2026/06/09

【クライマーの心理学】自己愛性パーソナリティ―障害のおじさんにまとわりつかれる

 私は、9割男性の登山&クライミング界で、珍しい女子なのですが…。それで困ることが起こるんですよね。

それは、クライマーじゃない男性のほとんどが、感心してもらおうと思ってこんな内容をよこしてくることなんですよ。

冬夏山の山行をまとめました
ご覧あれ(笑)
1.前編冬山
○○歳頃山歩きが趣味になり、高校の友人と2人で良く休日に近くの山を歩きました
数年してから会社の休みにあわせて友人と南アルプスに行こうと計画し冬山歩きを開始、冬山の装具や滑落訓練をしたのちに3泊4日で横岳へ
到着して午後から横岳アタック
突然晴れから天候がホワイトアウトにコースロスで沈滞
数時間したら元コースが見えたのダッシュで予約してた縞枯山荘に泊。
翌日晴天にて隣にある雨池山2325mにアタックしラッセルしての数時間後に登頂。
2.後編夏山1
冬山の翌年白馬雪渓歩きへ夜行電車で朝に着いて山腹まで、数時間歩きいざ登山口から歩き出すも突然呼吸困難に。仕方なくふもとでテント泊。翌日雪渓を上まで歩き2932mに登頂、雨の中でテント泊。翌日ご来光後無事山麓に
午後到着にて無事予定に帰宅。
3.続編夏山2
大阪から夜行で穂高駅に、そこから三俣ルート歩きで
蝶ヶ岳から常念岳へひたすら歩き我慢の6時間以上で
午後2857mの山頂に登頂。テント泊して翌日、そこから一ノ沢ルートで
下山し無事大阪帰宅。その後お互い時間もなく、登山から遠のくことに。
※冬山は特に雪でホワイトアウトしてのルートロスがありました
初めての山行は気をつけてても、なにかしら起きるということで

ツッコミどころ満載。

しかし、問題は、これで、女性にすごーい!と言ってもらえると思って送っていますよね?

送られてきた山行記録について、客観的に以下の事実および矛盾点(ツッコミどころ)が指摘できます。Gemini応答。

1. 前編:冬山行程における地理的・客観的矛盾

記述には、八ヶ岳連峰の「横岳(2,829m)」と、北八ヶ岳の「縞枯山」「雨池山」が混同されている、または行程として著しく不自然な点が認められます。

  • 拠点の矛盾: 「横岳アタック」の後に「予約してた縞枯山荘に泊」とあります。南八ヶ岳の横岳から北八ヶ岳の縞枯山荘までは、冬期であれば長時間の縦走を要する距離であり、「数時間沈滞した後にダッシュして泊まった」という記述は、地理的・体力的な位置関係の整合性を欠いています。北八ヶ岳の「横岳(北横岳・2,480m)」の誤記である可能性もありますが、それであれば「南アルプスに行こうと計画し」という前段の文脈と地域が一致しません。

  • 安全管理上の問題: 「突然晴れから天候がホワイトアウトにコースロスで沈滞」とありますが、適切な観天望気やルート維持、あるいは引き返しの判断が遅れたことを示しています。冬期積雪期において、ホワイトアウト時に「数時間したら元コースが見えたのでダッシュ」という行動は、二次遭難のリスクを高める不適切なリスク管理です。

2. 後編:夏山1(白馬岳)における客観的事実

  • 身体管理の課題: 「いざ登山口から歩き出すも突然呼吸困難に」とあります。夜行列車による移動の疲労、高度順化の不足、あるいは事前の体調管理に不備があった可能性を示唆しており、弾丸登山=「計画的な山行」の基準からは逸脱しています。

送信者の意図に関する客観的分析

登山を専門としない一般的な層において、以下のような認識のギャップが存在することは統計的・経験的に観察されます。

  • リスク認識の解離: 遭難寸前のエピソード(ホワイトアウト、呼吸困難)を「苦難を乗り越えた武勇伝」として捉える傾向が一部に見られますが、山岳専門家の基準ではなくても、誰が見ても「計画性のなさや技術不足による危機管理の失敗例」と評価されます。

  • 承認欲求の構造: 2800m〜2900m級の具体的な標高や「3泊4日」「ラッセル」といった専門用語(あるいはそれに準じる言葉)を多用する点から、聞き手に対して自身の行動力や経験を強調し、肯定的な評価(感心、称賛)を得ることを目的としたコミュニケーションである可能性が極めて高いと言えます。

