■ 合掌vs一番になりたい
以前カイラスに登りたいという山やが、とがっているピークに立ちたいというので、私とは全く違うなぁと思ったことがありました。
岩のてっぺんに立ってヤッホーしたい!というのは、人間の根源的な、原始的な願いの一部のような気がしますが、だからと言って、その原始的=子供っぽい感情が、ありとあらゆる環境で優先されてしかるべきというのは、人間優先の傲慢な気持ちのような気がします。
その無邪気な気持ちのコントロール、抑制こそが山との駆け引きのような?
まぁ、登山の歴史は、基本的に、人間活動が、自然界を制覇、してきた歴史なので、その傲慢さを内包するのが山なのですが…。 傲慢さが一歩の限界を超えると死に至る。
■五体投地の変形として
これは両方、ジミーチンから来た画像なのですが、この画像が心を打つのは、ジミー・チンが東洋人で、あるからかもしれないと思ったりします。
私には、ピークは合掌した手に見えるんですよね。鳳凰三山でもそう思っていました。ですので、ピークを見ているときに感じる気持ちは、征服欲、ではなく、五体投地のようなひれ伏す感覚です。
実際、山登りというか、アルパインで何に服従して登るか?というと、自然、に対する服従であり、リーダーに対する服従ではないです。そこのところを間違って山の遭難をリーダーシップの失敗にする思考法が多いですが、そうではなく、リーダーを含む全員が、山という大自然の、自然の理(ことわり)に服従し損ねた結果だと思います。
クライミングも同じで、18歳ができることが48歳にできないのは、自然のことわりなので、出来ることをできるようにやるのが自然なことで、それを48歳に強いたら、そりゃ遭難=怪我=死、するでしょう…
■ 慢
夫は運動能力という意味では、自信がないのに、いつもやるのが、
いきなり長距離マラソンとか
いきなり富士山、とか
いきなり白出沢から奥穂に行こうとしたり、
なんですが…。
いきなりすぎる人の心理というのは、慢、があるように思います。
俺だってやれば出来るんだ、
と言いたいのだと思いますが、普段、運動習慣のない人がいきなり10㎞マラソンとかするから、余計くたびれて変なことになる。
男性だったら、何もしなくても、私よりは体力あります。普通に読図で回るゲーム性の高いナビゲーションゲームをやると、夫の方が張り切って、チームでやると私が足手まといで負けるから、各自で参加しよう、と提案が来るほど…です。
一方で、普段、私の山の時は、彼が足手まといで、それは、体力不足を見せびらかしているんですが、実は体力ではなく、私が行くような山は体力がいるんでしょう…というメンタルブロックだけであり、本質的には、体力の問題ではないということが分かります。
登山で私の成果を妬む?人もいましたが、
・昇仙峡で、故・吉田和正さんのビレイヤーをする、とか
・ラオスで、海外のクライマーとバンバン登る、とか
・阿弥陀北稜を初見でソロで行く、とか
・ミックスの入門ルートにセカンドで行く、とか
普通にベビーステップを3年程度重ねていれば、ジムグレードで5級しか登れなくて、外岩で5.9がオンサイト出来るという程度しか登攀力がなくても 出来るということです。
みなが、普通に リスクに向き合えば出来ること をしてこなかっただけではないかと思います。
入門程度のアルパインクライミングの成果が、体力の問題ではないことは、私が証明しているような?
つまり、アルパインクライミングが廃れてしまったのは、心を教えそこなっているためで、最近の若者がレベルが下がったとかいうような話ではないということです。