2022/11/27

最近の兆しと話題

 ■ 日之影町の可能性…ボルダラー×自伐型林業に光明

九州での出来事を相変わらず総括中…。

日之影町は、今日も小山田さんが頑張っており、なんだか神々しいほどだ。

日之影では、自伐型林業が町長を上げて推進され、研修林も整備されたそうだ。素晴らしい。

■ ボルダーのほうがロープより危険

念のため、一応断っておくと、私はボルダーはヤラナイ。

というのは、私は関節が非常に柔らかい。人には、軽い衝撃でも、私には、重大な事故につながるからだ。

ランディングが、ボルダーでは最も危険なところであり、ボルダーって、ロープでキャッチされるクライミングより、危険だ。ランディングで、膝が脱臼しただけで、2年の休養を余儀なくされている、現在進行形の経験者。

とはいえ、岐阜県の事例を考えると、誰か、地域おこしに心がある人が、

 ボルダリングによる地域おこし×自伐型林業 

で、生計を維持しつつ、地域に入れば、

 環境保全型観光として、ボルダリングによるユニークな観光開発が進む、

という可能性は大いに感じる。

私がボルダーもできれば良かったですけど、人の能力は、全知全能ではないので致し方ないですね。

林業にしても、女性の先駆者を見ても、施業プランナーなどのホワイトカラー職であり、ゴリゴリのブルーカラー職は女性には体力的に無理があるかと思います。

登山のガイドでも、月に何日山に行って平気か、数えてみたのですが、13日はきつく、11日くらいがマックスっぽかったです。

私が得意科目なのは、多文化共生、です。ゲストには外国人一杯で、なおかつホワイト人材ばかりです。

■ 田舎のよそ者排除は縄張り意識

田舎は縄張り意識のとりこになっているんだなぁ…と最近、とある動画を見て納得した。

縄張り意識というのをかみ砕くと、基本的には、”俺のものだ!”という我執だ。

子どもが、「僕のおもちゃ、貸さない」と友達におもちゃを貸すのを嫌がっている状態。

日本人はアメリカから来た考えだと思っていると思うが、アメリカでは、昔から、シェアするような教育が標準で、おもちゃを貸さない子供は、幼稚園で、だいぶ強くたしめられる。

日本の田舎では、変な縄張り意識があって、よそ者、という言葉で、それを端的に表し、排除するのだが…それをやっているところでは、それが我執であり、当の村生まれの若者さえ都会に追い出してきた、つまり、過疎化や限界集落化の原因は、縄張り意識なのだ、という自覚が、なぜか生まれない…。

自覚がないということは、それを改める気がない、ということ…。

いい加減、身につまされてもよさそうなものだけどなぁ。 若者が出ていくのは、なぜなのか?ってことに。

我執を離れられない基本には、取れる作物が限られていたという江戸時代レベルの現実認識があるのだが、実は、それは100年ぐらい前の現実。今は日本は、隅から隅まで豊かになって、年貢を納めていた時代の貧しさは、100年前の過去のこと…控えめに言っても、とっくの昔…になっているのだが、それを手放すことが出来ない、というのが一般的に田舎に起こっていることのようだ。

多分、そうした思いに囚われて本質が見れないでいる間に、その背後では、

 巨大な搾取

が行われていそうなんだが…例えば、一部の素材生産者である伐採業者だけが、ものすごく儲かる上、その後の植林という苦役も外部経済化されており、

 植林計画なき伐採

が可能という産業構造が、疑問視されないという”常識”…それを 普通だ、と思って、特に問題視していないのは、日本人の、その中でも特に田舎の人の強い思考だ。 

戦後教育で、

 普通に考えたら、おかしいことにおかしいと言う

ということが、右へ倣え思考でおろそかになってしまっているのだろう…。

おかしいことには、おかしいと言わなくてはならない。

なぜなら、結果として、村(自分)に良いものを排除して、悪いものを温存するという、顛倒の妄念がおこっているから…

端的に言えば、岩場にせよ、村にせよ、よそ者が開拓するなど許さん!となるわけだろう…。

私は九州生まれなので、よそ者ではないし、一緒に登っていた先輩も佐賀なので、二人ともよそ者とは言えないけれど、やっぱりよそ者、山梨から殴り込みをかけられた、という扱いをされたんだろうな。

