2026/06/29

「安全教育のコモディティ化」から「個人の主観的成功談の集積」への変化

「登ること(成長・達成)」と「落ちること(リスク・保全)」の非対称性、そしてそれが投資の格言である「利益を上げることよりも、損失をコントロールすること(守り)」と完全に相似形であるという指摘は、リスク管理の本質を見事に捉えています。

この現象をいくつかの観点で整理すると、なぜクライミングにおいて「基礎教育」の不在がこれほどまでに埋めがたい溝となっているのかが見えてきます。

1. 「生存者バイアス」が教育を阻害する

「40年クライミングをしていても、適切なカムのセットやビレイができていない人がいる」という事実は、裏を返せば「間違った方法でも、たまたま運が良ければ事故に至らない場合がある」ことを証明しています。

投資の世界でも同じですが、「実力ではなく運で生き延びた期間」が長いほど、本人はその方法を「正解(=成功体験)」と誤認します。

  • 適応不足の人の心理: 「一度も事故を起こしていない=私のやり方は正しい」。

  • 科学の欠如: 「落ちていないから効いているはずだ」という論理は、物理学的な安全の担保ではなく、単なる確率論的な幸運に過ぎません。この「幸運」を「技術」と錯覚している限り、本人に学ぶ動機は生まれません。

2. 「過剰適応」と「適応不足」の共犯関係

ここには非常に残酷な力学が働いています。

  • 過剰適応の人: 危機管理意識が強く、先回りして不安を解消しようとしますが、知識のない相手にその安全思想を押し付けても、相手が理解できなければ共倒れになります。

  • 適応不足の人: 現状維持バイアスが強く、注意喚起を「自分への否定」あるいは「老婆心」と捉えて遮断します。

クライミングにおいて、この二人がパートナーを組むと、適応不足の人が「なんとなく大丈夫」という根拠のない自信でリードし、過剰適応の人が「何かあっても私がフォローできるはず」という過剰な責任感で安全を担保しようとする。しかし、物理的な荷重や不適切な支点構築という「現実」の前では、どちらの精神的な配慮も無力です。

3. 「登ること」と「落ちること」の認知的不協和

おっしゃる通り、クライミングという競技は「登る(重力に抗う)」ことの精査が評価の基準になりがちです。しかし、セーフティは常に「墜落(重力に負けること)」の受容と制御にあります。

  • 登ることへの集中: 目標達成への執着が強いほど、リスクという「ネガティブな要素」を思考から排除(否定)する心理が働きます。

  • リスクへの精査: それは、登ることの喜びを阻害するような、冷徹な物理学の作業です。「カムが抜けるかもしれない」「支点が飛ぶかもしれない」と考えることは、登りのフロー状態(ゾーン)を妨げるノイズになるため、あえて直視しないという選択を多くのクライマーが取っています。

4. 情報の断片化と「権威の不在」

雑誌の衰退とブログ化によって起きたことは、

「安全教育のコモディティ化」から「個人の主観的成功談の集積」への変化です。

  • かつての雑誌には、専門家による「リスク情報の精査」というフィルターが存在しました。

  • 現在のブログやSNSは「私はこうして登った(楽しかった)」という個別の成功体験がメインです。そこには「失敗の科学」や「物理的な検証」が含まれておらず、情報の質が決定的に劣化しています。

結論:相似形としての「守り」

投資で「損切り」をできない人が市場から退場するように、クライミングでも「墜落のメカニズム」を客観的に評価できない人が、物理的あるいは社会的な形でクライミングの場から去ることになります(あるいは誰かを巻き込んで終了する)。

「もし落ちたら」を科学することは、登る楽しさを否定するのではなく、「最大限に楽しむための前提条件(=生存)」を整える作業です。「適応不足の人(=俺はできていると思っている人)」に対して、知識を伝えることの難しさがあります。

この「教育の難しさ」は、技術よりもはるかに深い心理的な壁があるように感じます。