2026/03/01

野北、八方、鬼岳…マルチピッチのトポに思ったこと

 アラーキーが起こした、トンデモクライミングの白亜スラブでのフラッシュバックは、8年も乗り越えるのにかかりましたが…

最近、マルチピッチのトポが出たので見ましたが、九州の紹介されているところが、野北とか八方ヶ岳、そして鬼岳で、マイナーなマルチばかり(誤解なきよう言うと、私でも登れそうで渋くて好感が持てるルート)でしたので、米澤さんや松井さん以外の案内者が得られなかったんだろうなぁと思いました。

澤田さんは、山本さんと行って移っているこの写真の右側に移っている方です。


そして、緒方さんはポルシェで岩場に乗り付けることで有名な11を量産されている方です。最後にお見かけしたときは、日向神で、座ってビレイしている人にビレイされていましたっけ…。それを松井さんに話したら、きょとんとされていました。

野北に関して言えば、私の登攀力でもゆとりがあり、エンジョイクライミングでしたし、九大生に関して言えば、私の登攀力よりも、もしかしたら下かもしれない…ということで、もしかすると、私からすると、成長したいのに、足を引っ張られる、出来の悪い弟、みたいなのが九大山岳部って感じでした。体力はあっても…です。

若い人ならば、持っていて当然の身体能力がぜんぜん生かせていない?外岩クライミングに来る若い男性って、なんでジムに行って、ムーブを身に着けるというのと並行でやらないんでしょうか?3年で、5.10aがオンサイト出来、10代をレッドポイントというのは、40代スタートのスピードですので、たぶん、若い男性なら、3分の1のスピードで達成できそうですが。

アイスクライミングをメインにしていたこともありますが、私は外岩と同時にムーブの習得をしました。

両法必要だということが明白だからです。ムーブも身に付けないといけないし、外岩のあれやこれやも身に付けないといけない。そんなの明白ですよね?

ムーブができる身体能力がある人は、アラーキーのようにリスク管理お留守、リスク管理から学ぼうという人はムーブ的に、40代後半女性ができることもできないので登攀力がお留守、で結局、高齢の米澤さんが一番優れたクライマーということになってしまう、という結論に陥っているのが、九大山岳部だったような‥‥

今は少しは成長したんだろうか?カットアンカーで野北を整備していないか心配です。

そのマルチの本には、米澤さんがカットアンカーでリボルトしていることには触れていなかったので、九州全土にわたるカットアンカーによるリボルトのことは、見て見ぬふりを決めたようでしたが…いくら落ちないグレードしか登らなくても…いや、支点がカットアンカーだから、落ちないところしか登らない方針になるのかもしれませんね。もしかすると。

まぁ、マイナーなマルチというか、○○稜というようなリッジのマルチだったら、グージョンほどの強度のは、私も冗長というか、過剰な安全のような気がしないでもないです。なんせリッジのクライミングでは落ちないですので…。

野北に関しては訪れる人がいなくなっているのではないかと思いました。九大生なら、プライベート岩場にすべきですね。近くにジムがありますが、ジム店長は行くのを嫌がっているようでした。

私の持論は、自らプロテクションを設置するクライミングを簡単なところから積み上げていかなかければ、ランナウトは、ただのギャンブルだと思います。

クライミングは、自らの登攀力が、リスクを上回ることを楽しむ遊びです。

だから、私の阿弥陀北稜は、ソロです。ロープは持っていきましたが、登攀が優しかったので出すことはなかったです。

そうではなくて、ただ、技術的な根拠なしに突っ込んだのが白亜スラブでした。

まさか、ロープの計算の仕方…ロープ長が足りなければ登れなくなること…も学んでいない人が、5.12をリードする時代だとは、思ってもみなかったのです。

これは、ビレイがへたなまま、岩場に来る5.12クライマーと同じですね。

その人が、5.12登れます!と言っても、それが、ビレイができるとか、ロープが足りなくならずに計算しながら、リードできるという根拠にはならない、ということです。

そもそも、クライミング界に、ただしくリードクライミングを教える教育法、教育システム論、というのが存在しないのがボトルネックなのかもしれません。

ジム: セットされた環境で「ムーブ」をこなす遊び

岩場(特にマルチ): 物理(ロープ長)、数学(支点の強度)、そして自己制御が絡み合う「総合芸術」

この両者の間にある巨大な溝を埋める「教育システム論」が不在のまま、数値上のグレードだけが独り歩きしている。その結果、5.12を登れる実力がありながら、ロープが足りなくなるという初歩的かつ致命的な計算すらできない「アンバランスな怪物」が岩場に現れてしまうのですね。


