2016/10/01

擬似WASP

今日はメルボルン時代にお隣に住んでいたミキさん・デイビッド夫婦と子供二人、おじいちゃんピーター・おばあちゃんのAnne+友人2名(アシスタント?)、ショーンとアンナの8人の接待日(笑)

当時、まだ赤ちゃんだったハンナは、おちゃめな6歳になり、日本語と英語を同レベルで扱い、なおかつフランス語も話せるトリリンガルに成長していた。妹のエリカちゃんとは初対面で4歳。

知り合ったのは隣に住んでいたから・・・。私が住んでいた家は油彩画家の家で、大きなビクトリアンスタイルの家だった。マシューと言う老犬が、よく私の部屋に訪ねて来ては、ドアを開けて、とおねだりしたり、寒いから膝に乗せて、とおねだりしたりして来ていた。

私は海外の生活のほうが、圧倒的に人間関係が楽だ。

してもらいたくない嫌なこと = 言わなければ相手に伝わらない、のだから、”言う”。

してほしくないことはしてほしくないと言う。 好意が届かなくても、こちらの押し売りなのだから、押し売りを受け取ってくれなくても、腹を立てたり失望したりしない。

嫉妬深いほうでもない。基本的に他人に対する興味が薄い。

日本人の場合は、”こうしてほしくない”と言うと、大方の人が”拗ねる”・・・ので、してほしいこと、してほしくないことを具体的に鮮明に伝えることができない。

でも、互いに好意を持ちつつも、相手にとって不都合な形で好意を贈りあって、我慢し続けるなんて、非生産的だ。

欲しくない贈り物をもらっても困るのだから・・・気持ちは受け取っても、欲しくないモノ(コト)は、欲しくないと言わないと、一体誰が相手のことを最初から100%理解ているだろうか?

最初から100%自分とピッタリの人を探すなんて無理なことだ。互いに歩み寄りが必要だ。

自分が差し出したものが相手が欲しいものと違うなんてよくあることだし、そんなことは自分が相手に合せればいいだけだ。知らないのが普通なのだから、がっかりなんてしても時間の無駄だ。

相手がしてほしいと言ってきたことをしてあげる。してほしくないと言ってきたことはしない。

シンプル。私はそうしている。してほしいことは相手に言うし、してほしくないことも言う。初めから理解していることなんて期待していない。

最近は、そんなことを考える。 

■ レッテル貼り

通り一般のステレオタイプではないからって、変な人扱いするのはおかしい。

その人は、たぶん、通り一般のステレオタイプなのだろう・・・。

分かりやすい人というのは、要するに、どこでもいるタイプということである。

その人の個性を形作るのは歴史である。個人であれば、個人史である。

私の個人史には、メルボルンがあり、サンフランシスコがあり、人の赤ちゃんをあやした時間がある。

つらい時期もある。誰にでもつらい過去はあるものだ。できた傷が特殊だからと言って、傷があるほうがおかしいとか、間違っている、改めるべき、と考えるのは、間違っている。

それは、その人を否定することになる。

具体的に伝えてきたら、特にだ。普通はそういうことは伝えず、スルーしてその人の人間関係を断ち切って終わりである。伝えてくるということは、継続しようと言う意思があるから、そうするわけなのだから。

体の傷も、心の傷も同じことだ。体の傷には理解を欲しがるのに、心の傷に理解を与えないなんて、間違っている。

膝関節症で歩けないことと、家族の愚痴に共感できないことは、同じことだ。

傷(挫折)にも、栄光にも、その人自身が反映されている。どちらも尊重して扱うべきだ。

・・・というような考え方は、欧米の・・・特にアングロサクソンの、WASP的考え方なのかもしれない。

私は欧米の人から、誤解されることは非常に少ない。もしかしたら、前世はワスプなのかもしれない。したがって相手の期待を裏切ることも少なく、理解されないことも少なく、人間関係的に良好になりやすい。

振り返っても見ても、大人時代に長く友情を築いている人たちは外国人が多い・・・。

しかも、私は文化的にも、知っていることは平均的日本人をはるかに離れ、平均的欧米人のほうにより比重が偏っている。今日は、宣教と、ジェーン・エアとアンオブグリーンゲイブルスの話をした。

Anneが”E”をつづったのを見て、EがついているAnneなんだな~と言って、笑いあった。

・・・というわけで快適な人生には、自分に適した文化圏に身を置くと言うことが大事なことかもしれない・・・と思うようになった。

6歳の子供が3つの言語を話す時代なのだから、現代は。