都会コンプレックスがあるってことなのかもしれない。

そういうことを考えると、先日、とある過疎の村で、私よりも背が小さいおじさんがいて、チェーンソー使うときに、盾になってくれ、ホントにあの人は天使だったなぁ…と思う。私の守護天使(笑)。

■ 時代はシェアした人から勝って行ってる

田舎の過疎の町が、縄張り意識で、よそ者を排除して、内輪だけで自己完結してしまいたいと考えるのは、おそらく自殺行為だろう…。

日本の人口が縮小していくということは、どこかの村は、廃村になることを意味するわけで、その廃村になることを避けうる規模、というものがあり、維持可能な最小規模を見出す必要がある。人口が平衡を保つために必要な移住者数というのが割り出せる。その数を確保したら、それ以上は基本的にはイラナイ。その最小の規模で、維持可能な数を知る必要がある。

その意味では、八女の黒木町は、すでに世界に向けて開かれており、外国人や若い人の移住者も多く、すでにコミュニティを形成しつつあり、多文化共生はひと段落している田舎なので、日向神が混乱した岩場であることは、かなり残念なことだ。

■ NHK 『遺体を捜す人たち』

https://www.nhk.jp/p/rs/M65G6QLKMY/episode/re/J9N5XGP5Y1/

聞き逃し配信もあるそうです。

以下私の体験談。

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 アイスクライミングに一緒に行こうと言われたが、その日は会の冬山合宿の日だったので、断った。ら、その人が、パートナーがいないからと…冬富士に行ってしまった。冬富士なんて素人が気軽に行く山ではなく、現地の人でも毎日富士山を眺めて、無風のタイミングを見つけてそれ!と行くような山。富士山は単独峰なので強風は舐めてかかれない。案の定遭難し、携帯電話でレスキュー要請したが、NZの携帯を日本でローミング使用していたため逆探知できず、出動した隊は、別のオロク(死体)を発見して帰ってきた。発見したのは、半年後で当然だが遺体。

ということが山梨時代にあった。冬の富士山5合目は、テント泊している人一杯で、その辺でアイゼントレしているのは普通です。が山頂までというのとは話が違います。そんなことは、昨日今日、ポイっと登山を始めた人にはわからない。山頂も5合目も同じ富士山。なんなら、浅間神社から歩く”下界の登山道”も富士山。
私は積雪期の富士山山頂には、5月に言っていますが楽勝でした。
アイスクライミングができるなどと登攀のグレードだけで山を測るとものすごく危ないです。山のイロハが全く分かっていないで、自信満タンで登ってしまう。

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この事例からも導き出せるように、

 スポーツクライミングでグレードだけが上がってアウトドアのリスク認知がゼロの人

が、自信がある分、一番危ない、です。

グレードがさほどでない、体力もさほどでない、という人たちは、そもそも、自信満タンでないので、自分の力を超えるようなことをしようと思いつきさえしません。

リードできない人は、終了点の作り方を知る必要がない、というのと同じです。

しかし、バンバン登れるようになっても、終了点の作り方を知らないと自分で自分をピンチに追い込んでしまいます。この彼のように。 

振り返っても、ホント、”登れるだけで、その他のことを何も分かっていない人”を後輩にもらったりしたら、登れない人を貰うより厄介です。

なんせ、登れる方が上っていう階級社会を当然視して、育っているので、リスクを指摘しても、いうこと聞きません。

こちらがしてあげていること自体が、そもそも認知できないので…、つまるところ、お返しや感謝も、当然ながら、”ない”ですし。

そう考えると

登攀力だけをやたら上げるだけの教育、

そのような教育が、最も悪いクライミング教育、です。

一生、人工壁しか登らないで、プラスチックだけするなら別ですが、外岩に進みたいと思うなら、山のリスク認知が先で、グレード追求は後というのが、短命で終わらないためには必要そうです。

        結果を顧みず快楽にふけりたい=無謀なクライミング

同じことで、学業の結果だけ、テストの点数だけを求める教育が一番悪いのかもしれませんね。

登れたら、スタイルは関係なしの、ビデオでムーブを盗み見してしまうボルダーも同じかもしれません。


  図書館に行けば一杯こんな本あるけどなぁ…