弟が亡くなったのは、もうずいぶん前で、25年前です。
弟は突然死で、24歳で亡くなりましたが、余りに急だったので、よく分からないまま、平常の日常に、彼の死は埋もれて行きました…。私も若くて、結婚前だったので、とても忙しく、まだロボット事業部にいる頃でした。
40代になり、クライミングを趣味でするようになってから、特に九州の命知らず自慢をわざと行い、命を軽んじるような言動を繰り返す、若いクライマーたちに、ものすごい違和感を感じるようになりました。
もともと私は優等生タイプなので、粋がりなどで、命を落とすような ”幼稚さ” や ”あほくささ” とは、相性が悪く、弟の死がなくても、そのようなメンタリティとは無縁のタイプです。
問題は、そのような自分を守る盾になっていた自分の本来の資質が、弟の死、によって、生かされなくなったということです…。
40代になり、クライミングを趣味でするようになってから、特に九州の命知らず自慢をわざと行い、命を軽んじるような言動を繰り返す、若いクライマーたちに、ものすごい違和感を感じるようになりました。
もともと私は優等生タイプなので、粋がりなどで、命を落とすような ”幼稚さ” や ”あほくささ” とは、相性が悪く、弟の死がなくても、そのようなメンタリティとは無縁のタイプです。
問題は、そのような自分を守る盾になっていた自分の本来の資質が、弟の死、によって、生かされなくなったということです…。
罪悪感
が原因です。
私の周りには、弟思いの私の思いに
ちゃっかり便乗、
したいという人が集まるようになりました。
私の周りには、弟思いの私の思いに
ちゃっかり便乗、
したいという人が集まるようになりました。
■ 自頭で考える 地頭で考える
本来、山やになるには、やらなくてはならないことは、本人が考えられます。
雪の山に行くのに、雪崩講習を受けずに行けば、当然、その人は雪崩に喰われるリスクは、高くなりますよね。
雪の山に行くのに、雪崩講習を受けずに行けば、当然、その人は雪崩に喰われるリスクは、高くなりますよね。
岩の山に行くのに、ロープワークの講習を受けずに行けば、当然、その人は墜落リスクは、高くなりますよね。
この当然の公式が分からないみたいで、どうも
周りの同じくらいのグレード人が登っているなら俺も行けるだろう、と行く
という行動原則が多いです。
■ 自分ではなく相手を危険にさらす
■ 自分ではなく相手を危険にさらす
クライミングをするのに、ビレイの講習を受けずに行けば、危険にさらすのは、相手であり、自分は人を殺す可能性があります。
これは、ショートの岩場では、誰でも分かるリスクなので、かなり無責任な山岳会でも、口やかましく言われると思いますが…盲点は
リードクライマーがセカンド(を含むパーティ全体)を危険にさらすリスク
です。このリスクが顕在化したものが、白亜スラブでの私たちパーティの登攀ですね。
■ 本来あるべき姿から離れる=なあなあ主義=甘え
そういう本来習得しなければならないステップを端折ってしまうこと…
これがグレード至上主義の盲点であり、クライミングを含む登山にとって一番のリスクです。
例えば、阿弥陀北稜の学習院大学山岳部の遭難も、本来であれば、
積雪期 八ヶ岳赤岳
積雪期 八ヶ岳赤岳横岳縦走
積雪期 八ヶ岳全山縦走
積雪期 阿弥陀ノーマルルート
積雪期 阿弥陀御小屋尾根と阿弥陀中央稜
という最低5つくらいは終わった人が行くものです。これは積雪期ですので、無雪期に当然のように、八ヶ岳全山縦走は、楽勝で終わっておかないといけないです。一年で全部行けちゃいますよね。
これは、ステップアップの前に、道迷いリスク(山頂から別のところに降りてしまうリスク)を避けるための措置です。これは、普通にルートガイドを難易度順に並べても分かると思いますが…要するに周辺のピークを見ただけで、あれが〇〇岳と分かる程度の、土地勘はできた人が行くもの、なんです。
そうでないと、道をロストしたとき、なんか変だな…と気が付けませんよね??
ところが、現在では、登山関係者でも、人工壁で、5.11が登れるから、無雪期および積雪期の経験が欠如していても、「まぁ大丈夫だろう」という思考が顕著です。
というのは、指導者自身が、
阿弥陀北稜を登れるレベルにない、
自力で登山判断してきた経験がない、
から判断がつかない、のかもしれません。
人工壁で5.11が登れることと、山というアウトドアのリスク管理には何の相関関係もありません。
そこは、「歩き」と「登攀」という二本立てで、登山者のスキルを測るという思考回路が登山界では主流であることから、盲点になってしまうのです。
「歩き」の中には、「積雪期歩行(アイゼン歩行ということ)」「その山域でピーク名をすべて言えるだけの地形理解」「南北エラーを起こさないための、その山域での方向感覚」「下れば早いか、登り返しがベターか判断できるだけの地形理解」を含まないといけません。
ところが、現在は、そうした機微が理解されず、
登攀グレード
歩き = 若さ
で安全か安全でないか、が判断されてしまいます。”たぶん、だいじょうぶやろ”、です。
ほとんどの指導者が、本当は合理的判断でジャッジメントを下しているにも関わらず、
古タヌキ的な経験値による判断力
などという、他者が理解しようもない言語化をしてしまうので、登山の合理的判断が、ミステリアス化されています。
逆に、年を取った人でも、その人の体力に合わせたプランニングすれば、その山旅は安全になります。
アメリカでは90代の女性がフリークライミングしているくらい、フリークライミングは体力は要らず、安全なものです。
■ 名誉だけ得たい
昨今のグレード至上主義には、副作用として
名誉だけを得たい
という人が集まるようになっています。例として、
・5.11がクライミングジムで登れるから、北岳バットレス四尾根に行けるはずだ
・5.12が登れるから、白亜スラブは登れるはずだ
・3級しか登れないのに、2段のボルダーをノーマットで登りたい
・5.11が登れます、というのにATC持ってこない
こうした人たちは、リスクよりも、
自分を証明したい思い、認められたい思い
に駆られているもの、と思われます。それにほだされてしまうと
殺されるかもしれない、という恐怖
が生まれるようになりました。しかし、登山の歴史を振り返る限り、この恐怖はあながち根拠のない恐怖ではないように思います。
お買い得5.12など、お買い得品を求める人はその傾向があるということですから、かなり要注意です。