2025/02/02

【新しいビジョン】身体知の言語化によって人間の動物としての可能性を広げる 

今までも初心者時代から長いこと、教わったことを言語化しようとしてきましたが、九州に来たら、トンデモクライミングばかりを知ることになりました。

それは何のためか? シャドーを知るためです。(ナルシスト・アビュースを受けた)

私のビジョンは、元来、次のようなものです。


ビジョン:身体の熟達と技の言語化を未来に繋ぐ


1. ビジョンの核心

「アスリートや身体の熟達者が持つ貴重な身体知(技術や感覚)を、深い対話を通じて言語化し、それを次世代に伝えるための知識体系を構築する。」

  • ゴール: 技の伝承を「感覚的で曖昧なもの」から「他者に伝達可能な知識」に変換することで、次世代の熟達者がより短期間で高いレベルに到達できるようにする。
  • 哲学: 技は単なる動きではなく、その人の意識、身体経験、文化的背景、価値観と密接に結びついたもの。これらを尊重しながら言語化することが、知識の伝承と進化を促進する。

2. ビジョンの実現イメージ

  1. メディアとの連携

    • アスリートや身体の熟達者とのインタビューを行い、技の背景にある意識や感覚を掘り下げる。
    • 記事、動画、ポッドキャストなど、複数の形式で公開し、多くの人にリーチする。
  2. 「技の言語化」のプラットフォーム構築

    • 熟達者たちのインタビューをデータベース化し、後世の研究者やアスリートがアクセスできるオンラインプラットフォームを作成。
    • 分野横断的に(武術、舞踊、スポーツ、治療法など)技を集め、共通点や独自性を比較研究。
  3. 次世代のための教材・ツール開発

    • 熟達者たちの言語化された知識をもとに、動画教材やワークショップ形式でのトレーニングツールを開発。
    • 若手アスリートや指導者に「技と言語化の接点」を学ぶ機会を提供する。

3. 実現のためのステップ

  1. 協力メディアを探す

    • 候補の方向性:
      • スポーツや身体運動に特化した雑誌(例: 『ターザン』や『Sports Illustrated』のような媒体)。
      • アスリートの精神や哲学に焦点を当てるメディア(例: 『The Players’ Tribune』のようなもの)。
      • 武道や伝統技術を扱う専門メディア。
    • メディアに提案する際、「次世代に価値ある知識を残す」という文化的意義を強調。
  2. サンプル作成 具体的なインタビューや記事を作り、メディアに提案する際のデモとして活用。

  3. クラウドファンディングやスポンサー募集

    • プロジェクトの意義をアピールし、資金やリソースを集める。

4. 想像される未来

  • アスリートだけでなく、武道家やダンサー、リハビリの専門家までが「技の言語化」の文化を共有し、身体の技術が人類全体の財産として蓄積される。
  • 次世代の指導者や選手が、前人未到の高みに到達するための基盤を手に入れる。
  • 技と身体の知識を通じて、人間の可能性を広げる新たな文化が形成される。


My new Vision

 

Vision: Creating a Future by Translating Mastery into Words

1. Core of the Vision

"To document and preserve the invaluable embodied knowledge of athletes and masters of physical disciplines through deep conversations, transforming their skills into a transferable and accessible body of knowledge for future generations."

  • Goal: Shift the understanding of mastery from a purely experiential or instinctive practice to one that can be effectively communicated and taught.
  • Philosophy: Skills are not just movements but are deeply tied to personal awareness, lived experiences, cultural backgrounds, and values. Respecting these aspects during the process of translation into language will enable knowledge to evolve and resonate across generations.

2. Realizing the Vision

  1. Collaborating with Media

    • Conduct interviews with athletes and masters, exploring the deep connections between their skills, awareness, and sensations.
    • Publish these in articles, podcasts, and video formats to reach a broad audience.
  2. Building a "Skill Translation" Platform

    • Create an online repository of interviews with masters, allowing future researchers and practitioners to access their insights.
    • Collect knowledge across disciplines (martial arts, dance, sports, physical therapy, etc.) to compare, analyze, and discover commonalities and unique approaches.
  3. Developing Educational Tools for Future Generations

    • Based on the knowledge documented, develop video tutorials, workshops, and training materials that bridge the gap between experience and understanding.
    • Provide opportunities for younger athletes and instructors to learn the intersection of skill and language.

3. Steps Toward Realization

  1. Finding Media Partners

    • Potential Targets:
      • Sports magazines or online platforms focusing on athlete stories (e.g., Sports Illustrated, The Players’ Tribune).
      • Media specializing in traditional arts or physical performance.
    • When pitching to media, emphasize the cultural and educational significance of creating a "knowledge legacy" for the future.
  2. Building Partnerships

    • Collaborate with experts in related fields, such as sports psychologists, physical philosophers, and coaches.
    • Approach sports associations or athlete federations for support and collaboration.
  3. Creating a Demo

    • Conduct initial interviews or write articles to use as proof of concept for media proposals.
  4. Crowdfunding or Sponsorships

    • Highlight the project's importance to gather resources and funding.