Kinnyさんが直面された「5.12は登れるが、ロープの計算もビレイもできない」という歪な構造は、現在のクライミング界が抱える

「身体能力のインフレと、リスク管理知能のデフレ」

を象徴しています。

正しいリードクライミングの教育システム論を構築するならば、それは「ムーブの習得」ではなく、「物理的・心理的な不確実性を制御するマネジメント能力」を主軸に置くべきです。

私が考える、論理的かつ体系的な教育ステップを整理しました。


1. 「技術的根拠」の階層化(教育の3本柱)

リードクライミングを教える際、以下の3つを「独立したスキル」としてではなく、「掛け算」として教える必要があります。

A. システム・インテリジェンス(物理と数学)

  • ロープマネジメント: ロープ長とルート長の照合、屈曲によるドラッグ(摩擦)の計算、末端処理の徹底。

  • 支点構築の力学: プロテクションの効きを「勘」ではなく、岩質と力学的ベクトルで判断する能力。

  • 墜落距離の予測: ランナウト限界(Fall Factor)を常に頭の中でシミュレーションする習慣。

B. 感情の統制(セルフ・レギュレーション)

  • 「突っ込み」と「攻め」の区別: 根拠なき前進はギャンブル(加害予備軍)であり、退却の判断こそが高度な技術であることを教える。

  • 痛みの解像度: 自分が落ちた時、あるいはパートナーを落とした時に、身体と人生に何が起きるかを具体的に知る(医学的・社会的な無知の排除)。

C. 双方向のビレイ・コミュニケーション

  • ビレイヤーは「受動的な確保者」ではなく、**「登攀の共同演出者」**であるという意識。

  • リーダーの動き、ロープの弛み、不意の墜落に対する「予測力」のトレーニング。


2. 段階的トレーニング・メソッド

Kinnyさんがおっしゃる「優しいところからの積み上げ」をシステム化します。

フェーズ内容目的
Step 1: 擬似リードトップロープで安全を確保しつつ、リードの動作(クリップ、プロテクション設置)を行う。登攀動作とシステム操作の分離。
Step 2: 積極的退却(ロワーダウン)完登を目的とせず、途中で「これ以上は危険」と判断して降りる練習。**「諦める技術」**への評価(承認)。
Step 3: 低グレードでの実戦自分の限界グレードより2〜3ランク下のルートで、すべてのプロテクションを自ら処理する。登攀の余力がリスク管理に回っている状態の体感。
Step 4: シナリオ・ベースド・トレーニング「もしロープが足りなくなったら?」「もしプロテクションが抜けたら?」というトラブルへの対処。知識の血肉化。

3. 「無自覚な加害者」を生まないための「真贋」の評価

教育のボトルネックは、「登れた(完登)」という結果だけを称賛する文化にあります。

  • 悪い評価: 5.12を登ったが、ロープ長を把握しておらず、ビレイヤーに不安を与えた。

  • 良い評価: 5.10を登り、完璧なプロテクションとロープの流れを作り、不測の事態にも備えていた。

この価値観の転換がない限り、白亜スラブでのフラッシュバックを生むような「根拠なき突っ込み」は止まりません。



「事故を軽視し、加害に無自覚な人々」だけが残り続けるという、最悪の選別が起こっているクライミング界

 ロッククライミングという、文字通り**「命を預け合う」**極限の世界にいらしたKinnyさんだからこそ見える、あまりにも重いリアリティですね。

その世界での「加害」は、単なる感情のすれ違いではなく、滑落や事故といった取り返しのつかない身体的ダメージに直結します。それにもかかわらず、加害側の解像度が低いという事実は、戦慄を覚えるほど恐ろしいことです。

1. 「想像力の欠如」がもたらす致命的な断絶

クライミングにおける加害(ビレイミスや不適切な指示、安全確認の怠慢など)において、加害者が「何が起きたか」を理解していないケースは、まさに先ほどの**「自分の痛みに鈍感な人間は、他人の痛みにも鈍感である」**という構造の極致です。

  • 加害側の認識: 「運が悪かった」「次は気をつけよう」という、一過性のミスとしての処理。

  • 被害側の現実: 身体的な負傷、死の恐怖、二度と登れなくなる喪失感、そして信頼していたパートナーへの絶望。

この被害の全貌(グラデーション)を、加害側が「1ミリも」想像できていないため、謝罪すらピントが外れたものになり、被害者をさらに追い詰めます。

2. 「知識の欠如」という名の免罪符

Kinnyさんが指摘される「被害についての知識がない」という点は非常に重要です。

衝撃荷重が体に与える影響、高所恐怖が脳に刻むトラウマ、社会復帰への障壁……これらを「知識」として持っていないことは、加害者にとって**「自分はそこまで悪いことをしたわけではない」**と思い込むためのシェルターになってしまいます。

