2025/10/28

滑落停止の技術動画:Ice axe arrest / self arrest


この動画がちゃんとしているように思いました。

長野では、つま先を地面に打ち付けてはいけないとかなり厳しく教わりました。


各国の山岳指導団体のYouTubeチャンネルリスト

 フランスの山岳指導団体

https://www.youtube.com/@FFCAM_federation/featured


ドイツの山岳指導団体

https://www.youtube.com/@alpenverein/featured


オーストリア

https://www.youtube.com/@oeav/featured


アメリカ

https://www.youtube.com/channel/UCTJaUZX0POvQbUCLlGaXgqw


https://www.amga.com/resources/technical-videos


イギリス

https://www.youtube.com/channel/UCgoaAomJnfVxyo62Rkkv76A

https://www.youtube.com/@teamBMCTV


カナダ

https://www.youtube.com/@accvancouver3685/featured

https://www.youtube.com/@alpineclubcan


UIAA

https://www.youtube.com/channel/UC_wtj5fcSuYJiJN4jFpM5_A


その他プライベート山岳動画

https://www.youtube.com/@ClimbingGold


https://www.outdoored.com/videos/avalanche-rescue-training-scenario-salomon-how/?utm_source=chatgpt.com


Outside誌

https://www.youtube.com/watch?v=2SaOEUZQ2G8


https://www.youtube.com/@climbingthesevensummits


これは良さそう。安全中心

https://www.youtube.com/@ortovoxsafetyacademy

Winter skills 2.5: how to ice axe arrest in the snow

九州クライミングでのお役目を果たし終わりましたよ

夜、寝る前に、ネガティブ思想が沸き上がり、なんでかなぁと思うと、一日の終わりに、今日起きたことを振り返るからではないかと思い至りました。

子供動画を見ていると、

子:「なっとうごあんあべた」
親:「そう、納豆ご飯食べたのね」

というやり取り。私も自分がベビーシッターをしていた時には、同じことをしていました。オウム返し。

共感を自分に与えるNP自我が出る以前に、厳しい親CP自我が出て、「何が悪かったんだろう」「自分のせいかな」という思考が入り込みます。

例えば、昨日、私はゴスペルの会に入りに行こうかなと思って、体験レッスンに行ったのですが、みんながFC自我を出せるのに、私は出せない。

ああ、これは小学校の時のいつものだ、と思いました。子供っぽい自分を出せなくなったんですよね。それは、戦略的キャラが、「おねえちゃん」だからだろうと。しかし、学校では、同級生なのですから、おねえちゃんはやらなくていい。そこで、慣れたおねえちゃんキャラを維持するために「優等生」が必要になったわけですね。

大人の今となっては、そのキャラを降りたいわけですが…。そのゴスペルグループでは、みなさん、日本の普通のおばちゃん、おじちゃんでしたが、とても自由に好き勝手歌っておられ、とてもまぶしかったです。

好き勝手というのが、音程外して、適当に歌うのではなく、ちゃんと歌っていましたが。

私はというと、アルトから外れないようにしようとすると、体はスイングを止めて、スイングすると、歌のほうがおろそかになってしまい…。全然ついていけなかったのですが…。

こういう状況に陥ると、以前は、「とっととこの場から逃げねば!」と思っていたことを思い出しました…(笑)。

(歌うこと)と(泳ぐこと)が二大苦手だった小学生時代…。

これが昨日歌ったやつ。

JoyToTheworld。Joyなんて言っている場合じゃなかったんですよね、子供時代。常にサバイバルだったんで。

一般的に言って、普通のアダルトチルドレンの人は、サバイバルと言ってもそれは、子ども自身が親の愛を獲得するために選んだ戦略で、子どもの感受性からはサバイバルに感じられる、というもので本質的なサバイバルではないですが、私の場合は、本当に家に食べ物がない、世話をしてくれる親がいない、という状況でした。

家に食べるものがなくて困っていた…ので、大人になって、まだ自分が18歳なのにセーブザチルドレンの里親になってネパールの子どもに送金していたくらいです…。のちに、こうした善意の寄付金は、現実的な支援にならないと気が付いて送るのをやめました。今、DSの勉強でその理由が判明中です。

