2022/09/28

弟の死とクライミングの関わり

■ こころの働きの不思議

弟が亡くなったのは、もうずいぶん前です。弟は突然死で、24歳で亡くなりました。

余りに急だったので、よく分からないまま、平常の日常に彼の死は埋もれて行きました。
 

あまり弟の死の意味を深く考えることもないまま、40代になり、クライミングを趣味でするようになりました。しばらくは楽しいクライミングでしたが、疑問に思う言動が多く、悩まさせられました。

とくに九州に来てからは、

 命知らず自慢をわざと行い、

 生を軽んじるような言動を繰り返す、

そのようなクライマーたちの在り方に、ものすごい違和感を感じるようになりました。

もともと私は優等生タイプなので、粋がりで、命を落とすような 

 ”幼稚さ” や ”あほくささ” 

とは、そもそも相性が悪く、そのようなメンタリティとは、無縁のタイプです。

■ 自分を守る盾(自分らしさ)を失ったこと

問題は、そのような自分を守る盾になっていた、

 本来の資質

が、弟の死、によって、生かされなくなったということです…。

相手の生死について、責任を感じてしまうということです。

■ 弟思いの心=弱点

私の周りには、弟思いの私の思いに


 ちゃっかり便乗、
 

したいという人が集まるようになりました。

■ 山やになるためにしなくてはならないこと

本来、山やになるには、やらなくてはならないことは、本人が主体的に考えることができます。

雪の山に行くのに、雪崩講習を受けずに行けば、その人は雪崩に喰われるリスクが高くなるのが当然です。

クライミングをするのに、ビレイの講習を受けずに行けば、危険にさらすのは、相手であり、あなたは人を殺す可能性があります。

俺はもう分かってるから行かない、と言って、奥村講習に来ない=傲慢です。

本来、毎年岩講習をやって、当然なのです。

そういう本来しなければならないステップを端折って、
 

 名誉(結果)だけを得たい
 

という人が集まるようになり、

 殺されるかもしれない、というリアルな恐怖

が生まれるようになりました。 この恐怖には、合理性があり

 無知 + 傲慢 = 死 (それもチンケな)

 が、初心者山やの死の公式みたいなものだからです。 

無知と傲慢が、私の幻想ではなく、本物であることを何度も確認することになりました。

これが、九州に来てから、私のクライミングの歴史に起こったことです。

よって立つ技術を向上して行かないのに、難易度だけを上げていけば、当然、死に近づきます。

 

自分より肉体的能力の劣る女性に、ちゃっかり便乗して登ちゃおう!という男性の、どこが男らしいのでしょう?