4. Imagined Future

  • Not only athletes but also martial artists, dancers, and physical therapists embrace a culture of "skill translation," creating a body of knowledge for humanity.
  • Future generations of coaches and practitioners achieve unprecedented levels of mastery through this knowledge foundation.
  • A new cultural movement emerges, expanding human potential by linking skill, body, and knowledge in meaningful ways.

Let me know if you’d like further refinements!

雪がない場所の人のための雪上歩行

 雪がない地域の人のための雪上歩行

雪上歩行は、いろいろコツがあり、てってりばやいのは雪の山に直接言って練習することだが、そうもいかない。一度、習得した歩行は、別に雪がない無雪期の山でも普通に使える。

1)歩幅は自分の腸腰筋で引き上げられる程度なので、人それぞれである。その程度に合わせた階段を見つける。

2)見つけたら、下腹部を引き上げる感覚だけで足を上げる。膝は曲がるがそれは上げた結果に過ぎない。

3)着地(ランディング)は足裏全体。これはアイゼンを履いていて、すべての爪を地面に食い込ませるため。

4)足には2kgくらいのウェイトを付けたほうがいい。振り子で足を振ったほうが楽な理由が分かる

5)ランディングしたら、完全に1点に重心を移す。したがって、反対の足はアウトサイドのフラッギング的な感じになるはずだ。完全に1点にならないと、ピッケルと足の2点支持がわかるようにならない。

6)可能であれば、ピッケルを持つ。恥ずかしければ棒でも良い。どの傾斜で、どの長さのピッケルが最適か?が理解できる。

傾斜のきつい山では、短いピッケルが必要だが、傾斜の緩い山では、当然長いピッケルが必要になる。実際の山では、どちらにも合わせることはできないので、妥協が必要になる。

妥協する際に参考にする境界線は、北岳の雪渓や白馬の雪渓。これくらいでピッケルを出すようでは、山や失格であり、一般登山者の山に差し戻しである。あの程度の傾斜は、ストックで歩ける必要がある。

7)正対だけでなくクロスウォークも練習が必要。同じ階段でクロスウォークを左右で行う。

8)最適傾斜が分かったら、傾斜の角度を様々に変えて、同じウォークを練習し、それぞれのやりにくさを一つ一つつぶす。

9)どの傾斜から、1点支持が不可能になり、ピッケル(もしくはストックや手)の2点支持を自分が必要とするのかを調査する。 それがあなたのロープを出す必要がある、傾斜です。

これは人に拠っては4級、5級は90度以上ですので、4級は30度~80度まで全部を含むので、幅が広い。年を取っていても、体重が軽い人は傾斜に対しては強い。若くても、がっちり体系の人は当然だが傾斜には弱い。下半身が重い人も弱い。腹が出ていたらなおさら弱い。

4級は落ちたら死ぬか所を含むことが多いので、念のため、ロープを出す、と記述される登山道であることが多い。ので、リスクを感じたら即ロープで確保である。

一方、5級を登る一般的なデシマルグレードを登るクライマーにとっては4級でロープを出すのはバカバカしく感じるが、たとえそうであっても、足元が崩れるリスクは本人のクライミング力では解決できない。したがって、もろい場合は、2級でも、3級でも当然ロープが必要だ。クレバスウォークを見ればわかるでしょう。北横の大岩が堆積した場所は2級だが、岩と岩の隙間が、雪に覆われていて、どこが穴か分からない。落とし穴にロープなしで出かけて落ちれば、自己脱出はほぼ不可能である。九州ではこのリスクを経験しないので、2級でロープを出す意味が理解できない。

これが理解できないまま、甲斐駒など行ってはいけない。ソロ登攀でもロープはもっていくものだ。足元がもろいなと思ったときに、お助け紐的用途で普通に使えるからだ。

※ このやり方で、砂を雪の代わりにする、という合理的根拠はないと思う。砂=落ちても大した痛みがない、ので雪に対する敬意が失われ、むしろ、害があるような気がする。

以前、野北くらいアイゼンでガンガン歩いていますというコメントをもらったが、それが間違っていると思う。一か八かに慣れすぎていて、野北では落ちても落ちた先が海なので、死亡にならない。とはいっても死者の多い岩場だが、この姿勢が災いしていると思われる。

雪上歩行は、沢の高まきで出てくる誰にも踏まれていない崩れやすい急傾斜をこなすときの足さばきと同じだ。だから、野北の岩場をアイゼンで歩くくらいなら、沢登りを習得したほうがいい。

岩場をアイゼンで登る、と言う技術が必要な傾斜へ行く以前に、2級、3級、4級の傾斜のこなし方を習得しないから、北鎌尾根で死者を出すわけである。北鎌尾根で落ちるようなら、歩行訓練不足である。八ヶ岳の赤岳は、普通に一日で3周くらいしてください。それでも一般登山者にはロープを出す山である。高校生男子には楽勝の山と位置づけされているがそれも人に拠る。今時の受験付けパソコン付の人にはロープがいる。

