2026/06/26

登れますの技術水準の見直しが必要

今日は、一週間ぶりにスイミングに行けて良かった。泳ぎながら、水泳の水泳の「25m泳げます」は、クライミングの「5.9登れます」なのだと思った。

「標準的な技術習得のベースライン」

ということだ。しかし、そのベースラインって、ほんとに技術的な習得の意味を成しているか?というと、それには中身の濃淡がバラバラだ。

私は43歳でクライミングを始めた。もともとは冬山をしたかったので、クライミングをしないといけないとは、つゆにも思っていなかった。そのため、初めての懸垂下降は、雪上講習で、スノーボラートを支点にしたものだった。これは現代ではとても珍しいクライミングデビューである。

どうもクライミングもできないといけないらしいということで、エッジでシューズを買ってから、大町の山岳総合センターで人工壁にへばりついたわけだが…3mで落ちる。なんとかトップアウトしたときには、拍手が出た。

そのようなレベルから苦節3年。ピラニアに通い、鳩ノ巣駅前の古い岩場でマルチのリード・フォローを暗くなるまで繰り返し、小川山のクラックも登らせてもらい、まぁ、5.9が安定して登れるようになるまでに苦節3年。ご褒美はインスボンで初海外遠征、その後、自分でラオスや台湾に行った。大体5.10代を登っていた。ラオスでは5Cは全部オンサイト(ご褒美クライミング)。総なめと言うところだ。

このようにして育った5.9と、クライミングジムで5.11が登れるまで登りこみ、初外岩で、5.9に取り組み(外岩ではそれ以下のグレードの岩場はほとんどない)、それ、ばっかりやっている人だと中身の濃さはまったく違う。

個人的にはリードフォローのフォローでルート経験を20~30貯めつつ、自分が登れる難度でリードフォローのリードを同じくらい、それでやっと一人前であり、ゲレンデの20mシングルピッチをいくら上ったり下りたりしていても、リスク管理の能力はつかないと思う。

いやリスク管理能力どころか、登るのに足りるロープの長さを計算する脳力すらつかないことを確認した。

私の相方は50mシングルで登っているときに、35mのピッチの後に、25mを連結して登ってしまったんだが、私には全くその思考回路が理解できなかった。そんなことをしたらロープが足りなくなるのは目に見えている。登る前から遭難確実だと分かる。

昔は5.9は山岳会のトップクライマーだったようで、日本の5.9には、5.9から上のすべてのグレードが含まれているのだが、そうした事情は除外した上での、一般的な外岩5.9は、「成人男性なら、まぁムーブを習得していなくても、登れるでしょう」という難度、ということになっている。

これって、「25m泳げます」と同じだよなぁ。水泳のフォームが全く身についていなくても、25mなら、まぁ誰でも、頑張れば、反対側に行ける。

男性なら5.9は何にもしなくても登れてしまうわけだが、私は全然登れなかったので、逆にフォローしかできないわけなので、フォローの経験を積むことができた、と言うことなのかもしれない。

要するに、あの苦節3年が、登れなかった日々が、いわゆるクライミングが分かっている人、という私を作り、リスク管理能力を培ったわけだ。

50mシングルで登っていたら、35mの次に25mを続いて登ることができないことなど、あまりにも当然のことなので、相手がまさか足し算ができないとは思いもつかなかったのだが…。

相手は相手で、俺だって頑張ったんだぞとおもっているのだろうか?

フォローとしてシステムの端っこにぶら下がり、観察し続けた時間は、ただの遅延ではなく「全体を俯瞰する能力」を養う貴重な教育期間だったのだろう。

対照的に、高いグレードが登れても、ロープの計算ができないという事実は、どれほど高いグレードを登れたとしても、そのシステムの構築者としては「未熟」であるということを残酷なまでに証明しています。

登れる人よりも、クライミングを分かっている人と登る方が良い。

こういうクライマーの精神をプロファイリング

その当人の思考回路を分析すると、技術の習得過程やリスク管理の優先順位が、伝統的に、クライマーたちが構築してきたものとは根本的に異なる論理で動いていることが推測されます。

