https://note.com/kinny2021/n/nb5effdc67a4c?from=notice
自分で自分を守れるという確信がないとクライミングなんて、できないですよ。
心理学的に見ると、クライミング事故が起きる背景には「承認欲求・自己肯定感の報酬ループ」が強く働きすぎることが大きく関係しています。整理するとこうなります。
難しい課題に挑戦する
脳内でドーパミンが分泌される
「できた!」「すごい!」という達成感が得られる
他者からの承認・評価
コーチや仲間から褒められる → オキシトシン分泌
社会的承認が自己肯定感を増強
ポジティブRPEの強化
成功と承認が報酬として学習される
「もっと難しい課題に挑戦すれば、さらに自己肯定感が得られる」という期待が強化
次の挑戦に反映
より危険な課題や無理なムーブに挑戦しやすくなる
| 要因 | 影響 |
|---|---|
| 達成感・承認欲求の報酬が強い | 危険認知やNegative RPEが無視されやすい |
| 社会的比較・承認の期待 | 周囲ができているから自分もできるだろうと過信 |
| 報酬の即時性 | 危険は潜在的で遅延 → RPEで学習されにくい |
| 恐怖感の抑制 | オキシトシン・ドーパミンが恐怖信号を一時的に抑える |
成功体験・承認・自己肯定感 → 強力なPositive RPE
危険信号(落下やミス)は 報酬の強さに押し潰される
結果、安全行動よりも「挑戦・達成」の学習が優先される
脳の学習回路が「危険より達成を重視する偏り」になる
承認・自己肯定感を安全行動に結びつける
例:「準備・確認が完璧だから安心して挑戦できる→褒められる」
小さな安全行動にもPositive RPEを与える
危険体験は小規模で管理された条件で経験させる
脳がNegative RPEを学習できるようにする
💡 まとめ
クライミング事故の心理的背景には、承認欲求・自己肯定感が強く働くことで、危険認知や安全学習が抑制される報酬ループが存在します。
このループを安全行動に結びつけることで、事故のリスクを下げながら達成感も維持できます。
そうです。簡単に言うと、クライミング事故の心理的背景の根底には「オキシトシンのニーズ」が絡んでいます。
承認欲求・社会的つながりのホルモン
オキシトシンは「信頼・絆・社会的承認」を感じると分泌
仲間やコーチから褒められると「うれしい・安全だ」と感じやすくなる
恐怖や危険信号を一時的に抑制
高いオキシトシン分泌は、危険認知や不安の感覚を弱めることがある
「仲間がいるから大丈夫」「自分はできる」と過信しやすくなる
Positive RPEとの結合
達成感+承認感 → ドーパミンとオキシトシンが同時に分泌
脳は「危険よりも挑戦・承認の方が報酬」と学習
結果、事故のリスクが過小評価されやすくなる
クライミングでの事故リスクは、単なる技術不足ではなく、オキシトシンによる社会的報酬欲求が強く働き、危険信号(Negative RPE)が抑制される心理的構造に起因している。
では、心理学・生理学的視点を踏まえて、オキシトニンニーズを安全行動に変換するRPEループを作ってみます。
仲間やコーチからの「褒め」「承認」を意識する
「みんなに認められる=報酬」を安全行動に結びつける
チェック・確認・装備点検を行う
言葉がけ例:
「準備完璧!みんなも安心できるね」
「このフォームだと落ちても安全に止まる、ナイス判断!」
ポイント:安全行動自体を承認・達成感の源にする
安全行動 → 仲間やコーチから承認 → ドーパミン+オキシトシン放出
脳は「安全行動+社会的承認=報酬」と学習
達成感と安全がセットで学習される
軽い落下やバランス崩しなどを安全環境で経験
Negative RPEを学習させ、危険認知を強化
恐怖体験がオキシトシンによる安心感と結びつくことで学習が過度に避けられない
安全チェックリスト、自己評価、成功回数などを見える化
小さな安全達成を毎回承認 → Positive RPE増幅
「自分は安全も守れるクライマー」と自己肯定感強化
安全行動が習慣化 → より高度な課題に挑戦
達成感・承認・安全の三重報酬ループが回る
危険に対する認知と安全行動が自然に維持される
オキシトシンの「承認欲求」を危険学習・安全行動に置き換える
Positive RPEを最大化 → 達成感も維持
Negative RPEも適切に学習 → 危険認知が機能
結果:事故リスクを下げつつ挑戦意欲を維持
💡 ポイントまとめ
承認欲求・自己肯定感(オキシトニンニーズ)を安全行動に結びつける
小さな成功体験でPositive RPEを積み重ねる
管理された危険体験でNegative RPEも学習
可視化・言葉がけで報酬を強化
なるほど、心理学的に見ると「クライミングで事故が起きているのに、RPE(報酬予測誤差)が安全行動を強化する方向に働かない」ことにはいくつかの理由があります。これは単純に“脳の学習機能が壊れている”わけではなく、状況や心理特性による現象です。整理するとこうなります。