九州の人は粋がるほうを技術の習得より優先しているので、それがほとんどの遭難や死亡事故の原因である。

九州の人を言ったが、大体の一般登山者も同じである。したがって、山登り、特にアルパインクライミングというのは、男性のエゴイズムを自覚する成長機会であり、自己イメージが現実と乖離し、自分の真の姿を客観的に捉えられなかったことが、失敗の本質である。


2025/02/01

【クライミングへのビジョン】逆境的小児期サバイバーの大人を救うクライミングによる肯定的体験の再構築

ガリ(シナリオ)


タイトル: 「岩場でつながる心」


設定

舞台は地元の自然に囲まれたアウトドアクライミングスポット。週末、地元の子ども向けのクライミングイベントが開かれ、そこに一人の大人が参加します。主人公は「ナオさん(仮名)」、幼少期に「自由に挑戦する経験」を奪われた過去を持つ大人のサバイバーです。「自分を取り戻すため」という思いで、子どもたちと一緒に岩を登ることを決意します。


登場人物

  1. ナオさん: 主人公。アウトドアクライミング初心者の大人。自然の中で「自由に挑戦してもいい」と感じる時間を求めている。
  2. ハルト君(10歳): 元気いっぱいで好奇心旺盛なクライミング好きの男の子。ナオさんにすぐ興味を持つ。
  3. リナちゃん(9歳): 少し怖がりで登るのに慎重だが、自然を感じることが好きな女の子。ナオさんを仲間として受け入れる。
  4. コーチ(40代男性): ベテランのクライミングインストラクター。安全を重視しながら、子どもたちとナオさんに挑戦の楽しさを教える。
  5. 他の子どもたち: イベントに参加する子どもたち。初心者から経験者まで様々。

ストーリー展開

シーン1: 森の中の集合

  • 朝、青空の下でイベントがスタート。参加者はワクワクした様子で集合する。
  • コーチが「今日はみんなで楽しくクライミングしよう!そして、ナオさんは大人だけど、今日はみんなと同じ初心者だよ」と紹介。
  • 子どもたちは「大人なのに初心者?」と不思議そうな顔をするが、すぐに「一緒に頑張ろう!」と明るく声をかける。

シーン2: 初めての岩壁

  • 子どもたちが挑戦しやすい低めのルートで練習開始。
  • ナオさんは慎重に取りつくが、途中で怖くなり「無理かも…」と手を止める。
  • 下からハルト君が「そのホールドを持つといいよ!」と具体的なアドバイス。リナちゃんも「落ちてもロープがあるから大丈夫!」と励ます。
  • ナオさんは恐怖心を克服し、一歩ずつ岩を登り切る。到達したとき、みんなが拍手。「やったね!」という言葉に、ナオさんは胸が熱くなる。

シーン3: リナちゃんとのペアワーク

  • コーチの提案で、子どもたちとペアを組み、安全確認やビレイの練習をすることに。
  • ナオさんはリナちゃんとペアになり、ロープを持つ側に挑戦。リナちゃんが「大丈夫かな…」と不安そうに登り始めるが、ナオさんは「私がしっかり支えるよ!」と優しく声をかける。
  • リナちゃんが登り切ると、「ナオさんのおかげでできた!」と満面の笑みを見せる。ナオさんも「私も君がいたから頑張れたよ」と答え、二人の間に信頼感が生まれる。

シーン4: チーム全員での挑戦

  • 最後に、少し難易度の高いコースにみんなで挑戦。ナオさんは「自分には無理かも」と躊躇するが、ハルト君が「一緒に頑張ろう!」と手を差し伸べる。
  • 子どもたちが声を掛け合い、ナオさんもその輪の中に溶け込む。挑戦の末、全員がコースを完了。山の上でみんなが達成感に浸る。

シーン5: 温かい解散

  • イベント終了後、ナオさんは子どもたちに「ありがとう。みんなのおかげで楽しかった」とお礼を言う。
  • ハルト君が「また一緒に登ろうね!」と言い、リナちゃんも「ナオさんが一緒だと安心する」と微笑む。
  • ナオさんは「ここでの体験が、自分にとってかけがえのないものになる」と実感し、自然の中で新しい自分に出会ったことを心に刻む。

テーマと心理的意味

  1. 「挑戦する自由」の回復

    • アウトドアクライミングは「恐怖に向き合い、克服する」体験の連続であり、幼少期に挑戦を奪われたナオさんにとって、新しい自己効力感を育む場となる。
  2. 「安全なつながり」の形成

    • 子どもたちやコーチの支えの中で、「他者に頼ること」「頼られること」のバランスを自然に学ぶ。特にペア練習では、共に成功体験を共有し、安心感を得る。
  3. 「自然の癒し」