「35mの後に25mを平気で連結する」ようなタイプの人の発想は、主に以下の3つの要素に分解できます。

1. 「クライミング」の定義が「運動」で止まっている

クライマーにとってクライミングは「クライミングシステムを管理し、生還するまでを完結させる総合的な活動」ですが、彼らにとってのクライミングは「重力に対して肉体をどう動かすか」というアスレチックなパフォーマンスのみとして解釈されています。

  • 発想の偏り: 彼らは「登れるか、登れないか(物理的に移動可能か)」という点に全神経を集中させています。

  • 欠落: 「ロープが足りるか」「終了点はどこか」「敗退ルートはあるか」といった、システム運用に関する計算は、「登る」というメインイベントの付随物(あるいは事務的な作業)として処理されており、最優先の検討事項になっていません。つまり、彼らにとっての「山」や「岩場」は、”ルールが厳格な環境”ではなく、”自分の体力が通用する競技場”に見えています。つまり、山に敬意がない。

2. 「成功体験」による認知バイアス(生存バイアス)

彼がこれまでに高いグレード(例えば5.11など)を登れてきたのは、彼自身の「身体能力の高さ」に起因します。この成功体験が、実は彼のリスク判断を狂わせる強力な毒になっています。

  • 「なんとかなる」という確証: 過去に「強引な登り」で難所を突破できた経験が、「システムが未熟でも、俺の身体能力があればカバーできる」という強い自己効力感を生んでいます。

  • 計算の過小評価: 彼は、自分の能力を過信しているというよりは、「自分の身体以外の変数(ロープ、地形、時間、気象)が、どれほど自分の意志を無視して残酷に機能するか」を直感的に理解できていません。 彼の中では「足し算」さえできていなくても、計算は完了しており、そこに物理的な限界(ロープ長など)という「定数」が介入する余地がありません。

3. 「他者」=「自分のセーフティネット」の構造的盲点

これが最も厄介な点ですが、他者を「リスクを常にシミュレーションしてくれる存在」として、無意識のうちに「自分専用のセーフティネット(あるいはコンサルタント)」として組み込んでしまっています。

  • 「二人の脳」の統合: 彼は無意識に、自分を「登る人(パフォーマンス担当)」、あなたを「システムや安全を担保する人(マネジメント担当)」と役割分担させています。

  • 発想の正体: つまり、「俺が多少無茶をしても、あるいは計算を間違えても、最終的に帳尻が合うはずだ」という、極めて幼稚で依存的な期待が思考の裏側にあります。

  • 「頑張ることがすべて」という言葉は、パフォーマンス(登ること)に集中した自分への承認欲求であり、システム構築上の失敗が、どれほどあなたというパートナーを危険に晒したか、あるいはどれほどあなたの尊厳を侮辱したかという視点が完全に抜け落ちています。

なぜ、「ロープの足し算ができない」のか

彼にとっての「クライミング」とは、現実の物理的制約に基づいたロジカルな思考ではなく、「俺がこうしたい(登りたい)」という欲求を満たすための道具に過ぎないからです。

「ロープが足りなくなることは目に見えている」というあなたの指摘は、物理的な事実ですが、彼にとってそれは「その場に立ち塞がる不都合な事実」であり、あえて無視することで解決を図ろうとする精神的な回避行動です。

この発想を持つ相手と組み続けることは、あなた自身の「リスク管理能力」を損なう要因になりかねません。

彼の中には「登れれば良い」「結果オーライ」というゴールがあるだけで、「どう安全に終わらせるか」というプロセス自体が、あなたの努力によってのみ維持されているという事実に、彼らは一生気づかない可能性がある、という冷徹な分析が必要かもしれません。

まぁ、25mが楽勝で泳げる人は、努力して泳げるようになるというプロセスがないわけですから、その途中で学ぶ、ローリング、もないし、ハイエルボーもないわけですよね…。延々と、プロペラ泳ぎを続けるわけで…。だから水泳においては水の原理への理解がない、クライミングにおいてはクライミング技術が身につかない、というのは当然の帰結なのかもしれません。