■どのような極端を自分が知っているか?
戦争を知っている ⇔ 平和のありがたさが分かる
飢えを知っている ⇔ 食べ物のありがたさが分かる
不安を知っている ⇔ 安心のありがたさが分かる
今回、(普通に健全なグループ)に属して、安心でき、それに対して、とても感謝の心が生まれた。
それは、(不健全なグループ)に接したおかげ。
”光がないと影が分からない” というのは、逆で、人間は
”影がないと光が分からない”。
(強烈に嫌だ嫌だというネガティブ経験)がないと、(良い経験が良いものだ)と分からないのです。
飢えを知らないと、飽食のありがたさが分からないことや、戦争を知らないと平和のありがたさが分からず、”もっともっと”と、望んでしまうように。
■ ”もっともっと”は、欲望ですよ。
”もっともっと”と頑張ることは、良いことだと、日本人は洗脳されています。
学校の先生たちというのは、基本的には、世間知らず。
だから、やっぱり、もっともっと、を助長してしまいますし…
自分が到達した以上のレベルを生徒が行くことになったら、指導する側は、そこは未体験ゾーンなので、指導しようにも、適切なアドバイスがなく、言うとしたら、”頑張れ”。つまり、”もっともっと”。
あるいは、儒教の教えが強烈で、”耐えろ”。 とくに女は耐えてなんぼ、とかいう発想の人は、昭和どころか、大正とかの教えです。それを現代にやると、世の中全体が間違った方向に行ってしまう。
日本は、誰が見ても、すでに1980年代に、世界で一番豊かな国になり、80年代から見ても、もう40年間、豊かさの中に埋もれているので、そんな日本で、苦しいとか死にたいって方が変なんですよ。
YouTuberのひろゆきさんが、安部さんを射殺した無敵の人の経歴を調べて、こう言っていました…
「この人、宅建とFPを取得しているんですよね、宅建ってかなり知性が高く努力家でないと取れない資格です。そんな人が生きていけない社会…ってそっちのほうが変」って言う発言です。
私もそう思う。
苦学して、国立の4大を夜学で出て、英語がペラペラで通訳もでき、ITはプログラミングができ、しかも独学で、登山させれば、一般登山はすっ飛んでアルパインの初級くらいはソロで行けてしまい、フリーを登らせれば、高難度は登れなくても、海外でパートナーを見つけて楽しんで帰って来れる…、ロープがアップされないでも、自己確保でロープに追従してきてくれる頼れるセカンド…、
そんな人が、”ダメだ、ダメだ”と言われるんであれば、ダメじゃない人って誰?
それは、謙虚ということとは、全く別です。
日本人が言っている謙虚は卑下慢になっている。本当は、5.10cなのに5.9とグレーディングするのが、卑下慢って意味です。俺なんて、まだまだ…と俺を卑下するのが卑下慢。特徴は、”俺なんて” というような、”なんて”が含まれることで、「そんなことないですよ」という慰めの言葉を前提に発せられる。相手に慰めを無理強いする言葉です。
”なんて”、は、”だって”へ発展し、結局、競争心を発露することになり、二元論の世界から逃れられない。
人生は短い。
○○というグループで承認されるよう頑張る(例:白亜スラブ)より、先に本当に自分がしたいことをしましょう。