■ テレビの害?現代病とは、俺が俺が病だそうです
これは昨日、友人から投稿されたメッセージである。
クライマーのみんなは、もしかして、クライミングを、
人に自分を認めさせる道具
にしてしまっているんじゃないでしょうかね?
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昨日、久々にちゃんとテレビを見たのだけれど、他人に認められる事(成功だとか他人の為だとか)が最大の価値観のように扱われている世の中の"常識"というのが何とも恐ろしく見えた。
それは大多数の民衆の暴力への認可だと感じる。
自己を否定され、自己を否定し、他人への承認を求める方向へと進む。
他人への承認は満たされない欲望であり、終わりのない欲望はついには暴力へと発展する。
自己肯定というのは自分に何か付加価値がある事によって生じるのではなく、何者でもない"私"が自己により全肯定される事によって為されるものであり、本来の自己に内包されている根源的なものだと私は感じている。
"存在"というものは、そのまま肯定されているから"存在"しているのである。
ただそれが幼い頃から否定され、見えなくなってしまっているが故に、自己否定と承認欲求という形の問題としてあらわれる。
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■ ラッペルダウンで作っているんですよ?
総じて、日本のクライミングシーンは、ヨセミテのグランドアップ開拓の理念からその先の時代へ世界が進んだのに、日本だけが進み損ねているような印象を持っていますが…。
山梨時代に一緒に登っていた先輩など、トップロープ禁止にしていたので、そのせいで上手になれないでいる、と5.13を登るツヨツヨクライマーが指摘していました。
ハラハラドキドキがクライミングの魅力だとすると、どうせリードの方が楽しいのですから、リードしたくなるのがクライマーです。
なので、別にリードしたほうがえらいわけじゃない。それは昔の、アルパインのトップを一部のエリートクライマーだけしか努められなかった時代のノリです。
ラオスでは、自分がリードした課題をほかの人が登りたくないか?周りに聞いてから、ロープを抜いていました。
そこで登っているクライマーは全員が海外旅行中ですし、ラオスなんて医療の整っているとは思えない国ですから、屁のツッパリとかで意固地にリードに拘り、怪我をした方が全員にとってマイナスです。
なんせラッペルダウンのルートは、開拓者だってオンサイトしていないんですよ?
試登しないと、ボルト位置だって決められないんですから。
■ 一般市民クライミングとエリートクライミングは別物ですよ?
大体、5.12がやっとこさでも届く…というレベル感が、かつての山岳会のリーダークラスの人に最低限、必要だという登攀力だと思いますが…、そのくらいのムーブ能力は、最近では12,3歳の子どもにとって、ウォーミングアップなのだそうです。
クライミングは、バレエと同じで非日常の動きなので、動作をやったことがある量、が、まぁ、才能を別にして、そのまま、ムーブ能力、です。
要するに、3歳から始めるお稽古事、伝統芸能とかと同じレベル感です。幼くして始めれば始めるほど、単純に有利。
私はバレエは19歳でスタートしていますが、その当時、世の中には、大人のバレエ教室はないので、12、13歳の子供たちと一緒に混じって教わっていましたが、その後、アメリカでもバレエレッスンを取ったら、60代、70代の人ばかりで、私がダントツにうまかったです…。でも、子供たちに交じれば、ダントツに下手くそです。
同じことが起こるのが、昨今の山岳会。60代で初めて山登りを始めました、みたいな人に交じって、40代で初めて岩、登っています、みたいな人が岩トレしたら、ダントツで上手な方に、自動的に入ってしまいますが、だからと言って、一般のクライミングジムに行ったら?当然20代、30代の男性が主体なのですから、ダントツビリけつです。
当たり前のことが当たり前に起きているだけです。
私はいつも変わっていません。40代女性の平均的な能力を提示しているだけです。
バレエと同じで、クライミングも、エリート教育、早期教育でのレバレッジが偉大です。
