色々考えて、私の理想のクライミングは
知的なクライミング
だろうと。
私は、正直、命が惜しくてビビっているわけじゃないと思う…。人生を振り返って、私が取っているリスクを取れないでいる人は多い。海外でも、クライマーとそういう話になったが、定期的に安定収入が入るという安心を手放すことができない人は多い。大体、命知らずを誇示しているクライマーって、前の会のN安さんもだし、F屋会長もだし、公務員。つまり、
現在の日本社会で、もっとも人生上の安全安心に魂を売った人
もう、リスクなんてゼロなんである。クライミングに例えたら、トップロープもいいところだ。リスクゼロの代わりに、超退屈な仕事をしているとは思われるが。
現代の一流クライマーは、そのような選択肢は取らない。登攀においてのみならず、社会的にも、リスクテイカーな人が多い。
もちろん、リスクを取る、という1点だけがクライマーの価値ではないが、何のリスクをも、冒しておらず、冒険的な生き方すらしていない人が、登攀においてだけイケイケでは、リスクテイカー気取り、冒険家気取り、であるな、との印象は、免れまい。その人の本質は、リスクテイキングでも、冒険家でもないからだ。
■ 知と力
”取れるところで取らないプロテクションはバカっぽい…”
というのは、以前読んだ、『教科書にない登山術』にあった言葉だ。私が、向こう見ず礼賛の風潮に感じるのは、まさにそれ。
バカっぽい、つまり、知性が低いということだ。
”取れるときに” 取らないプロテクション…ということは、つまり、逆に言えば、取れないときもある、ということだ。取れないときに登攀力不足で、落ちてしまったら、それは大事故につながるわけで、
取れないときに、落ちる実力で登るクライミング
も、同様にバカっぽい。取れないのであれば、落ちるくらいなら、最初から登るべきでない。
同様にバカっぽいのは、
・敗退を考えないで行くクライミング
・プロテクションの能力を養成しないで行くクライミング
・十分な安全マージンを取らないで行くクライミング
だ。簡単に言えば、勝算の目途が立っていないクライミング ということで、簡単な言葉で言えば、
一か八か
であり、
ギャンブル
である。リスクに対する中毒症状というのが、そこにはある。リスクがあれば、そこには興奮があり、ホルモン、アドレナリンだか、なんだかの影響がある。その同じ刺激をより強い強度でどんどんと高めたくなってしまうという側面がクライミング、とくにアルパインの伝統には含まれる。
もちろん、楽しい!というホルモン刺激の時もあるのだが、多くの人は、アディクションと良い意味の楽しい!という、ヤル気回路を、なんとなくしか切り分けられていないだろう。
私にとっては、日本でそのような状態になったことはなく、ラオスでの登攀がそのような良い意味でのアディクションの端緒となったわけだが…。
どうやって、それを引き出すか?というと、やはり私にとっては
知性…つまり探求心
と言うこと以外ないだろうと思う。