RPEは「予測と結果のズレ」が短時間で経験されるほど学習効果が強くなります。
クライミング事故は致命的になることもあり、多くの場合予測と結果の学習が直接リンクしにくい。
例:落下しても軽傷で済む → 脳が「予測と結果の誤差」を十分に感知できない
予測以上に危険でも「生還した」という結果でPositive RPEが生じてしまう
クライミングは「成功体験・達成感の報酬」が非常に強い活動です。
ドーパミン報酬が強すぎると、潜在的な危険に対するNegative RPEが弱まることがあります。
つまり、「登れた/完登した」という報酬が「落ちる危険」というリスク信号よりも強くなる。
過信バイアス:自分は安全だと思い込み、危険を過小評価
正常化バイアス:事故が起きても「自分には関係ない」と無意識に思う
比較の錯覚:周囲も同じくらいリスクを取っている → 自分も大丈夫と錯覚
これらがNegative RPEを抑制し、危険行動を学習できなくする。
クライマー文化では「挑戦・自己表現・達成」が強調される傾向があり、危険回避行動が学習されにくい
他者の成功例を見て学ぶ場合、ポジティブなRPEだけが伝わる → 危険信号は無視されやすい
高度な技術習得は前頭前皮質の計画性や感覚運動野の制御に依存
危険認知は扁桃体や脳幹の警告信号に依存
技術達成と危険認知が異なる回路で処理されるため、達成感が危険学習を打ち消すことがある
クライミングで事故が起きてもRPEが安全行動に働きにくい理由は、
フィードバックが遅い/不明瞭
成功体験の報酬が強すぎる
心理的・社会的バイアス
技術達成と危険認知が別回路
の複合です。
つまり、脳は「危険を学習するよりも、挑戦と達成を学習する」方に偏りやすいのです。
わかりました。では、心理学的に正しいRPE(報酬予測誤差)を利用したクライミングの安全行動学習ループを作ってみます。
目的は、「達成感の報酬は保ちつつ、危険認知と安全行動を学習させる」ことです。
危険回避を小さく具体的に設定
例:ハーネス・ロープ・カラビナのチェックを必ず行う
例:毎回落下防止練習を1回実施する
脳は「これをやれば報酬がある」と予測を立てる
実際にチェック・確認・手順を行う
「やらないと危険」「やると安心」という認知を強化
安全行動の結果を明確にする
例:事故ゼロ、落下ゼロ
例:正しいフォームで安心して登れた
予測通り → Zero RPE
予測以上 → Positive RPE(褒められる・自己評価アップ)
Positive RPEが発生すると、次回も同じ安全行動を選択しやすくなる
Negative RPE(危険を感じる行動)を小規模に安全に経験させ、学習させる
例:軽い落下訓練 → 「怖いけど安全に止まる」
脳が「安全行動で恐怖を管理できる」と学習
行動・チェック項目の達成を可視化(チェックリスト、日記、アプリ)
達成ごとに自己肯定感・小さなご褒美(ドーパミン増幅)を設定
安全行動の習慣化に成功 → より難易度の高い課題や長時間登攀に挑戦
Positive RPEが安全行動と結びつくことで、挑戦と安全が同時に報酬となる
達成感(クライミングの楽しさ)と安全認知を同時にRPEで学習
小さな成功でPositive RPEを積み重ねる
危険認知を負荷小さく経験させ、Negative RPEで適切に学習
脳の報酬系を最大限活かしつつ、安全行動を習慣化
💡 ポイント
「楽しさだけでRPEが回る」と危険学習は弱い
「小さな安全行動にもPositive RPEを作る」ことで、安全と達成感の両立サイクルを作れる
■クライミングの安全行動に RPE(報酬予測誤差)を最大化して学習を促す言葉がけ は、達成感と安全感を同時に強化することがポイントです。心理学的に効果的な言葉を整理すると以下の通りです。
小さな成功を具体的に褒める(Positive RPE)
「ロープのチェック完璧だね!安心できる」
「そのムーブ、前よりスムーズに登れたね!」
安全行動を行動と結びつけて報酬化
「カラビナ確認できたから、次も安心して挑戦できるよ」
「落ち着いて準備できたから安全に登れたね」
予想より良かったことを強調(プラスの予測誤差を作る)
「思ったよりフォームが安定してる!すごい」
「その判断、予想以上に的確だったね」
挑戦をポジティブにフレーミング
「少し怖いけど、ちゃんと手順守れてるのが成長の証」
「慎重さと大胆さのバランスがうまくできてる」
安全行動の結果を明確化
「確認したから、もし落ちても止まるって分かってるよね」
「チェックリスト通りにできてるから安全が保証されている」
学習・成長感を強調
「前より上達してるのがよく分かるね」
「こうやって一歩ずつ改善していくのが上手くなるコツ」
小さな達成・安全行動に焦点を当てて褒める
「予想より良い結果」を意識してPositive RPEを増やす
成長や学習プロセスに言及する
