子供のころから、何でも「危ないからダメ」という大人が嫌いだった。大体、アブナイからダメ!と言われたことは、私にとっては、危なくなかった。
危ない子には危なく、危なくない子にとっては危なくない。
何がどう危ないのか?分かっていないことが一番危ないのだった。
■ 反骨
というわけで、私は、基本的に
危ないからダメ!とか、”頭から決めつけている人間”がキライな反骨人間である。(ちなみに、ステレオタイプで決めつけられるのもキライだ)
・・・という点が登山にマッチしたのだと思う。
一般登山でも、皆に危ない危ないと言われたが、”全然、危なくないじゃ~ん!!”と感じた。
一般登山では、
リスクに対して、ただ感情的になって、逃げまわるのではなく、分析的に考えて立ち向かう
という精神がメリットに働いた。
ところが・・・岩になった途端に、怖くなった。
登山の場合: 理解 = アクセル 安全の向上
登攀の場合: 理解 = ブレーキ 怖さの増加
登攀では、危険認知力が、ブレーキとして働いており、それが怖さを引き出している。
怖さが体の動きにつながり、実力が発揮できないのだから、結局、実力の大幅に下のところで登ることとなり、もっと登れるはずだと思われてしまう・・・・のは・・・、おそらく正しいのである。
しかるに、危険認知力を ブレーキにしないで済む方法を考えなくてはならない。
■ 肉体的苦痛への恐怖ではなかった
怪我をすることが怖いのだろうか? 痛いのが怖いのだろうか?
今年は、グランドフォールした。
ビレイされている限り、あってはならない地面への墜落と、頭部の外傷を経験した。天国への階段を一歩上がった。
やっぱり感満点・・・(--;)
普通の人ならクライミングを辞めてしまうような事例だが、これは、私の中での内的位置づけ的には、”やっぱり感”の方が強かったのだった。
”皆にいつも、もっと登れるよ”と言われる。が、私自身は、”まだ落ちるかもしれない”と感じている。この矛盾に対する確信だ。内的判断のほうが外的判断より正しい、という確信。
今のスキルでは、当てにならないビレイでは登るべきでないと確信。
■ ビレイが当てにならないので、落ちないところを登るという山
一般に山岳会では当てにならないビレイを受け入れて登ることが普通に行われている。
それは、先輩だけに限らない・・・私は練習台であった。当てにならないトップのビレイで登るセカンド役も練習台だ。まだ落ちるかもしれない人なのに、である。
余談だが、先輩がセカンドで登ってくれる時は、落ちても停めれる確保していることを確認してから、セカンド役をやってもらった。ただおんぶにだっこの後輩でいるつもりはないよというプライドだ。恩を作ってしまっても、借りを作る気はなかった。
話を戻そう。”当てにならないビレイを受け入れて登ること”は、受け入れて、去年もうやった。
15年は当てにならないビレイヤーで、落ちないと分かっているところを落ちないように登っていた。だから、落ちるグレードは登っていない。当然、登攀力も成長はしていない。
落ちないグレードで登っても登攀力は成長しない、と言われている。
現在の課題は登攀力・・・ということは、が、私に必要なのは、
当てになるビレイを当てにして登る経験
だ。ビレイヤーに対する不信感が強い。どのようなビレイが当てになるのかは、落ちないかぎり確信できない。
ベテランに
「今はただ楽しく岩に登ることです」
と言われたが、なんだかリアリティがない、お言葉・・・。ただ楽しくか・・・うーん。
”ただ愉しい”って感じは、どういう感じだったでしょうか?な感じ・・・(^^;)。
かつてそんなことがあっただろうか?ただ楽しいって今まであったっけな? 一回目の三つ峠以外ないけどな。
前回の瑞牆でのオンサイト経験・・・2本とも・・・は、振り返る度に、じんわりと幸せがよみがえってくる。
つまり、これが私が価値があると思っている感じのような気がする。
チクセントミハイが言っているスキルとチャレンジのバランスが取れたフロー状態というもの。
登攀は緊張したが、登る前に登れないような気はしなかった。多分、登れるとは思っていたと思う。
■ Lose:Loseの山、Win:Winの山
今夏の成果の一つは
乾徳山旗立岩中央岩稜
である。対照的なのが、烏帽子岩左岩稜。
(セカンドオンリーで行った山)と(自分のリードで行った山)では、経験の密度が違う。
おそらく人間は2タイプに分かれる。
(セカンドオンリーが楽しいと思うタイプ)と(自分のリードで行った山が楽しいと思うタイプ)だ。
悲しきかな・・・ 私は後者である。感動の質が全く違う。質の差は、グレードに寄らない。
連れて行ってもらう山は、面白さと言う意味でいうと、あまり感動に厚みがないのである。
となると、自分で行けるようになるまで、寝かせておいたほうがお得なのかもしれない。まさに2年、寝かせてあった旗立岩のように、である。
しかも、連れて行く側も、実はそう面白くないらしいのである。楽しさは、連れて行った人の喜びの量がマックスで、自分はその喜びを受け取る側になるだけなのだそうだ。
・・・となると、連れて行く側も得るものが少なく、Lose:Loseの選択肢となってしまう。
これは、山の面白さを重視した場合、取るべき選択肢ではないかもしれない。
面白さを山の成長のための糧にしなくてはならない。
旗立岩では核心部をリードした。3ピッチしかないのもあるが、細部まで覚えている。後ろを歩いてくれたのは、先輩で、先輩の方も、そこは行ったことがなかったのだそうだ。というわけで、Win:Winの山になった。
一方、烏帽子岩のほうは、岩が脆い箇所がある、と言われたが・・・そうだっけ?覚えていない。すいません。
登攀は易しいと思ったが、素晴らしい景色しか覚えていない(汗)。
この感想はめったにない感じで、初めてのマルチ、屋根岩2峰でさえも、かなり緊張し、セカンドでも、登攀はギリギリ感があって、Aゼロも交えたし、どこでどう何が難しかったのか?という記憶も、鮮明だった。
というわけで、烏帽子岩では、体験の濃度・・・が、薄くなっていたと言うのはいえるのでは?と思う。
登攀については、易しいな、という程度しか、よく覚えていないことが裏付ける。
そして、それは考えてみれば、ガイド登山の人たちが語る時の感じと似ている。もしかして、烏帽子岩はガイド登山になっていたのかもしれない。
どうして、同じような時期に行っているのに、こうなってしまったのだろうか?