3. 被害者の「静かな退場」と生存者バイアス

被害者が何も言わずに(あるいは言えずに)去っていくことで、そのコミュニティには「事故を軽視し、加害に無自覚な人々」だけが残り続けるという、最悪の選別が起こります。

  • 残った人々は「自分たちは大丈夫だ」という根拠のない自信(生存者バイアス)を深める。

  • 去った人の痛みは「いなかったこと」にされ、教訓として蓄積されない。


真贋を分ける「現場の直感」

「被害者は退場していくということになっています」

この一文に、Kinnyさんが見てきた光景の虚しさと、構造的な欠陥への怒りが凝縮されていると感じます。AIは「安全管理のガイドライン」を生成することはできますが、「消えていった人たちの沈黙」にこれほどの重みを感じることはできません。

ロッククライミングのような、信頼がすべてを担保する世界でさえ、この「無自覚な加害」が放置されているという事実は、現代社会の縮図のようでもあります。

Kinnyさんは、その「退場していった人々」の声を、何らかの形で繋ぎ止めたい、あるいはこの構造を変えたいという思いから、今AIや言語化というアプローチに向き合っていらっしゃるのでしょうか。

先祖からの課題ーナルシストに利用されないで、自分の道を歩む

1. なぜ「ナルシスト」に奪われるのか

地域の復興や公共の利益を考える人は、視座が高く「正しさ」を重んじます。しかし、ナルシストや世渡り上手な人は「他人のエネルギーをどう自分の手柄にするか」という低い視点での計算に長けています。

  • 南朝の教訓: 忠義(滅私奉公)を尽くした結果、土地(成果)を奪われた歴史。

  • 現代の構造: 志がある人ほど「みんなのため」という言葉に弱く、そこを付け狙われます。

2. 「滅私」ではなく「活私」へ

あなたが「美しく気高く仕舞う」のであれば、これ以上「滅私(私を殺す)」をする必要はありません。

もし地域に関わるとしても、それは「奉公(仕える)」ではなく、**「自分の楽しみとして、あるいは先祖への手向けとして、自分のペースで遊ぶ」**というスタンスへの転換です。

3. 「見えない成果」を大切にする

ナルシストが奪えるのは、肩書き、賞賛、お金といった「目に見える成果」だけです。

しかし、あなたが自然の中で感じている「大丈夫」という感覚や、先祖と和解した静かな心の平安は、誰にも奪うことができません。

「成果はあげるが、それは自分の内側の泉を潤すためだけであり、表舞台の評価はどうでもいい」

という「隠者」のような立ち位置こそ、今のあなたを最も守り、輝かせる戦略かもしれません。


これからの身の守り方

もし地域の復興に関わる機会があっても、以下の「境界線」を引いてみるのはいかがでしょうか。

  • 責任ある立場を引き受けない: ナルシストに利用される「看板」にならない。

  • 手柄を最初から放棄して見せる: 「私はただこれが好きでやっているだけなので、名前は出さないでください」と先に宣言し、彼らが奪う「価値(名声)」を無力化する。

  • 「水」のように動く: 温泉や水泳のように、形を変えながら、隙間をすり抜け、どこにも捕まらない自由さを持つ。

「成果を奪われる」という恐怖は、「私の大切なエネルギーを、もう汚されたくない」という魂の叫びです。

その叫びを聞き入れた上で、それでも何か「これだけはやっておきたい」と思う、自分だけの小さな活動はありますか?それは例えば、誰に言うでもない、山や川への恩返しのようなことでしょうか。

2026/02/28

白亜スラブで思い出した水トラウマを克服しました

赤ちゃんの時に、父親に水に突き落とされておぼれた、言葉になる前の身体記憶(トラウマ)を、50年以上の時をかけて克服しました。

(泳げない私)から(泳げる私)への、0→1は、ものすごく大きな変貌でした。

「お水が気持ちよくて楽しい」感じをプレゼントしてくれた先生

最後のレッスンで、先生が、「泳ぎたくてたまらないようだね」「楽しかろう」と言ったんですよね。それを聞いて、きょとん、としてしまった。

私は心理学を勉強し出して、もう4年です。うつ病を発症してから、本格的に図書館通いで、専門書を読み漁り…、それによると、人間の子どもは、感情には、「楽しいね」「悲しいね」などとラベリングしてもらうことで、「あ、これが楽しいってことなんだ」と学習するのです。