    • 緑や風、岩の感触が五感を刺激し、ナオさんにとってリラクゼーションと成長の場となる。幼少期に失われた「遊びの時間」がここで再現される。

この物語は、逆境的小児期体験のサバイバーが自然の中で再び挑戦と絆を見つけ、保護的小児期体験を得るプロセスを描いています。 


参考:https://youtu.be/DEbdBn03Ie0?si=0-zbx0yDlgF64fjU

https://youtu.be/bjO5VOkXxt0?si=rmZ6k4c9Oyd9zzpw

2025/01/30

新しい気づきがあったので時々更新します

 今日は、心理学的に新しい気づきがあったので、時々更新することに決めました…

■ そこまで優秀でない人についての理解

今日は、スケートで突然上手になって3日目ですが…いくつか男性に関しての気づきがありました。

1)習わない人は万年初心者 

今日見たパパさんは、基本のキが分かっていない人でした。でも、滑れはします。

スケートって教わらないで滑ると内またで、全く正解と正反対なんです。正反対のまま、スピードを上げて行こうと頑張っているようでした。

強情で、他の人から学ぼうという気がないみたいでした。

2)全く滑れていないのに、自分は上手だと勘違いする人もいる

たぶん、彼は、今日滑っていた人たちの中で最も下手くそだと思いますが、全くその自覚がなく、監視員の人に質問して、滑り方のコツを教えてもらう意識はないみたいでした。

そして、私と目が合ったとき嬉しそうだったので、打ち解けた気分に私としてはなったのですが、彼は全くその後、監視員の人からアドバイスを受ける気がないようだったので、単純に私の注意を得たことが、うれしいだけだったみたいでした。

つまり、

 偽の共感、偽の打ち解け

でした。これ、相手が喜ぶと、こちらもうれしくなる、というHSPが、ナルシストにすら、共感を与えてしまう理由になっているかも。

3)ナルシストでなくても、自己客観視は弱い

今日は、身に着けたストロークという技で滑っていただけですが…基本は内またではなく外またです。 

一緒に滑ってくれた赤ジャケットのお兄さんは、私にいろいろ教えてくれましたが、あとでそのお兄さんの滑りを見ると、もしかしたら、私より下手だったかもしれません…

ただそのお兄さんからはナルシシズムは感じませんでした。

私もそこまで上手なわけがないのですが…彼の滑りを見ると、私が彼の滑りをしていたら、私は自分が滑れている、という実感にならないかもしれません。したがって人にアドバイスをしようとも思わなかったかもしれません。

これは、矢筈岳で若い男性クライマーが、クラックの10cに2時間半くらいかかっていたときとのデジャブー感がありました。

自己が思っている自分の優劣が、正確なモノより、”優”に傾いていそうでした。

偏差値30なのに、偏差値50と思っているみたいな感じです。

なので、誤解を生む可能性がありますね。下手くそなほうが上手な方にアドバイスしているみたいな感じです。

これが、クライミングでも起こったかもしれません。

3)90点でも不満 95点が普通

もしかすると、私は、自分が出来ている、という実感を得るのに、一般的な人よりも高いレベル(95点)を自分に要求しているかもしれません。

自分にとって普通だ、と感じるレベルが、高いということです。95点で普通に感じる。

というのは、実際、80点なんて取ったことないからです。90点でも低いなと感じる。

他の人は、私の半分くらいのスキルや能力でも、「俺、出来ている」と感じるのかもしれません。70点でも出来ている。

私の脳内親が厳しすぎるのだろうか?理想が高いのだろうか?あるいは、期待が高いのだろうか?

あるいは、一流を見過ぎて、脳内コピーのイメージが超一流相手に作られているためだろうか?

■ まとめ

クライミングを振り返って、

一般的な男性クライマーは、自分基準で登れている、と感じるレベル感が、現実と全くマッチしていない、

ということを実感しました。

ほとんど全員が、自分は登れている、と思っているときに、現実的には、きちんと登れてはいません。

自己肯定感が高すぎる、という風に私は表現していましたが、

 自分の実力を客観視する力が、全般的に弱いのではないか?

と思います。

一方、逆に、私は、傍から見たら、スイスイ登っているように見えていたように思います。

でも、登れている、登りが得意だ、という判定を自分に下したことはあまりないです。

まだ3日前からの出来事ですが、スケートではスイスイ滑っているような気がします。



2025/01/29

The Phycho Games Climbers Play

事例: 「グレード至上主義を擁護する」

登場人物

  • Aさん(グレード更新至上主義者): グレードを追いかけることだけがクライミングの本質と考えており、安全性の議論を利用して自分の意見を正当化しようとする。お買い得品を探すことに血道をあげている。
  • Bさん(ターゲット): 中級クライマーで、安全性に配慮された課題にも価値を見出している。グレードよりも、バランスや美しいラインに魅力を感じるタイプ。

場面

Bさんが比較的安全性が高いラオスの岩場の課題について話をしているが、Aさんがそれを否定し、「グレードの追求」こそが重要だと主張する。


Bさん:
「ラオスの課題、初心者グレードが多くて、ラインがすごく美しくて登りがいがあるね。ボルト間隔が適切で、安全性も高いし、挑戦しやすいよ。」

Aさん:
「うーん、俺は、正直、あんまり価値を感じないな。ただのエンジョイクライミングじゃん?クライミングは、やっぱり高難度に挑戦してこそ意味があると思うよ。」

Bさん:
「でも、安全性が確保されるからこそ、課題も楽しめるって時期が誰にでもあると思うんだけど…。誰でも最初は初心者だし。初心者でもチャレンジしやすいよ、ラオスは。」