リスク管理が自分持ちでなかったからだろうか?
もちろん、核心部のクラックは、存在するロケーションが怖すぎる!と思ったが、ロケーションに恐怖心が湧いた以外は、登攀そのものは、拍子抜け的に易しかった気がした。
■ もう行けるか?検討してみた
この山はもともと、登攀が易しいので、同レベルの相手と登ろうと考えて、温めていたルートである。
なので、
・ロケーションに対する恐怖
・万が一のプロテクションの設置の確実さ
をマスターすれば、登攀力的には、烏帽子岩は登れるはずである、と考えてしまう。
・ロープワーク → マスター済み
・ルートファインディング → 一度行っている
という有利がある。クラックの登攀も、最後のワイド5.7だけは、ワイドの5.10Aや5.9を練習で登っていないから、リードで取り付く資格がないと言えるが、下のクラックは、ハンドサイズの5.7。
登れるハズであり、実際、セカンドで登って易しかった。
ただ落ちれないのでプロテクション技術は確立しないとダメであろうし、恐怖は乗り越えないといけないだろう。
が、この5.7クラックは、技術的には登れるのではないか?と思ってしまう・・・。実際も、セカンドで、問題なく登っているのであるから。
しかし、ベテランで、判断力の確かな人に聞いてみたところの返事は、NOである。
理由1)岩がしっかりしていない不確定な場所が少なからずあり、 カムセット難しい
理由2)落ちなければ大丈夫 ⇔ 逆に言えば落ちるかもしれない人は行ってはいけない
理由3)長い=危急時にはまりやすい
振り返れば、旗立岩は
3Pと短い
のである。むろん、前穂北尾根もそうで、ロープが出るピッチは非常に短い。初心者は長くないルートから。
ピッチ数を積みあげて行きたいが、近所で適当なルートがない。三つ峠はすぐ終わってしまうし。
ロープワークの遅さは、1分余計にかかるだけで、20Pなら20分の遅れ、3Pなら3分の遅れですむ。
■ 内的基準型人間
■ 内的基準型人間
私は完全に内的基準型で、判断は、自分をよりどころにする。
≪内的基準型の言葉の特徴≫
・自分の感覚を優先する。自分で分かる。
・自分の価値観、世界観を優先する。
・自分を評価するのは、自分。
・他人からの指示、命令には反発する傾向がある。
・指示、命令は単なる情報として扱う。
・自分、私、俺などの言葉が多く出る。
・胸を張り、姿勢が良い。(自信の表れ)
・手で自分の事を指したり、胸のあたりに手を当てて話す。
・周りから褒められてもリアクションが薄い。
■ 課題つぶし
・自分の価値観、世界観を優先する。
・自分を評価するのは、自分。
・他人からの指示、命令には反発する傾向がある。
・指示、命令は単なる情報として扱う。
・自分、私、俺などの言葉が多く出る。
・胸を張り、姿勢が良い。(自信の表れ)
・手で自分の事を指したり、胸のあたりに手を当てて話す。
・周りから褒められてもリアクションが薄い。
■ 課題つぶし
これを読んで思い当たることが多くて、おどろいた(笑)。そもそも、私は孤独が好きで、他人を必要としないタイプである。
が、登山は、”経験に基づいた情報”が、かなり色濃く必要だ。
そこが、(初見のほうが楽しい)と言う要素と相反する部分である。しかし、初見でなくても、連れて行ってもらったルートに復習山行しなければ、そのルートは自分の血肉になったとは言えない。
覚えていないほど楽だと感じた登攀のルートでさえ、リードで行くとなると、多くの乗り越えるべき課題がある。
そうした課題をつぶしていくことこそ、登山の醍醐味と言えるのである。
これまでの登山においても、自分で自分に設定した課題は、必ず克服してきた。それが自信の根拠になっている。自分で自分に嘘はつけないものだからだ。
課題を自分で作り、自分で克服する。そのためには、自分の課題が何か?を自ら設定できる力が必要だ。
また課題が整理されて幸せです☆
が、登山は、”経験に基づいた情報”が、かなり色濃く必要だ。
そこが、(初見のほうが楽しい)と言う要素と相反する部分である。しかし、初見でなくても、連れて行ってもらったルートに復習山行しなければ、そのルートは自分の血肉になったとは言えない。
覚えていないほど楽だと感じた登攀のルートでさえ、リードで行くとなると、多くの乗り越えるべき課題がある。
そうした課題をつぶしていくことこそ、登山の醍醐味と言えるのである。
これまでの登山においても、自分で自分に設定した課題は、必ず克服してきた。それが自信の根拠になっている。自分で自分に嘘はつけないものだからだ。
課題を自分で作り、自分で克服する。そのためには、自分の課題が何か?を自ら設定できる力が必要だ。
また課題が整理されて幸せです☆