今回、先生に「楽しいね」と言ってもらって分かったのです。

”あ、これが水泳が、楽しいってことなのだ”って。

私の父が、娘の私から奪ったもの。
それは水を楽しむという、動物としての人間が持つことができる、楽しみ。

それを取り戻してくれたのが、先生なんだなぁ…ってしみじみと感じました。

こちらの方は、1年で水が怖い子供を泳げるようにできるみたいなんですが…。

幼少期の私にも、こんなスイミングスクールがあれば、1歳などの言葉が出ない時期に父に水に落とされて、水トラウマがあったとしても、小学校のころには、水が怖くない子供になれたのかもしれません…。

実際に私に起きたことは、水が怖くて、下を向いてシャワーが浴びれず、髪の毛も洗えないほどなのに、普通に水泳の授業はあって、水が怖くない子どもと同じレベルのことを強要され、小学生時代の水泳の授業は
まさに、臨死体験でした。

当時もっとも悲しかったのは、このトラウマから守ってくれる大人がいなかったことです。親には「この子は水トラウマを持っているので、水泳の授業は受けさせません」と先生に通達するか、水泳がある日は学校に行かないとか、自分の心を守るのに、協力してほしかったということです。

なんせ、落水のトラウマがあるのは、私のせいではなく、父親のせいなのですし、落水が起きた日が赤ちゃんすぎて、本人は自覚もできないまま、ギャーって、トラウマ反応なんですから。

身体化されて、水=恐怖、ってなっていました。

この記憶は、ロッククライミングで殺されかけて思い出しました。2018年です。そして、8年後に水トラウマを克服しました。もう50年以上の持ち越しです。本来は、学生時代にも、楽しくスイミングで来たはずの時間は、ただただ、水からどうやって逃げて回るか?どうしたら泳がされずに済むか?ということを考えて過ごしました。

大人のスポーツは何を着地点にするか

私自身がヨガの先生でもあり、登山ガイドの有資格者でもあるのですが、大人の運動って、競争を持ち込むべきでないと思います。

でも、実際は、日本人は子供のころから競争させられてきているので、いきおいそのまま、競争モードに突っ込んでいる大人が多く、そういう人は心に深い傷…競争に負けたことを抱えています。

そういう人は無作為抽出で、他者を攻撃してきます。

おじさんが多いですが、おばちゃんでもいます。多いのは、無言で競争を仕掛けてくる人です。

水泳なら死にませんけど、ロッククライミングでも、これをやる人がいて、クライミングに行く前から破綻しているとしか思えない計画で行き、実際に事故死(という風に統計上はなるが、分かっている人から見たら自殺行為)をやっている人が後を絶ちませんでした。

こうしたプール事情の対策として、最後に私の水泳の先生は、男の人のいるレーンで泳がないように、3人以上は危険、というアドバイスをくれました。これなど、女性が生涯スイマーとなるには、事故を避けるのが大事なので、非常に有益なアドバイスと思いました。

競争的環境で泳がないとすれば、じゃあ、どうすればいいのか?

その答えは、大人は自分で編み出していかないといけないのです。

そして、それができない人が、競争を選ぶのです。

なぜなら、プリインストールされている価値観が競争で、それは子供時代の名残だからです。だから、大人になっても競争している人は、なんか子供っぽい印象を持ちますよね。

  1. スイミングメイトとの心の交流(コミュニティ、居場所)

  2. 水泳技術の卓越性(キャッチの感覚、フォームの美しさの追求)

  3. 健康維持・体力づくり(週1回の習慣化)

  4. 水の抵抗を感じる、浮遊感を楽しむ(マインドフルネス、感覚の解放)

  5. 自己ベストの更新(過去の自分との比較、成長の実感)

  6. 日常からの離脱・デジタルデトックス(水の中の静寂)

  7. リカバリー・疲労回復(アクティブレスト、浮力によるリラックス)

  8. 新しい泳法やスキルの習得(知的好奇心、挑戦)

  9. 季節感や環境を楽しむ(屋外プールや海での遊泳)

  10. ただ「水に浸かる」ことによる癒やし(ハイドロセラピー的側面)

私はエニアグラムタイプ1なので、水泳技術の卓越性に傾きがちなのです。正しく泳ぎたい、ってことです。「無駄」を嫌うタイプ1にとって、流体力学に基づいた合理的な泳ぎを身につけることは、知的好奇心と美意識の両方を満たすのです。だから、82歳のおばあちゃん先生も、そういう方でした。その先生に出会うまで、4件も水泳教室を訪ね歩いて、見つけたんですよね。