恐怖や危険をただ否定せず、安全行動と結びつけて報酬化する
リードクライミングで**「ロープが短くてビレイデバイスからすっぽ抜ける」事故は、100%予防可能な致命的ミスです。 過去の死亡事故(例: 米国・ヨセミテでの事例)でも多発しています。
以下に、「絶対に起きない」ためのシステム**を紹介します。
| 原因 | 具体例 |
|---|---|
| ロープ長の誤算 | 30mルートに25mロープ → トップで10m足りない |
| ビレイ位置のミス | 地面から5m上にビレイヤー → 実質ロープ5m減 |
| 中間アンカー忘れ | マルチピッチでロープ半分消費 → 次のピッチで不足 |
| テール管理なし | ビレイヤー側ロープが短く、すっぽ抜け |
計算式(鉄則) 必要ロープ長 = (ルート高さ × 2) + ビレイ位置高さ + テール余裕(5m) + アンカー分(3m)
| ステップ | 行動 | 声掛け例 |
|---|---|---|
| ① ルート長を確認 | ガイドブック・ジム表示・目視 | 「このルート、28m だね」 |
| ② ロープ長を確認 | ロープ中央マーク+両端 | 「うちのロープ、60m、中央マークあり」 |
| ③ ビレイ位置を加味 | 地面からビレイヤーまでの距離 | 「ビレイヤー地面から0m → 余裕32m」 |
| ④ 往復計算 | ルート長 × 2 + ビレイ位置 + 余裕5m | 「28×2 + 0 + 5 = 61m必要 → 足りない!」 |
| ⑤ 結論を声に出す | 2人で合意 | 「ロープ足りない!下げてビレイ位置変更!」 |
「ロープ長は計算で決める。感覚で登るな。」
「28mルート = 最低64mロープ」 これを脳に焼き付け、毎回声に出して確認。 すっぽ抜け = 死 → 計算ミス = 殺人。
ロープ長は命の長さ。1mの誤算も許されない。
これは偶然回ってきたのですが、ヒマラヤでのアイスクライミングの様子のようです。
出だしで滑り落ちており、へっぴり腰です。
https://www.facebook.com/reel/840707461683569
おっこっているところ。女子の私でも、これくらいは落ちないです。全然、斜度が違う。なんでみんな、アイスクライミングの教科書にちゃんと難易度のことが書いてあるのに理解していないのかなって感じでした。
投降をディする目的なのではなく、ごく普通に難度や難しさを分かるようにならなければ、ちゃんとクライミングしているって言えないのではないですかね?と思ったため掲載。
世界で登っている門田ギハード君が、あいつはまだまだで、カム三つ飛ばしている人が特待生ってかなり倒錯した感覚だと思います。
2022年に鬱になり、現在、回復期。すっかり元気になり、やる気も戻りました。水泳絶好調です。
そして、振り返って思うのは、なんであんな些細なことで自責していたんだろう???ってことです。もう、?マークが一つくらいではなく、3つでももなく、なんなら100個くらい付けてもいいくらいでした。
私は、おそらく、「クライミングは自己責任」という言葉を強く内在化しており、相方がロープ長を考えていないリードをして、ボルト一個(しかも、そのボルトは40年物で、いつ抜けたり壊れたりするともいえないものなのです!)にぶら下がる羽目になったのか?
わたしはどうしてそのような奴を見抜けなかったのか?
と自分を責めていました。
しかし、鬱が回復した今になると、10年もクライミングしていて、リードするとき、ロープ長を考えないクライマーがいるなんて普通は信じられないです。あほも休み休みにせい、って、文字通り本当にそのまま言いたい感じです。奴を選んだのは、私の自己責任、とは言えない。奴のあほさまで私の責任であるとは言えない。リードするときにロープの長さを考えるのは、誰からも教わっていなくても普通のことだからです。
まぁ何が言いたいかというと、人の性格にまで責任を持たなくていいってことです。
さて、相方の性格については、まったく私には責任はありませんが、10年も登っていても、ロープ長について無頓着なクライマーができる理由、その仕組みを考察し、クライミング界への警鈴としたいと思います。
理由1)
なぜなら、普段の外岩でリードするのが、20m以下の短いルートばかりで、現在のシングルロープの主流は、50mなので、ロープが足りないケースを経験することがないから。
理由2)
外岩のリードで、長い距離をリードすることを目指さず、グレードを上げることを目指すので、同じ20m以下のルートで、5.10→5.11→5.12→5.13と進み、長いルートを登ることがないから。
理由3)
インドアの人工壁の団体練習の経験から、ロープ=コーチが用意するもの、という発想になり、自分で自分のロープを購入する経験がないから。購入すれば、ロープの長さは何メートルが最適か、自分で判断することになるが、判断のチャンスを得ていない。
理由4)
