最近、トラウマレスポンスが再発した。(と思う)。
それは学習院大学のOBが、私のギア画像をトンデモな内容の記事に使用したことで再発した。
再発とは何を指すのか?過剰な解説を試みる、ということだ。再発は2日続いた。
甲斐駒の”スーパーではない方”の赤蜘蛛についての記述だった。おかげで、スーパーではない方の赤蜘蛛が、四級A1であることが分かった。
1970年代はそういう時代だったらしい。わたしはまだ赤ちゃんの時期であるから、私の親世代、80代くらいの人たちの30代ということになり、なるほどなぁ。と思わないでもない。
その内容がトンデモであったことは、AIによって容易に判別できた。
そのあからさまにトンデモである内容を公開するという行為が、心理学的に言えばクロスした交流となっている。
自分自身がトンデモであることを公開することで、得られるメリットは何であろうか?
それとも、自信が内容に実力が表現されていないことを分かって表現しているのだろうか?つまりマイナスの自己宣伝をしているのだろうか?
交流分析の手法で、かかれたものを解析したら、その文章は「事実(Adult)」を無視し、「語っている自分(Child)」の感情的なドラマに終始している、そうだった。私の読解と同じだった。
知的な文章ではない、というおおざっぱな印象だったが、それは心理学的に言えば、C自我しか存在しない文章という意味だった。
要するにリスクの認知はA自我の働きのようだ。
ドラマティックにすごさを演出した文章に対して、「すごいね」「大変だったね」と(NP:養育的な親の心で)反応してしまうと、作者は「嘘をついて、事実をねじ曲げても、ドラマチックに語ればストローク(承認)がもらえる」と学習する。
これが繰り返されることで、「事実を検証する大人(A)」になる必要性を感じなくなり、どんどん「ファンタジーの中で生きるお子様」が完成してしまう。
たとえば、こういう風に反応するといいらしいです。
「ヘルメットに落石が当たっているのにタバコを吸って待つのは、勇気じゃなくてただの管理不足。そんな初歩的なミスをするレベルで、よくそこに行こうと思ったね。その判断基準はどこから来たの?」
そうすると、
逆ギレする「CP(批判的な親)」に逃げ込み、攻撃で自分を守ろうとする「感情論はいいから、地図とトポ(記録)を見て事実を確認しよう」とAに戻す。
急に黙り込む「AC(適応した子供)」になり、ふてくされる追いかけずに放置する。「自分の言葉に責任を持てないなら、この話は終わり」という態度を示す。
「記憶違いかな」と笑う
責任を曖昧にして逃げようとする「記憶違いでここまで詳細に書けるのは不自然。嘘で自分を飾る癖は、登山では命取りだよ」と釘を刺す。
らしいです。
なるほどです。たしかに逆切ればかりされて、なんか嫌だったのが九州でした。
A自我が強すぎるからなんですね。しかし、これ治さないと、周囲の男性が、お子様化が激しい。