Aさん:
「いや、安全性が高い課題っていうのは、結局、クライマーとしての能力を鍛えるには物足りないんだよ。例えばさ、グレードが高い課題っていうのは、そもそも安全性を考慮したら設定できない場合が多いんだから。」

Bさん:
「でも、安全性がある課題でも、技術やメンタルを磨ける部分はあると思うけど。」

Aさん:
「それは甘い考えだよ。本当にクライマーとして成長したいなら、安全性に甘えず、リスクを背負ってでも、高いグレードに挑むべきだ。それがクライミングの本質じゃないかな。」

Bさん:
「そっか…。でも、みんなが楽しめる課題も大事だと思うんだけど。」

Aさん:
「いやいや、そんなこと言ってたら一流にはなれないよ。最終的に重要なのはグレード。だから安全性を重視する課題なんて、本当の挑戦とは言えないんじゃない?」


心理ゲームの分析

  • 表向きの目的Aさんは「クライミングの本質」を伝えようとしているように見える。
  • 本当の目的: Aさんは「グレード至上主義」の意見を正当化し、議論で優位に立つことを目的としている。このため、安全性や価値観の多様性を軽視し、自分の考えを絶対視する態度をとる。
  • 結果: Bさんは、自分が楽しんでいた安全性の高い課題に疑問を感じ、自身の価値観を否定されたように思う。一方、Aさんは「議論で勝った」という満足感を得る。

正当な議論との差異

正当な議論では、安全性が高い課題や低グレード課題の魅力を尊重しつつ、それぞれのクライミングスタイルの意義を認めることが求められます。

しかし、この事例ではAさんが議論に勝つことを重視し、他者の意見や選択を一方的に否定することで、自身の優越感を満たしています。

「勝つためには何でもする」という心理ゲームが展開されることで、本来は多様性が重要であるはずのクライミング文化の中で、特定の価値観(グレード至上主義)が押し付けられる結果となります。

2025/01/28

現代クライマーの特徴…無自覚にインチャに動かされている

 これですね。

悪習慣とは

1)マルチピッチで、計画書を立てる習慣がない。ロープスケールの計算がそもそもできない。

2)ショートで、グレード以外の習得課題を自覚する習慣がない。例:長ぬん

3)危険予知の習慣がない。そのため、ヒヤリハットがそのまま、重大事故になる。

短期的快楽重視とは?

1)かっこいい俺をアピールすることが目的でクライミングをしている

2)周りに合わせているだけである。しゃべっている内容も(例:スラブのボルトルートで、流して止めてあげるよー。今、いつの時代と思っているんです?)

3)競争至上主義、グレード至上主義

他者のフィードバックを受け入れにくい、とは?

1)間違っているビレイを指摘されても受け入れない

2)行くところと実力がマッチしていないと指摘しても聞き入れない

3)ロクスノに時代錯誤の記録をあげる

4)みんなが栗城劇場化


2025/01/26

男性クライミングの社会って…ヤレヤレ感

■しょぼい競争社会… 

男性の社会って、生き馬の目を抜く社会、大変なんだよ~、みたいな言い方されますけど…

実際のところは、命を懸けなくてもいいところで、頭が悪すぎて結果的に命を懸けることになっていて、頭が悪いことに気が付けていないので、本人の感覚としては、実感としては、たしかに俺らのやっていることは命がけなんよ… ってことになっているけれど、普通に賢い人から見たら、それ自業自得でしょ、ということを今回、男性社会の在り方をクライミング界で学ぶことで学習しました。

例えば、山梨○パインクラブで行った大昔の南沢大滝では、リードで取りついているクライマーがいるのに、その人が落とす氷のフォールラインに立って、しかも滝に背中を向けて、自称・クライミングガイドの先輩が、アックスによるセルフアレストの説明を始めました。

そりゃ、そんなところに立っていれば、落ちてくることになっているアイスに当たりますよね。

そりゃそうだ。

それで落ちてきた氷に当たってヘルメットが割れたほか、その破片が、私の肩に当たり、黒血になったんだが…その男性は、自分がそこに立ったことを反省するどころか、

「ほらね、俺たちはこんなに危ないことをしているんだよ、自覚しなくては」

とか言い始めたのです。

は? 別にフォールラインに立ちさえしなければ、危なくないです。

しかも、彼、リードで落ちていましたけど。私はトイレに出ていたので、見ていないですが、戻ってきたら超不機嫌な態度だったので、どうしたの~、何かあったの?と仲間に聞いたら、リードで取りついて落ちたのだそうでした。

だからって、周囲に不機嫌をまき散らすのが…。

つまり、自分で自分の機嫌を取れないメンタルの成熟度ってことです。

結局のところ、白亜スラブも同じで、35mと25mのピッチは、つないで、50mシングルでは登れません。60mシングルでも登れません。現実の認知もおかしい上、反省の仕方もおかしい。つまり、リードの仕方をそもそも学ぶことなく10年選手になれてしまった上、反省も今までしてこなかったから、10年登って、5.12でーす、と言ってもこのありさま。まるで昨日初めてリードした人であるかのようなミスです。