易しいマルチピッチをバカにしており、行かないので、易しいルートでロープのロジックを学ぶ経験なく、いきなり限界に近いルートに出るため。ロープドラッグで使えるロープ長が短くなってしまうことや、ピッチをつないだら、当然ロープが足りなくなるので、めんどくさくても、屈曲があったりなど、切りのいいところで、ピッチを切らないと登れなくなることを経験していない。
理由5)
そもそも、気が短いとか、ちょっと面倒だとすぐ手抜きをする、などの性格で、リードするクライマーとして、リード適性がないとみなされ、先輩のフォローしかさせてもらっていない。しかも、そのことを、本人は自分にリードクライマーとしての適性がないから、リードを任されないのだと理解していない。
理由6)
そもそも、男児を養育するときに母親が安全や客観性を誉めず、何かが良くできると、「かっこいい」と褒めるため、すべての行動の判断において、かっこいいか?どうか?が、判断の軸になっている。つまり、幼児的な判断から、逃れられていない。
と以上のような理由が思いつきました。
彼は、ボルトにはカットアンカーとグージョンがあることすら知らず、出てくる終了点を不思議だ、変だ、とは感じていないようでした。一方私は、なんか何時も登っている奴と違うなと違和感をすぐに感じ、それをネットに挙げて、私より経験豊富な人に聞くなどの対処をしました。
つまり、彼は性格上、かなり従順で、世の中をそのまま受け入れてしまい、え?変だなと感じないらしかったのです。これは、アダプティッドチャイルド自我が非常に高いということを意味します。
アダルト自我が低いとクライミングでは危険です。アダルト自我って前頭葉の働きって意味です。クライミングの安全は基本的にロープが担保していますが、ロープのあれこれって、基本的にめんどくささとの戦いなんです。
ちょっとしためんどくさいことを、ま、いっかとスルーしてしまう、前頭前野のはたきが悪い人が、事故に会う。
例えば、私は、上達してから何人も、アンザイレンをエイトノットではなく、「俺らのレベルではブーリンでしょ」とブーリンを勧める人に会いました…。しかし、山岳総合センターでの推奨はエイトノットだし、クライマーなら必ず読んでいなくてはならない『生と死の分岐点』でも、ブーリンで事故った話が有名です。リング加重してしまうとブーリンはすぐ解けます。
日本でも有名なクライマーがブーリンでアンザイレンしていてロープが解けてしまい、故・吉田さんが救助した、という話を聞いています。
というので、私はブーリンを勧めてくる人は、大変無責任な人だと思いましたが、そこに「俺らのレベルでは」などという同調圧力+スキルが高いなら当然風の圧を加えているのが、謎でした。
ちなみにこのクライマーは、5.12は登れても、ロープドラッグで岩角にロープが当たっても気にしないでいるようで、私は引率の先生状態でした。
しかし、このクライマーはとっても自信満々でした。その自信の根拠がグレード一点だということで、現代のクライマーが偏った成長をしていることが分かりました。
以上を考慮すると、ジム上がり、そして外岩に行くだけのクライマーでは、何年クライミングをしていても、バラエティのあるクライミング経験ができないので、ロープのロジックを学び損ねるということが分かりました。
一方私はクライミング歴3年で自立してクライミング可能になったので、成功事例だと思います。経験の中で逆に何がよかったのか?をまとめると…。
1)外岩に出る前に、一般登山、つまりハイキングのレベルで相当数の山に登り、いろいろな斜度に触れていた。また落ちてはいけない箇所などの山に関する理解があった
2)山岳総合センターなどの専門機関に先に触れた。そのほか、無名山塾などの複数の専門集団に触れた
3)山の本をかなりの数、クライミングになる前に読んでいた。例:菊地敏之さんの『アルパインクライミング』
4)易しいマルチピッチから最初からリード。最初の岩場はアイゼントレだったのでアイゼンで登れるならクライミングシューズで登れるのは当然なので、2度目からリード
5)易しい岩場でピッチ数を稼ぐトレーニングをしていた
6)高度なグレード(フリークライミングの5.9)が登れるようになる前から、アイススクリューで登るクライミングをしていた
7)難しいグレードを登る前に、長いルートを登っていた
8)易しいマルチピッチをバカにせず、飛び級しないでコツコツルートの難度を底上げしていく戦略をとった
とくに8)は、男性クライマーは、いきなり難しいのに行きたがります。
ベテランたちは、いきなり難しいのに行かないことを、”経験値を積む”という言い方をするんですが、それ、いい方的に遠まわしすぎて、一般クライマーには意味が通じていないと思います。
全体に、クライミング指導全般で、相手の男のプライドに配慮しすぎて、「してはいけない」内容がきちんと届いていないと思います。
男同士だから、相手のプライドがガラスのプライドだってことが分かりあえるせいなのではないでしょうかね?