誰が見ても、多くの過失や矛盾が含まれる内容ですが、送信者側はそれを「難所をクリアした実績」として認識している。

ココが問題なんです

これが登山で毎年遭難者数、過去最大の理由。

つまり、考え方が愚かだから。

八ヶ岳の北横岳って、ロープウェーがあるんで、マジで誰でも登れる超簡単雪山入門コースです。きちんと事前に天候を調べ、南岸低気圧を避けて登れば、40分で山頂です。あるいは、赤岳の横にある横岳なら、冬山初心者にはロープが必要で、アイゼンワークをマスターした人だけがいけるところです。夏の白馬岳雪渓でへばっている人がいけるところではない。白馬雪渓には6本爪アイゼン程度をおすすめしますが、山やってる人は普通はスプーンカットを拾ってうまく歩けるので、なしで登ることもできます。しかし、自分がそれができるか判断できない人は、判断できない時点で経験不足なので、アイゼンありが無難です。

私が言いたいのは、失敗を成功談として自慢している、って点です。

この人は山やではないですが、昨今の山岳会は、このような中高年男性はほんとに多く、山岳会に入っていても、9割こんな人です。

どういう教育体制が、このような錯誤した認知を作ってしまったのでしょうかね?

教えて!Gemini

1. 体系的な「リスクマネジメント教育」の欠如

日本の伝統的な山岳教育(特に昭和〜平成にかけての山岳会や大学山岳部)は、客観的なリスク評価よりも、徒弟制度的な経験主義に偏重していました。

  • 「経験年数=正しさ」という誤解: 「何年山をやっているか」「どれほど厳しい山を経験したか」という属人的な経歴が重視され、航空業界や医療業界のような「ヒヤリハット(インシデント)を客観的に分析し、システムとして再発を防ぐ」という安全管理(リスクマネジメント)の教育体制が確立されていませんでした。

  • 事後評価の仕組みの不在: ルートロスや体調不良が発生した際、「なぜその事態に陥ったのか」を数値やタイムラインで冷徹に検証するのではなく、「無事に帰ってきたから結果オーライ」で済まされてしまう土壌があります。この「無事帰宅」という結果のみが免罪符となり、プロセスにおける重大な過失が検証されずに放置されるため、認知の修正が行われません。

2. 「苦難と克服」を美化する精神論の再生産

日本の登山文化、あるいは広くスポーツ・社会文化において、「苦労すること、耐え忍ぶこと自体に価値がある」とする精神論(根性論)が長く信奉されてきました。

  • 「我慢」の美徳化: 提示された山行記録にも「ひたすら歩き我慢の6時間以上」という表現があるように、適切な計画に基づかない無理な行動や肉体的過負荷を、計画性の欠如ではなく「己の精神力で克服した美談」として脳内で変換する教育(あるいは背中を見て学ぶスタイル)がなされてきました。

  • メディアや登山史の影響: 過去の登山文学やメディアにおいても、緻密な計算でリスクをゼロに抑えた静かな山行より、悪天候やトラブルに巻き込まれながらも命からがら生還するドラマチックなストーリーの方が「素晴らしい登山」として称賛されがちでした。これが「トラブルを乗り越えてこそ一人前」という誤ったロールモデルを形成しています。

3. 同質的コミュニティ内での「称賛のサイクル」

男性が圧倒的多数を占める従来の山岳会などのコミュニティでは、こうした「危機を乗り越えた俺」というエピソードが、仲間内で互いに認め合い、マウンティング(優位性の誇示)やアイデンティティを補強するための道具として機能してきました。

  • 客観的なデータや安全基準に基づく批判が機能しない「身内の空間」において、失敗談を武勇伝として語ることがコミュニケーションの標準(ベースライン)になってしまっているため、本人たちはそれが「ツッコミどころ満載の危険な行動」であるという自覚を全く持てないまま、教育・指導する側の立場(中高年)になっていきます

「主観的な精神論」と「検証なき経験主義」が世代を超えて再生産されてきたことが、このような認知の錯誤を生み出す教育的・構造的背景であると考えられます。

Gemini応答

ひたすら耐えて6時間って‥‥。たった6時間で自慢されても…って感じです。

40代スタートの、私の一番長い縦走時間は18時間で、試してみたらできた、って感じでした。遭難したときに備えて、どれくらい歩けるのか知っておこうと思い立って歩いてみましたが、18時間歩いても、まだ大丈夫だったので、それ以上はしなくてもいいか、と終わりました。

念のため言っておきますが、これは体力を自慢するために言っているのではなく、6時間くらい歩けるのは、誰でもだ、と言うことを言うために言っています。

日本の山の世界は、本当に本末転倒なことになっているんですよ