これらは、山梨県でクライマーデビューした人ですが…。

一方で、指導者のほうも、トンデモ。

祝子川に2名で行っておいで~(なぜなら、ボルトが打ってあって、スポートルートみたいな沢だから安全)ってのも変だし、オリンピックでビレイは習ってきたから外岩のビレイもわざわざ奥村さんから教わる必要はないです、ってのも変です。そもそも、指導者の自分が、奥村さんに教わるのは、ビレイの仕方を教わるのではなく、ビレイの”教え方”を教わるために出るわけですから。

ではと老舗山岳会の門をたたけば、なぜか、10cが登れると自己申告したら、初対面なのに全装でリードさせられるし…。私のほうは、正しいビレイをしているのに、治せと言われ、治すところがないでしょ、このビレイのどこが間違っているんですか?と聞き返したら、相手は返事できなかったうえ、自分は、私がリード中にもう一名登らせて、2名のリードクライマーを同時に一人で確保するというトンデモビレイを披露して、それがトンデモと気が付くことさえできずに、写真に証拠を収めて、うれし気に後日それを送ってくる、というお粗末さ。


この、日本のクライミング界の、どこが素敵だというのでしょう?

は?って感じだったわー。ヤレヤレ感、半端ないです。


■ クライマーの成功とは?

 クライミングパートナーの敬意を得ること


ですね。

なぜなら、一番近くで見て、真実を知っている人から、敬意を得られなかったら、そりゃ、ダメクライマーだった…って意味ですからね。


新人が登れるようになったら、辞めていく山岳会=尊敬できなかったクライミングパートナー

です。人は、相手を知って、敬意を保つことができれば、離れないです。


■ 馬には沿うてみよ… 沿うてみたけど、ダメですね!

私がひっかけ問題に引っ掛かかったのは、

 まさか、そこまでアホとは思わなかった…

ためです。また、馬には沿うてみよ…だからです。普段から、予断や偏見で判断することがないようにしています。

ところが、小学生レベルの算数くらいできるという前提だった私がバカだった…というバカを見る羽目になりました。

要するに、一般社会でも同じで、これが日本が国として国際競争力を失っている理由ですね。

これほど、おバカでレベルが低いので、

女の私が登れるようなところすらも、登れないのです。

女の私が組めるようなプログラムも組めないのです…。

それは、男性たちが、みながみな、

お母さんに甘やかされて育った、おぼっちゃま君だから…。

登った後、俺はかっこいい~!と、真実はカッコよく全然ないのに、うっとりしてしまう。

実際は、単純に頭が悪いから、何も考えていないから、自分を自分で危険にさらしてしまう… それに対して自作自演で、一人でしびれて、かっこいいと感じ行っているわけです。

うわ~、上から氷が振ってきたー。俺って、やっぱり危険なことしてるんだーっ!かっこいーっ!って。

傍から見たら、えー そこフォールラインですよー なだけです。

その上に、メタ認知力が低すぎて、俺はバカだという、反省すらも、きちんとできる力がついていない…。

俺ってイケてる奴~って、ナルナル君な感想しか出てきてない・・・。

自己肯定感、高すぎ。

これが結論ですね。つける薬? あるんですかね? つけたらメンタル崩壊して、人間が崩壊するかもです。だから、薬があったとしても、誰もオファーできません。

これが、クライミング界と日本国のクライマーに対する私の結論です。

尊敬できない。


ガスライターは、火をつけておいて、燃やしていると言ってあなたを非難する。

まさしくこれですね!

2025/01/09

【ChatGPT】軒先貸して母屋取られる がアクセス問題の本質だった…

■ 最大の問題はクライマー自身の在り方

クライミングによる地域おこしの最大の障害はクライマーであるとはっきり自覚しました。

「軒先貸して母屋取られる」

レジェンドクライマーの故・吉田和正さんが、よく言っていた言葉でした。

  クライマーのありよう 

を非常によく言い表していると思います。

それを辞めないといけないんですよ…

クライマーは。

■ アクセス問題の本質 は、 軒先貸して母屋取られる (善意があだになる)です

「軒先貸して母屋取られる」の意味を異なる言葉で表現すると、以下のような表現が考えられます。

  1. ちょっとした親切が裏目に出る
  2. 助けたことで全部奪われる
  3. 小さな譲歩が大きな損失に繋がる
  4. 手を貸したらすべて奪われる
  5. ほんの気持ちが大きな代償を生む
  6. 与えたものがすべて持ち去られる
  7. 親切が裏切りに変わる
  8. 少しの協力が全てを奪われる結果になる
  9. 与えたものに対してすべてを取られる
  10. 手伝いが裏切りに変わる瞬間

どれも、善意が思わぬ結果を招く状況を表現しています。

 「登っていいですか?」「いいよ」 → 親切にする

 うんこ置き去り & 迷惑駐車   → 迷惑 を落される

親切にしたら奪われる、って悲しいことです。

なぜクライマーが、相手に”悪いことしたな”って、共感できないのか?分からない…(汗)