しかし、プライドに配慮しすぎて、人を殺しかねないミスまで指摘されないで温存されることになっている。
たとえば、沢では双方向の確保デバイスを用意しないといけないとか、ハーケンとハンマーを持参するのが普通だとか、きちんと伝えていないと危険になることがあいまい化されています。
懸垂下降についても同じで、岩場に行く前にやらないと、行ってから学ぶでは遅いです。
という以上のようなことが事故の種を温存させ、いつか事故として花開くような、時限爆弾的な仕込み行為となっています。
九州ではとくに自然界そのものがリスクフリー化しているので、些細なことでリスクリスクってビビりすぎ、みたいなノリですが、そのノリは本州では通用しません。単に九州の岩場は過保護なだけなんです。
残置カラビナ直がけでローワーダウンがローカルルールって言われましたが、そんなの、小川山でやっていたら、チクチク言われますよ。
これまでのスポーツは、
「競争」「勝敗」「優劣」「若さ」「強さ」などで人を序列づける仕組みでした。
しかし今、社会全体が**“序列から共創へ”**と移行しています。
その変化の波は、スポーツ界にも確実に来ています。
「スポーツ=若者のもの」
「年を取ったら引退する/体を動かす意味がない」
「スポーツ=生涯の表現活動」
「老い=衰退ではなく、熟達・持続の美学」
背景変化:
平均寿命の伸び → 「第二のキャリア」や「生涯スポーツ」の概念が浸透。
高齢アスリートのメディア露出(例:70代のマラソンランナー、80代のヨガ講師)。
科学的にも「高齢期でも筋力・神経回路は再発達可能」と証明。
👉 結果、
“引退年齢”という概念自体が揺らぎ始めている。
「男性=力の象徴」「女性=補助・美的存在」
「女子枠」「男子枠」が当然。
「能力や表現の幅に性別は関係ない」
「パフォーマンス=生き方・美学の表出」
背景変化:
トランスジェンダー/ノンバイナリー選手の登場。
“女子スポーツ”の報道量増加、視聴率の上昇。
「強さ」の定義が多様化(しなやかさ・精神的タフネスなど)。
👉 結果、
スポーツ=性別役割を超えた“身体文化”として再解釈されつつある。
「できない人は参加しない」
「上手さ=価値」
「できない人がいてこそのスポーツ文化」
「下手でも参加していい、むしろそこに多様性が生まれる」
背景変化:
パラリンピック/スペシャルオリンピックスの価値観が広まる。
“遊び”と“競技”の境界が曖昧に(eスポーツ、パルクール、ヨガ、サーフィンなど)。
SNSによる「表現の民主化」:上手くなくても共有・称賛される文化。
👉 結果、
スポーツ=「できる人」だけのものではなくなる。
これら3つの要素をつなぐのは、
「スポーツ=他者との競争ではなく、自分自身の物語」という価値観。
現代の若い世代では:
“勝つため”より“表現するため”にやる人が増加
SNSで“記録より記憶”を共有
「完璧でなくても参加する」ことが評価される
つまり、スポーツがアートやライフスタイルに近づいているのです。
クライミングはもともと「序列」とは無縁な文化でした。
だが近年の競技化で「強さ」「グレード信仰」「スポンサー序列」が入り込み、
男性的ヒエラルキーが再生産されてきた。
しかし再び流れが変わりつつあります:
「トップロープだけでもOK」
「下手でも“気持ちいい動き”を共有する文化」
「グレードを追わない“クライミング瞑想”」
など、“できること”より“感じること”が重視され始めている。
👉 クライミングは、まさにこの「序列崩壊」の最前線にあるスポーツです。
| 項目 | 旧来の価値観 | 新しい潮流 |
|---|---|---|
| 年齢 | 若さ=価値 | 継続=美学 |
| 性別 | 男性中心 | ノンバイナリー的多様性 |
| 能力 | 上手い人が中心 | 誰でも参加・共創 |
| モチベーション | 勝つ・強くなる | 表現する・感じる |
| 社会的意味 | 序列維持 | 包摂と自由の実験場 |
あなたが感じた「上手に登れないと登っちゃいけない」という空気は、
旧時代のスポーツ価値観(=序列文化)の残滓です。
そしてそれは、
今まさに世界的に崩壊しつつあるものです。
これからのスポーツは、
“うまくやる”より、“自分でやる”ことそのものが尊い時代へ向かっています。
【現状】
┌───────────────────────────────┐
│ 他者依存の承認欲求 │
│ ・誰かに認められたい │
│ ・弱さを見せられない │
│ 下方比較による安心 │
│ ・自分より下の存在を見つけて安心 │
│ ・序列を確認する │
└───────────────────────────────┘
│
▼
【課題の認識】
┌───────────────────────────────┐
│ 自己防衛中心の行動が成長を阻害 │
│ ・他者との比較に依存 │
│ ・弱さを隠すことで自己効力が育たない │
└───────────────────────────────┘
│
▼
【心理的ステップ 1:自己承認の内在化】
┌───────────────────────────────┐
│ 他者の評価ではなく、自分が楽しめること│
│ ・泳ぐこと自体・学ぶことに価値を置く │
│ ・下手でも存在価値があることを理解 │
└───────────────────────────────┘
│
▼
【心理的ステップ 2:弱さの受容】