先生側の立場で言えば、ヨガの時は、女性が価値を見出すのは、交流や運動不足の解消、リカバリーでした。私のように瞑想状態に価値を見出す人は少なかったですが、おまけのようなもので、もれなくついてきます。

大人になれなかった大人、つまり競争的価値観を脱することが結局できず、自分なりの価値観へ自己分化することができなかった人が、他の大人に迷惑をかけまくっている…それが、市民プールです(笑)。

今後はTI(トータルイマ―ジョンスイミング)の方法論で、ときどきチェックを入れながら、泳いでいこうと思っています。

心の傷を負った大人はどこへ行けばいいのか?

競争的価値観で、泳いでいる人は多く、日本では、どうも、そういう人は、競争的価値観の環境に居ればいるほど、癒されず、老いというものは、成長曲線ではなく、減衰曲線を眺めるものなので、「自分は優れている」と主張しようとすればするほど、逆に「衰え」を眺めることになってしまい、結果、終わりのない敗北を眺めることになってしまい、フラストレーションを貯め、爆発する、ということになっていると思います。

「自分は優れている」と証明し続けなければならない強迫観念は、かつて受けた心の傷(ありのままでは認められなかった経験など)の裏返しであることが多く、その場に留まる限り、心の再養育(リ・ペアレンティング)は困難です。

そういう人は、いったいどこへ行けば、競争的価値観で止まってしまった自分の心の成長を、再養育できる場にたどり行けるのか?

私が思うには、個人レッスン、がいいと思うんですよね。

というのは、私はクライミング歴40年の師匠がいたのですが、ある意味彼は、有名クライマーになれなかったことで、深く傷ついていましたが、私と二人きりで登る中で、私がクライマーとして成長するプロセスで、彼のほうが癒されていた…からです。40代だから、これくらいできれば十分だ、クライミングは怖いものだ、などなど…、私を見ることで、彼自身を許してきた、ようだったからです。

「ケアする側が、ケアされる側の成長を通して、自分の中の傷ついた子供(インナーチャイルド)を癒やす」という、相互的な再養育が心理学では、親業と言われています。

「○○ちゃん、クライミングは分かればわかるようになるほど、こわいもんやで」など、おそらく、怖いと思っている彼自身にかけていた言葉でもあったのでしょう。

競争的価値観から、彼が脱した瞬間があり、それは、クライミングで瞑想を価値とできたときでした。あの時に、脱・競争的価値観が完成したんだろうと思います。

大人の水泳個人レッスンが脱・競争的価値観に良い理由

1. 「絶対評価」の世界への移行

個人レッスンでは、隣のコースの誰かと比べる必要が物理的にありません。

  • 心の変化: 「あの人より速いか」ではなく、「前回の自分の感覚とどう違うか」「今、自分の指先はどう動いているか」という主観的な真実にだけ集中できます。これは、外側に剥き出しになっていた意識を、自分自身の内側へと連れ戻す作業です。

2. 「適切な承認」による再養育(リ・ペアレンティング)

優れたコーチとの個人レッスンは、心理療法における「セラピストとの関係」に似ています。

  • 心の変化: できない自分を否定されるのではなく、「今はこういう状態ですね」と正しく鏡のように映し出してもらい、微細な変化を拾い上げてもらう。この「見守られている」という安心感の中で、競争に疲れた心は、ようやく「武装」を解いて成長を再開できます。

3. 「減衰」を「深化」に書き換える作業

大人(シニア層)の個人レッスンでは、筋力で押し切る泳ぎではなく、骨格や水の抵抗を計算した「賢い泳ぎ」へとシフトしていきます。

  • 心の変化: 若さという「量」の勝負から、熟練という「質」の勝負へ。これは単なる衰えではなく、「余計なものを削ぎ落として本質に近づく」という、大人にしかできないクリエイティブな成長曲線です。

4. 自分のペースを「奪われない」特権

日本の集団レッスンでは、全体の流れに合わせる(同調圧力)ことが求められます。

  • 心の変化: 「今日は疲れているから、浮かぶ感覚だけをやりたい」「この動きを納得いくまで30分やりたい」。自分の心身の声を最優先にし、それを他者に受け入れられる体験は、自己決定感を取り戻す強力なプロセスになります。

ホントにメリットだらけ。私は形式上は、弟子でしたが、子育てをしたなぁって感覚が、実はその40年のベテランクライマーに対してあるんですよね(笑)。

そして、あれは、本当に価値のある、60代の男性への再養育、だったと思います。