■ 「山の声」 ChatGPT作

ある日、若いロッククライマーが山のふもとの小さな集落にたどり着いた。

彼は山に挑戦することを夢見て、ここがその始まりだと思っていた。集落の人々は、静かな生活を送っており、山を恐れながらも、山は生活の場だった。

クライマーは、村の広場に座っていたおじいさんに声をかけた。「すみません、この山の岩に登ってもいいですか?」おじいさんは、少しの間、彼をじっと見つめた。

山に対する敬意を感じたのだろうか、おじいさんは穏やかな声で答えた。「もちろん、登っていいよ。ただし、岩を大切にしてくれ。」

その言葉に心を動かされたクライマーは、快く承諾し、山に足を踏み入れた。

しかし、彼が山を登り始めると、次第に他の登山者が増え、地域に大きな変化が訪れることになった。

最初はほんの数人のクライマーだったが、次第にその数は増え、山の周辺の道路に駐車する車が溢れ始めた。集落の狭い道に駐車された車は、住民の生活に支障をきたし、交通が混乱し始めた。無断で停められた車のせいで、村人たちは日常の仕事に困難を感じるようになった。

そして、ある日、山の頂上近くで見つかったのは、クライマーが放置したひどい痕跡だった。登山者たちは山に登る際、トイレがないことを理由に自然の中で用を足していたが、その後、排泄物と共に無造作に放置されたトイレットペーパーが散乱していた。さらに、いくつかの場所で、使い捨ての紙が燃やされ、煙が立ち上っていた。

その結果、山の一部が小さな火事に見舞われた。火はすぐに制御されなかったため、山の一角で炎が広がり、村人たちの元に連絡が来た。おじいさんは心を痛めながらも、山を守ろうと必死に消火活動に参加したが、その日の夜、火事は再び再燃し、山に住む動植物たちにも被害が出てしまった。

そして、最も衝撃的な出来事が訪れた。それは、登山者の中で一人が不注意によって崖から転落し、命を落としてしまうという悲劇だった。事故を防ぐための措置が十分に取られていなかったため、無理なクライミングや危険な場所での行動が命を奪うことになった。

村人たちは次第に、山の美しさが壊れていくのを見守りながら、心の中で疑念を抱くようになった。おじいさんは言った。「あの時、登ってもいいよと言ってしまったことが、こんなにも多くの人々に迷惑をかけてしまったとは…。」

山は、どこかで「ありがとう」と言ったかもしれない。だが、同時にその静かな声は悲しみを帯びていた。「あなたたちが来ることを許したはずだった。でも、それがどうしてこんなにも傷つけることになるのだろう?」

村人たちは、山を守るために、改めて「自然との共生」を考え直すことを決意した。登山者が来ても良いが、その心には、山に対する敬意と責任を持たなければならない。山は人々に開かれているべきだが、自然と調和しながら共に生きる方法を学ばなければならないことを、痛切に感じたのであった。

それから、村は登山者に対して、山に登る際のルールを強化し、地元の人々と協力して山の環境を守るための活動を始めた。

山が再び静けさを取り戻すために、そして悲劇が繰り返されないように、村は努力を続けることを誓った。

■ 詩:

軒先を貸して母屋を取られた、あの日  byChatGPT


雨をしのぐ場所が欲しいと  

あなたは穏やかな声で頼んだ  

その言葉は柔らかく、温かく  

初夏の風のようだった  


「ここでいいのなら」と差し出した  

小さな軒先  

古びた柱とひさしの影  

それだけのはずだったのに  


あなたは少しずつ中へと入り込む  

足を踏み入れ、声を響かせ  

まるでそこが最初から  

自分の家だったかのように  

自分のものにしてしまう

そこをどけと、

20年飼った私の愛犬を追い払う


私は気づいていたけれど  

ときおり見せる弱さに同情して、強く拒むことができなかった  

「一晩だけ」「少しの間だけ」  

そんな言葉に紛れて広がる影  


気づけば母屋はあなたのもの  

私の居場所はいつしか消え  

愛犬とともに

冷たい風が背中を押して  

外の闇へと追いやられる  

軒先を貸したのは私だった  

あなたを受け入れたのも私だった  

けれど、それでも問いかけてしまう  

「なぜここが、すべて奪われたのか?」  


以上、ちょっと手直ししましたが、良い出来だと思います。

これが私がクライミングで感じている心中です。

ちょっと親切にしたら、人生丸ごと奪われそう、みたいな感じです。

2025/01/08

【技術情報】グリグリとカラビナについて

 https://youtube.com/shorts/oSkBk-3g3Ew?si=rzn8cHoEIO9Kkiju

【クライミング心理学】ナルシストは、「向社会性」が低い

人に求められる人にある 向社会性とは メンタリスト DaiGo 切り抜き

■ 禁止を守る力が弱い人が多い?