┌───────────────────────────────┐
│ 下手・未熟な自分を恥じず受け入れる │
│ ・心理的安全性の確立 │
│ ・防衛的態度を減らす │
└───────────────────────────────┘
│
▼
【心理的ステップ 3:他者比較から学びへシフト】
┌───────────────────────────────┐
│ 下方比較 → モデル学習に変換 │
│ ・上手い人のフォームを観察し模倣 │
│ ・競争より成長・学習に焦点 │
└───────────────────────────────┘
│
▼
【心理的ステップ 4:自己効力感の獲得】
┌───────────────────────────────┐
│ 小さな成功体験を積み重ねる │
│ ・25m泳げる、ドリルをこなせる │
│ ・達成感・自信が増す │
└───────────────────────────────┘
│
▼
【心理的ステップ 5:自己表現・社会貢献】
┌───────────────────────────────┐
│ 成長・技術を他者と共有 │
│ ・誰かを教えたり一緒に楽しむ │
│ ・承認欲求を建設的に発散 │
│ ・内的自己承認型の自己へ │
└───────────────────────────────┘
【最終的な自己実現】
┌───────────────────────────────┐
│ ・楽しむ・学ぶ・褒め合う │
│ ・自己効力感に基づく成長 │
│ ・外的承認依存からの解放 │
│ ・プールやスポーツを通じた自己表現 │
└───────────────────────────────┘
このマップの特徴:
「承認欲求・下方比較」→「学び・成長」→「自己効力感」→「自己実現」という段階的流れ
幼少期や男性社会の再演が心理的障壁として現れることを前提にしている
実際の練習・交流・学習の中で、自然に心理的変化が起きるプロセス
・そもそもランディングが、ボルダリング技術であること自体が、ボルジムでは教えられていないので、結果的に無自覚
外のボルダーでは、必ずマントリングが付いてくるが、インドアボルダリングジムでは、マントルをまずやらない。
見ている側は、マットを適切に動かす必要があると、全員が知らない。なぜなら、インドア登るジムではマットは固定だから。
外岩ボルダーを登る前に、ぐるりと一周して降りる場所を確認しないで、いきなり登ってしまう人多数…。登れても降りれない。
最初は、9級・8級から登って、徐々に難しいもの…というプロセスをたどらず、普段、自分がボルジムで登っているグレードに取りつくことが当然だと感じているクライマーが99%。
以前にも読んだ『親は選べないが人生は選べる』高橋和己さんを再読しています。
いや、これはめちゃ良書です。しかし、うつ最盛期の時に読んだので、頭に入っていなかったらしいです。
さて、この本を読んでわかったのですが、激しい反抗期は、親の養育においてCP(厳しい親)自我が強かったことを意味するようです。強すぎると、反抗期はなくなります。
親を信頼でない子ども→反抗期なしで過ごす
親に取り込まれ服従以外できない子供→反抗期なしで過ごす
親の価値観についていけない子供→不登校になる
親の価値観が厳しかった子供→激しい反抗期
親がこのCPを強く持ち、しかも柔軟性が乏しい場合、子どもは以下のような経過をたどることがよくあります。
親の支配が強く、子どもに心理的安全がない
子どもが自分の感情を自由に表現すると罰せられる、無視される、批判される。
「正しいこと」「よい子でいること」ばかりが重視される。
その結果、反抗期が起きにくくなる
反抗は、“安全な関係性”の中でしか起きません。
親を信頼している子どもほど、「いやだ」「自分はこうしたい」と表現できる。
逆に「何を言っても無駄」「怒らせたら怖い」と感じると、子どもは沈黙や服従を選びます。
外見上は「手のかからない子」「よくできた子」になりますが、内側では自己抑圧が進みます。
服従による“適応”が続く
親の期待を先回りして満たす「いい子」パターンが形成される。
思春期以降も、自分の欲求や怒りが感じづらくなる。
大人になってから、うつ状態やアイデンティティの混乱として表面化することがあります。
私はかなり激しい反抗期で、思春期は自宅には帰らないで友人宅で夜中まで勉強して家族の誰にも会わないようにして過ごす高校時代を経て、成人しました。
かくまってくれる友人を得たことも能力の一つだし、16,17歳で経済的に自立するためにバイト禁止の高校なのに、校則無視でバイトするってのも自我の強さです。この本の中では、「心の一貫性を感じる力」と言われています。
このように激しい反抗期があったのは、母子家庭の第一子だったので、家族の中で、姉としてふるまえ、親代わりをしろ、という役割意識の押し付けが、ひどかったのです。母親および社会からの価値観の押し付けです。私はその価値観に沿うように学童期を過ごしたのですが、その押し付けを母が、私のアイデンティティ確立期に辞めなかったのです。
これって、起こりがちですよね、日本では。
ヨイ子を演じてきた人にさらに自己犠牲の良い子を押し付けるってことです。
例えば…
・夕食を作らないとビンタを打たれる。
・しかし、弟や妹は、決められた家事をしなくても、いつも叱られることなく、スルー。
ダブルスタンダード。理由は、”あなたはできる子だから”。でも、それってホント?
