびり運転しても16時。


退職後の人には、ちょうど良い環境だろうなぁ…

 

 

 

 

 

 ■ 競争 も スポーツも 少し違うんですよ…私が欲しいのは、自然から学ぶこと

こんな調子で、クライミングもしたい。つまり

競争、& スポーツ

として、クライミングに取り組みたい人と登ることは、私にとって不幸の道。

 いくらパートナーに困っている人がいる、気の毒だなぁ、付き合ってあげようかね、と私が思ってしまったとしても…。

基本彼と登ったのは、気の毒だからです。=休み不定休=パートナー貧乏。

それは解消されたのではないかと思う。それはそれで良かったことだ。

さてと、それでも今は、

 自分をおろそかにするクライミング

をしたことを反省している。 あげられる以上の親切を上げないというのが課題だな。