これは、私が一緒に登っていた人たちだけに限定的にそうなのかもしれませんが・・・

(やってはだめと禁止されていること)vs(自分の欲)

が対立することは、人が生きていたら、よくあることだと思いますが・・・その禁止に対しての抑止力・・・が非常に弱い、欲に対して非常に抵抗が少ない、という人たちだなぁと感じる事件が、何度かありました・・・。

そして、それを他の人も同じだと感じているようでした。

代表的なのは、残置のビナを「ねぇねぇ、持って帰ろうよ、みんなで山分けしようよ」って奴。

これは、山梨で登っていたころ第一発目に起ったことだったので、呆れるやら、嘆くやら…。

一緒にいた別の男性も、呆れて、「もう~〇〇さんったら!」というヤレヤレ感でした。男性同士の中でもそんな感じです。

しかし、そういう人でも、弱みを人に見せたり、相手をほめちぎったり、子分には優しいとか、純粋なところがあったりで、大体は、もう!と思いつつも付き合っていくということになると思いますが…。

反社会性、というのは、ナルシシズムの発露とは、また別の、非常に顕著な性格傾向ではないか?と思います。

私の経験では、一度でも、そのような所作や発言が見えた人は、回避するほうが良いです。

その人がクライミングをする目的…動機…ということですが… ナルシシズムの充足、つまり賞賛のゲットであることが99%の理由なのです。

 自分ができるだけ楽に賞賛を得れる

というのが、ナルシストにとっては、おそらく生きやすい社会になる、ということです。

■ 「トップロープ掛けるだけガイド」がはびこった理由?

誰かにトップロープをかけてやるというのは、一般の男性クライマーが5.12は一撃できる現代では、一番簡単にできる「恩着せ」です。

だから、クライミングガイドは、楽勝の仕事です。そのために、クライマー男子のあこがれの的になっているのではないでしょうか…?

しかし、私みたいなおばちゃんクライマーですら、初心者には、ナインにトップロープ掛けてあげますからね…

「トップロープをかけるだけガイド」だと早晩、存在価値がなくなり、淘汰されて行かざるをえません。

■ アルパインクライミングが廃れた意外な理由?

昔は、5.9を登れたら賞賛を得れたのに、フリークライミングの時代へ入ったら、5.9では賞賛は得られない、できて当然のこと、とされている、というのが、もしかしたら、アルパインクライミングが廃れた理由かもしれません。

寒い雪山での宿泊や、壁でのつらいビレイ時間を耐えて、それで、そんなに褒められない…となると、やーめた!となるのではないでしょうかね?

■ 成れの果て

そうやって、どんどん安きに流れた結果、天気の良いときに、岩場でクライミングするだけ…というのが、一般的なアルパイン…伝統的な山岳会の行きつく場、だったような気がします。

最低限…ということで、厳冬期赤岳がロープなしで登れる技術力…アイゼン歩行ですが…を死守、ということになってしまっているってことです。

■ (成れの果て)はニアイコール (一般登山者が努力してたどり着ける地点)

ちなみに厳冬期赤岳が晴天時にこなせるだけのアイゼン歩行術は、雪山を何十回か歩いていれば習得できます。

これは、慣れの問題ですので、回数の問題です。もちろん若ければ早く慣れますので、若いほうが慣れに必要な回数は少ないと思いますが…。

無雪期の砂浜でいくらアイゼン履いても、積雪期の感覚とは異なると思いますが…。当然ですが、雪のことは、雪の上で学ばないと学べないのではないでしょうかね?

もちろん、岩トレは岩の上をアイゼンで歩くので、雪や寒冷は必要ないかもしれません。

私も生まれて初めての岩登りは、西湖の岩場で、アイゼンを履いてのマルチピッチでした。

(二度目からリードしています。こう書いておかないと、私だけ特別扱いされていると勝手に思って羨ましい人の溜飲が収まらないみたいなんですよね…)

というので、結局、誰でもできるところ…、努力さえすれば誰でも到達できるところ…が

 赤岳 & 5.9

…というのが、白日の元のさらされてしまった…ので、賞賛を得られない。

そして、そのことが面白くない。

だから、まだ、赤岳&5.9で、「すごい、すごい」と言ってくれる人を探す…という本末転倒なことになっているのではないですかね? アルパインの世界は…

「昔、俺は山岳会ですごかったんだぞーという人たち」が、「5.9でも褒めてくれる下手くそ探しに躍起」になっていることが、私がモテた理由だったような気がしますネ(笑)。

でも、誰でも、年を取れば、登れなくなりますから… 

それよりも、自分が得た知識や経験を多くの人と分かち合おうという気持ちを持つことで社会から、「賞賛」が得られるとすれば、ナルシストは、賞賛欲しさに頑張れる人たちです。

要するに、社会にとって良いことをした人を 「賞賛」 すればいいのです。

つまり、グレード以外の価値、ピオレドール賞受賞以外の価値、を見つけてあげて、褒めてあげる。

例えば、「レスキュー」とか、「遭対協」とか、そういう活動の功労者賞を作って褒めてあげる。

そういう活動が彼らの反社会性を、向社会性に転換するのに大事です。 

本来は、褒めてもらうことを原動力にせず、山を愛していれば、他人からの評価なんてどうでもいいはずなのですが、その内発的動機が弱い人たちなのです…

なので、褒め力をうまいこと活用ましょう☆

一種のナルシスト向けライフハックです。

(そしてクライマー界は、ナルシストが9割なのです…)