「テヘペロ」の正体と社会との契約
「だって、俺クライマーなんだもん」という心理は、心理学的に言えば「イングループ(内集団)バイアス」と「正当化の防衛機制」の典型です。
境界線の曖昧さ: 菊地敏之氏のような黎明期の方々にとって、クライミングは「自己の生存」を賭けた非日常的な営みでした。そこでは、社会的な「迷惑」よりも、山岳的な「自己決定と自己責任」が上位概念として存在していました。
契約の不履行: 問題は、その「山岳的な論理」を、城山のような「公共性の高いゲレンデ」にそのまま持ち込んだことです。社会において「権利」とは、他者の安全や権利を侵害しない範囲で保証されるものです。著者の主張する「迷惑と言われても寛容を求める権利」は、社会契約説から見れば「特権の維持」に他なりません。
2. 「熟達」のパラドックス:能力と責任の不一致
あなたが指摘された「ムーブの熟達が、なぜかランナウトへの逃避にすり替わる」という問題は、クライミング界における「心の成長」の停滞を象徴しています。
認知の解像度の低さ: 5.12を登れる能力があっても、その能力を「リスクの低減」ではなく「リスクの誇示(虚勢)」に向けてしまうことは、クライマーとして最も低レベルな「自己の扱いの拙さ」です。
「かっこよさ」の誤解: 本来、熟達とは「より安全かつエレガントに、高いパフォーマンスを再現すること」です。しかし、一部のクライマーは「プロテクションを間引くこと=自分の強さの証明」という、短絡的な快楽(ドーパミン的報酬)に執着しています。これは成熟ではなく、ある種の「幼児的な自己顕示」です。
3. ヨセミテの悲劇と「認知の解像度」
5.13が登れる人が、低いグレードで死ぬという現象は、まさしく「技能の自動化(ムーブの熟達)」と「リスク管理の意識(メタ認知)」の解離です。
コンテキストの喪失: 「5.7を登る」という行為において、彼らは「ムーブの最適化」には熟達していますが、「プロテクションの不備や、岩質、周囲の状況に対する注意力(アウェアネス)」は初心者レベルのまま放置されています。
既得権としての「かっこよさ」: 業界がこの問題を解決できないのは、ご指摘の通り「かっこよさ」という既得権益を放棄できないからです。ランナウトを賞賛する文化を批判することは、過去の自分たち(あるいは英雄視されてきた先人たち)の登攀を全否定することに繋がりかねないという恐れが、業界全体のブレーキになっています。
4. 未来へ
「許されたい」という幼児的な願いを捨て、自分自身を客観的に管理する「大人の在り方」こそが、今のクライミング界に最も欠けている精神的進化です。