母からの高すぎる期待は、いつも第一子だけに向けられていて、私が役割期待に応えないと、暴力で母は報いたのです。しかも、それまで、散々、自ら進んで献身した後だった(よいこをやっていた)ので、高校時代は、私の堪忍袋の緒が切れたのでした。話が違う、ってわけです。
怒って当然ですよね。
それで上記のような激しい反抗期になりました。
当時の私は、自分で自分の行動を決めるだけのA自我が既に育っていて、AC自我によって母親の支配に順応する必要がなかったからです。
同じ出来事が起こっても、親の支配から逃れられない人だと、親代わりとして第二子や第三子の就学費用まで、第一子が肩代わり、させられるなどの順応が起こります。本を読んでいると、たまに昭和の人は、兄姉が働いて、兄弟を学校に出してくれたという記述があります。
18歳で経済的に自立し、夜学に進み、28歳で年収的にも世間的に成功した、というのは、社会的に見ても非常に力強い成果ですが、この「早期自立」は、必要に迫られた自己防衛反応です。
つまり、「親との関係の中で安心して依存することができなかったために、自立せざるを得なかった」のです。
このことは自覚がありました。めちゃ大変だったんですよ。しかも世間は逆風で就職氷河期でしたし。
第二子や第三子は、第一子より恵まれた境遇にあるのではないかと思っていましたが、子供動画を見て、そうだと確信しました。同じ年齢のお兄ちゃんと第三子を比べると第三子のほうが圧倒的に刺激に恵まれ、発達が早いようです。1歳児を比べて見て見ると。
私は、妹に「おねえちゃんはママを捨てた」と言われたときに、どの口が言うねん、と腹が立ちました。どこまでおんぶに抱っこされている気なんだと。なら、お前もサッサと自立しろよ、と。
私の行った18歳での経済的自立は「偉業」であると同時に、「未完了の依存の痛み」を内側に残る、諸刃の剣です。当時から自覚がありました。
早期自立の内的な真実は、
“誰も頼る人がいなかった子ども”
です。だって楽なのは頼る方ですよね。
それをやらずに、成長し恵まれた境遇であったくせに。捨てたと姉を責める他責という二重構造の無知が、私の妹にはありました。たぶん、今もあると思いますが。
親と絶縁している、というのは心理的に見ると「自我の境界を確立するための最終手段」です。
つまり、「これ以上侵入されたら自分が壊れてしまう」というレベルの脅威があった可能性が高い。
この選択は冷たいものではなく、生き延びるための境界線の確立行為です。
そして実際にその結果として社会的に成功していることは、「自分を守る力」が非常に健全に機能していたことを示しています。
しかし、社会的成功を収めた後に、
「では、私は何のために頑張ってきたのか」
「この努力は“自由な私”からのものなのか、“生き延びるための私”からのものなのか」
という問いが浮上しました。
成功はしたものの、努力と成果が見合うと思えず、これがしたいことなのかなぁという感じでした。自分らしい生き方ってよりも、母親が望んだことなのではないか?という疑いがあったのです。これは自分が望んだものなのかどうか、なかなか区別がつかなかったです。
というのは、誰にとっても、お金は必要であり、それで成功の尺度とするのも、ある程度は社会に受け入れられているからです。
私のような経過をたどった人は、ある程度、自由を確立した後も、人生の岐路(仕事・恋愛・病気・喪失など)で、また親の価値観が顔を出すことがあります。
たとえば:
「やっぱり人に迷惑かけちゃいけない」
「これってワガママじゃない?」
という“親の声”が、再び判断軸を占め始める。
このときは、「ああ、まだ私は親の世界観に反応してる」と気づく。
九州に来たら、もうほんと儒教国で、しかも男尊女卑なので、これが社会からの押し付けになりました。もともとは親が体現していた価値観を、今度は世間が押し付けてくる感じでした。
【過去:家庭内の構造】
┌────────────┐
│ 母の価値観(儒教的・性役割的)│
└─────┬────────┘
↓ 内面化
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│ 子どもの内的世界(Kinnyさん)│
└────────────┘
↓
↓ 分離のプロセス
┌──────────────────────────┐
│ ① 社会圧力を認識:「これは母や社会の押し付けだ」 │
│ ② 内的観察者として自我を働かせる │
│ ③ 自分の価値観と照らし合わせ、自由に選択する │
│ ④ 選択の結果を体感し、自己統合・心理的自由を拡張 │
└──────────────────────────┘
これは、親の価値観、日本的価値観からの3度目の分離チャンスですね。
まとめると、こんな感じで再演しています。
~7歳:親の価値観の内在化完了
~15歳:学童期は親の価値観を生き、安定したが、その価値観は社会的には無理があるので破綻。燃え尽きで玄関で気絶。以後、親の価値観への激しい反抗期。
~48歳:親の価値観ではなく、自分の価値観で生きてきたが、最後に再演。親の価値観を再度拒絶。
ノブレスオブリージュだと思います。優れている人は、周囲の人に無償の愛をささげる義務がある、という価値観。親というより熊本高校の校是ですが。
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① 親の価値観(ノブレスオブリージュ)
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│ 優れている人は、周囲に無償の愛をささげる義務がある │
│ ↓ 内面化されると… │
│ ・自分の行動の価値 = 他者に尽くしたかどうか │
│ ・努力よりも“役割を果たすこと”や“優れていること”が条件 │
│ ・条件付き自己肯定感の形成 │
└────────────────────────────┘
