2022/06/13

自己責任の解釈違い=イチかバチかクライミング+危急時技術の無さ

クライミングで標語にしたい言葉


■ ネガティブ=頑張る回路

何か困難にぶつかった時に、

 ・奮起するタイプ
 ・委縮するタイプ

の2タイプに人は分かれる。私は前者で、特に力が出る。困れば困るほど、力が出るが、逆に言えば、困らない限り、出ない。

これが自分の幸福にポジティブに働かないケースもある。

■ 苦しい時の友が真の友

人生には順境と逆境があるが、友人の価値が分かるのが逆境で、クライミングで言えば、一緒に登っていた人が怪我をしたときが逆境。

そのようなタイミングでポイっと相手を捨てるような人がいたら、それがその人の本性である。

一般に、人というものは、困っているときの縁は悪縁であっても、掴んでしまい勝ちだし、一緒にいたら情が生まれてしまい、悪縁を断つことが、だんだんと難しくなる。それを分かっていても絶てない。

■ 神が出来事を起こす

そういう場合、神は何らかの強烈な出来事を起こして…

例:殺されかけるとか...本人に、”これは悪縁ですよ、断ち切りなさい”というメッセージを送る。

断ち切りがたい度 = それだけ執着が大きい、 ということだからだ。

■現実に当てはめる

私にとってはパートナーを失って福岡に来てパートナーに困るというのが困っているとき、で、その時掴んだ縁が悪縁で、こっちでもクライミングがしたいというのが執着であり、白亜スラブという出来事が起きるまで、情が絶ちがたかった、ということだ。

■ 因と縁を分解する

因は、私のクライミング執着であり、縁が荒木さんというパートナーで、ふたつが揃ったら因縁が揃い、白亜スラブ、が生じた。

しかるに、やはり、因は私のクライミングへの執着、にあったのであり、白亜スラブで死んでいないのは、


神さま、ありがとう!
 

であり、
”ロープワーク(危急時)のしっかりしたスキルを身に着けていて良ったな~”


であり、
 ”鈴木師匠、村上講師、岩っちゃん、青木さん、わたくしはこんなひどい目に遭っても、教わったことをちゃんと実践して、地上に生還しましたよ!ありがとうございました!恩に着ます!”

ってことである。

何も学んでいない、そこらの並みのクライマーなら、ロープアップされない時点で、ボケーっとその場に立ち尽くす以外、手立てを知らないだろう。

その状態で、マルチ行きたい!とか言い出すクライマーのなんと多いことか!

しかし、煩悩深し。

そこまでクライミングの楽しさにからめとられ、虎が大きな口を開けている、その口に、いまにも捉えられそうなところまで、うっかり行ってしまったということだ。

■ 自己責任論が、無反省と被害者泣き寝入りにつながっている日本

このように書いても、クライミング界では、

・そのようなパートナーを選んだお前が悪い
・そもそも、フリーソロ出来るくらいのスキルがあれば問題ない
・敗退なしとか言う時点で気が付けよ 

とか言って、荒木さんのスキル不足(カムスタック・終了点見落とす、敗退を考慮しない無計画さ)を責めず、私を責めるでしょう。その根拠になっているとされているのが、クライミングは自己責任、という思想です。

この”クライミングは自己責任”という思想は、人によって真逆に働く。

私のように自分の責任を正確に解釈する人(根拠:自腹で山岳総合センターリーダーコースに参加している、各種講習会に自腹で出ている)に適用すると、安全が増す方向になる。

時に、マイナスのポジティブ思考、つまり、どんなにひどい目にあっても、くじけない、ということになる。漫画岳にも、サンポさんが、山でヒドイ目にあっても、下山しないシーンが出てくる。行き過ぎたポジティブ思考は、自分を窮地に陥らせる。

一方、自分の責任を小さく解釈する人は、自己責任を相手だけに適用する。ついてきたのは相手なんだから、今回は切り抜けられたし、と自分のミスを反省しない姿勢になる。

なにしろ、カムの配置が悪くロープがスタックするなんて、竜頭泉のワイドで一度指摘しているし、その指摘を聞かなかったから、こんなことになっているのである。普通はクラッカーなら、クライマー一年生の時に反省して、学ぶようなことを10年登っていても、やっている…って意味で、”どんだけ~”になる。ピンポイントで、分かっていなさを指摘してやっても分からないのである。

相手が死ぬまで分からないのかもしれないということだ。相手をリスクにさらし続けても、ジブンゴトではないという意味の自己責任、で、結論、無責任、って意味だ。

これは、伝統のように、脈々と九州では受け継がれており(九州というと九州人の腹が立つようなのだが、もしかすると、九州だけの現象ではなく、岩場では、全国的にそうなのかもしれないと最近再考中。なんせ、山梨と九州しかしらないしなぁ…)、自分さえよければよい=古いボルト、自分さえよければよい=自己責任、と伝統的に”自己責任”という言葉は都合が良いように、読み替えられている。

■ 悪そのものは正さないといけない

これが、被害者泣き寝入りの仕組みですが、いくら、パートナーを受け入れるのが、一蓮托生の自分の責任だからと言って、この登攀を反省しないでいい理由にはならない。

九州のボルトが、強度がカム並みしかないカットアンカーでリボルトされていい理由にもならない。

またボルトの強度を一般クライマーに知らしめなくて良いという理由にもならない。

なにせ自己責任とは、台湾の岩場のように、ボルトの腐植具合がエクセルシートにまとめられており、そのルートを登るか登らないかを支点のボロさごと判断できるような状態を言うのであり、今の日本の現状だと、何も知らないめくら状態で、つまり、いちかばちかで登っているに過ぎない。

■ 感謝

話がずれたが、ひどい目にあったが、まだ死んでいない。なので、起きたことはすべてありがたい、ことなのだ。良かった、生きていて。

私は彼に捨てられたのですが、捨てられるまで、まだ、この白亜スラブの深刻なスキル不足状態というか、無反省の状態を認識しておらず、無反省のまま下手くそでそれを正す気持ちがないのは、知識がないためだろうと、痛む足を引きづって、韓国に行ったのでした。その理由は、、師匠の青木さんと組ませて、立派なロープワークを見れば、彼も反省するのでは?と思ったためだったのでした。きちんとしたリードクライマーを見たことがないのかもしれない、と思ったのでした…。そのために、痛む足を引きづり、体に無理を重ねたのでした… 

神さまの支点で見れば、わたしにこそ、どんだけ~。「こんなに”この男はダメだ”と明瞭に示しても、お前はまだ分からんのか…」と神は嘆いたことでしょう…。

その後、彼に貸したものを返してほしいと頼んだところ、なんと、3か月かかり、なかなか返してくれなかった上、返事も来なくなったので(たぶん、返さないままスルーしようと思っていたのでは?)、仕方なく共通の友人を介したら、「いちいち人に言うな!」と書いてよこし、さらに「こんなもの、役に立たなかったし、一度も使ってない!」と捨て台詞を吐かれたのでした…(汗)。

ここまで、はっきりすれば、いくらなんでも、どんなお人よしでも、分かります。私はいいように使われただけだったのです…。すごく、よく分かった。

神さまごめんなさい。そして、悪縁を断ち切るためにスレスレな事件を起こしてくれて、ありがとうございました。

こんな事件を神に起こさせねば、分からなかったほどの私が愚かでした。