大人になって始めた人とは、3グレードも違うのです。
昔の山岳会では、野北がリード出来たら尊敬されたそうです。私もリードで登っていますが、特に難しさを感じない岩場でした。つまり、5.8~5.9レベルです。
そんな世界で、5.12が登れる才能をたまたま有していたら、周囲の人から見たら、まるで神レベルです。誰もがひれ伏すでしょう。
昔は若くして岩登りをスタートするということ自体が稀で、特権的出来事でした。大体、超有名クライマーって、その時代としては、例外的に、若年齢でクライミングをスタートしています。
しかし、今は、多くの人が若くして始められるので、10代で5.12とか普通です。
それは登った年齢と量の問題で、誰でも量をこなせば届く程度なのだそうですから、現代で才能がある、というのは、5.13以上のことになります。
昔、5.8~5.9が登れたら尊敬されたというレベルがスライドアップして、5.12くらいになってしまっているのです。
短く言えば、時代はもう2022年にもなろうという時代なんですよ。昔の常識は昔の常識。
これも、クライミングウォール、落ちても死なない人工壁や、ボルダリングジムができたおかげです。
昔は練習したくても、そんなに身近に練習することができなかったわけです。
登れるグレードの因果関係を見ると、そんな程度のことですから、ある集団の中で自分が、どの程度上手かで、威張ったり、謙遜したり、と態度を変えるのは、滑稽というものです。
■ 結局のところ意志の問題
結局のところ、クライミングのムーブ能力をどこまで上げたいか?というのは、
意志の問題
です。オリンピックの選手になりたいなら、そりゃ毎日やっていないとなれるわけがありません。
バレエでも、世界のトップクラスになり、ロイヤルで踊るようになった人は、毎日4,5時間踊り、ローザンヌに出て、留学権を得て、さらに毎日8時間踊って、競争をくぐりぬき、主役の座を得るわけですが、そんなこと、趣味のバレエの人がしたいです?したくないですよね。踊ること自体が楽しいので、レッスンは何か他のためにある時間ではなく、人生そのものです。
同じことで、毎日登って特訓している、現代のコンペクライマーがスゴイ登攀力を持っているのは、その通りですが、その代償は、グレードで計られ、比べられ、自尊心を常に傷つけられているってことです。
■ それと同じ価値観を一般の市民クライマーはしなくていいですよ
日本人は全体主義なので、誰しもが全員、オリンピック選手になるために頑張っているかのように、一般市民クライマーに序列をつけてしまいます。
それは、昔の共通一次世代の遺跡なのでしょうか?
現代は、個性の時代ですし、大人になってまで共通一次しなくていいです。
つまり、トップレベルクライマーがやっていることを一般市民レベルクライマーがやらなくていいってことです。
エリートクライマーになりたい人は、子供から練習してなればいいし、市民クライミングで楽しみたい人は、グレードで他者から承認を求める世界に無理して生きなくて良い、ってことです。
昨日は下呂でボルダリングで、何かに対して努力するという価値観を見出して、人ともきちんと繋がれるようになった10代の男の子の話がNHKで取り上げられていましたが、尊いことだと思いました。
団体競技が合わない人にも個人で行うスポーツのクライミングは合うことがあります。
せっかく市民クライマーで、グレードに縛られないでよい、自由な世界にいるのに、なんで、次々と性急にグレードを上げて行かないといけないんです?
自分の好きなペースで成長できるという贅沢を享受しましょう。
■ プロセスを味わって進んだほうが、お得
私は、クラックを目指していたのですが、小川山レイバックでスタートですが、一回目に連れて行ってもらったときから、最終的にRPするまで、3年くらいはかかっていますが、そういう風にじっくり成長するのは、楽しかったです。
グレードより、思い出。
自分にとっての、いわくつき課題がいっぱいある。そっちのほうが、私にとっては、味わいあります。
良き思い出がたくさん作れる、それが急がなくて良い市民クライミングのだいご味なのでは…。
グレードより、良き思い出。