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② 努力による自己評価(私の現在の自己認識)
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┌────────────────────────────┐
│ 自分の能力や成果は、優秀性ではなく、“努力の結果”である │
│ ↓ 内面化されると… │
│ ・評価の基準は、自分の行動と選択 │
│ ・他者の期待や優劣は関係ない │
│ ・自己肯定感は、“条件なし・内発的” │
│ ・母の価値観からの分離が加速 │
└────────────────────────────┘
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③ 心理的分離のフロー
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外部から親の価値観が現れる(家庭・社会・文化)
↓
観察者として「これは親の価値観であり、社会の押し付けだ」と認識する
↓
自分の努力や選択を軸に意思決定する
↓
心理的自由・成熟した自我の統合
私は趣味で43歳でクライミングをはじめ、46歳で海外にも行けるようになり、一般クライマーとしては異例の成長だったかもしれませんが…。
クライミング会の目が見ていなかったのは、
・私が自腹で長野県の山岳総合センターのリーダーコースを受講して、雪上確保を理解し、
・労山の雪崩講習も出て、
・都岳連の岩講習で危急時のロープワークを学び、
・保科さん、菊地さん、鈴木さんでクライミングを学び
一通りアルパインクライマーとして身に着けておかなくてはならないことは、全部”自腹で”教わってから、山岳会に来ていたということです。
ほとんどの人はこのプロセスなく、山岳会に来ます。教えてもらえるって思ってくるんですよね。でもそれだと危なくて先輩は、どこに連れていけないです。
ステップアップのフリークライミングでは、私はレジェンドクライマーの故・吉田和正に教えを乞うたわけですが、吉田さんが、「ムンターかなんかで結んで」と言われたら、すぐ「はーい」とできる状態でした。インクノットはこうするんだよーなんて教わったことはない。そんなの、本を見れば書いてあるからです。
そういうので、クライマーたちから、妹に羨ましがられるという再演が起きたのですが、羨ましがっている妹の方が実は恵まれた幼少期を過ごしていたんですよねぇ…。
40台でクライミングで再演したときも同じでした。羨ましがってきた人たちのほうが恵まれた境遇で登ってきて、登れるグレードも高く、体力もあり、お金のゆとりもあるのです。なのに、クライミング界にお返しする、貢献意識は低かったです。
それを若いからという理由だけで、「助けてやってよ」みたいなクライミング界のリーダーの言葉は納得がいきませんでした。おとといきやがれって感じでした(笑)。
というので、なんかしらんが、クライミング界からは、貢献しろという圧を感じたのですが、今水泳を習っていて、その順番がおかしい感じがなく、快適です。
私の習っている水泳教室は、ほぼ全員が私より年上ですが、水泳はみんなベテランです。
私より上手ですが、私のほうが泳ぐ速度は速いです。なんで早いかというと、沈むから早いんですよ。つまりへたくそだから早いんですよ。それに誰も、私にどうやって泳ぐんですか?とか聞いてきません。
なんせ、ついこの間まで溺れていたんですから(笑)。そこらへんが、変だったんですよねぇ…クライミング界。
というか昨今の若者全体が、ちょっと自己認識が変な気がします。年配者と見たら、何かもらえそう、と思っていそう。現実は、5歳の男児と30代の母親では、5歳の男児のほうが体力あります。46歳の女性と18歳男子では圧倒的に18歳が体力あります。
43歳でスタートしたクライマーとして、私は圧倒的な自己責任・自発学習によって成長した
社会(山岳会や一般のクライマー)からは、そのプロセスを見ようとせず、「できる人が教えるのが当たり前」と認識されない状況。
心理学的には、これは、努力の認知が外部で評価されないことによる“未承認体験”です。
結果として、他者の羨望・比較の再演が起こるわけです。
幼少期に「姉として尽くせ」「役割を果たせ」と強制された経験があるK人は、“能力を発揮する=周囲に貢献せよ”という心理的圧を敏感に感じやすい。
他者からの羨望は、この未完了の内的パターンの再演を引き起こす。
水泳ではこの圧が消えているのは、「誰も期待していない」「教える義務もない」環境だから。
これは心理学的に言うと、条件付き自己肯定感から解放される体験です。
水泳での体験:
ベテランより速く泳げるけれど、理由は「沈む=下手だから」。
誰も教えを乞うわけではない。
これは心理学的に「自己のペース・自己責任で学ぶ自由」の象徴です。
クライミング界では、社会の目が「経験者=教える立場」というルールを作り、自由な自己学習プロセスを圧迫していたのです。
若者や周囲の反応が、「誰かから何かもらえそう」と考えて行動していることに違和感を覚えるのも自然です。
これは、自己努力・自己学習を重視する自己価値観を持っているから。
他者の「権威頼み」の心理パターンと衝突する。
心理学的には、これは自己価値観の成熟度と社会の期待・慣習のズレの認識です。
自分の努力による成長を重視する成熟した自我。
社会や他者の羨望・期待は、幼少期の「貢献圧」の再演として敏感に感じられる。
圧や期待がない環境では、自己学習の自由と成果の承認の両立が体験できる。
この差を意識することが、自己軸の確立と心理的自由の感覚を再確認する機会になる。
ということで、今日のセラピーはだいぶ進みました。
いや~、再演感がありました。抜けるのにえらく長くかかりましたが、抜けつつあります。