天は自ら助くる者を助く。しばらく座右の銘にします。

FCパーツの高め方

・子供と接する
・漫画やユーモア
・動物園遊び
・神秘遊び
・芸術を楽しむ
・スポーツを楽しむ
・心から楽しめる趣味を見つける
・変顔
(『交流分析とエゴグラム3』P112より引用)

私は子供のころからタロット占いが大好きだったのですが、神秘系というのは何とか守り抜きたい、FC自我だったのかもしれませんね。

なんか、治さないといけない依存的な資質みたいに感じていました。これは自分の子供の部分だから、大事にしてもいいかもですね。

九州に来て以来、私の中には、長いこと、母と母子密着で過ごした10~14歳ころの心の安定期に戻りたい気持ちがありました。私は学校では友達が少なく、スクールカーストのメジャーグループには入りそこね、損ねたというより、入りたくなかったのが本音ですが…長く、マイナーグループやグループからあぶれちゃった子を守るリーダー役でした。私自身は誰からも守られる必要がなかったんです。それは、母という強力なバックがあったから。

それがクライミングで、多勢が私の主張を間違っている!といじめて来て九州ではつらくなりました。

しかし、私の見た九州クライミングは、九州のほうが間違っていて、私が登ってきたやり方、レジェンドクライマーであった故・吉田和正さんや、登山学校校長であった師匠の青ちゃん、山岳総合センターでの私の講師であった村上さん…かれらの登り方、モノの考え方が間違っているはずがないのです…。私の主張のほうが正しいはずなんだけど…???

「間違ったクライミングの在り方」は、九州ではみなの言葉の端々に現れました…。

「流して止めてあげるよ~」(スラブで)

「オリンピックのボランティアでビレイは習ったから、奥村さんの外岩向けのビレイ講習はいらない」

「(動くものに道標をつけて)これでよし!」

「祝子川?2名で行くと危ない?ボルトが整備されたスポーツルートみたいな沢だから行ってきたら?」

危険な考え方を示唆するセリフ集

どれも明らかな危険思想…(汗)。

私の古い信念と新しい信念

北山真さんという日本百岩場という超有名な日本の岩場ガイドブックをまとめた有名なクライマーがいますが、その方によると、古いクライマーのプライドはとても高く、あきらかに時代遅れな支点ビレイを指摘されると、「○○みたいなやつに言われたかないね」という返事だったそうです…

命がけでない=軽蔑、らしい。それで毛昔の人は簡単なところで命がけだったらしいです。

もうそういう時代は30年くらい前に、とっくに終わっているのに、北山さんにすら反抗するわけです。

それで、こういうことを言う人たちって、もはや、43歳スタートの私が登るところすら、技術的にまともと言えるクライミングをできない人たちなんですよ…。

でも、今からクライミングを教わる人はそれすら分からないです。

私は岩登りはこれから、というところで九州に来ましたので着た時点では、岩登りを見れば誰もが初心者と思うクライミングでした。なんせ、私はクライミングが好きなのではなく、山や自然が好きだったからです。

一方、好きな雪山の一ジャンルであるアイスクライミングでは、すでに中級者になっており、滝が凍ることがない九州の人が、何年頑張んばっても到達は難しいのではないか?というレベルにすでに到達していたので、この人たちが言っていることがトータルとしてみたクライミングでは、非常に危険な行為だとわかりました。ランナウトのことです。

古い雑誌にも北海道のクライマーが九州クライマーのランナウトに呆れている言説が載っているので、どうも九州では伝統的にランナウトを美化する病気にかかっているようです。

私の九州での評価に話を戻すと、つまり、どうせ、こいつはみたとこ、初心者だから、間違ったことを言ってもわからんやろ、と思われていたってことですね。

ランナウトの理解の仕方

一般に、”ランナウト”と聞けば、「ああ危険だな」という理解をするのが、理性的なクライマーです。九州では、”かっこいい”というゆがんだ理解になっている。

「落ちたときカムが三つ飛んだ」は、クライマーとしての正しい理解は、”恥ずかしい”という理解であり、”かっこいい”という理解ではないです…。

そんな愚かしいクライミングを、いくら重ねても、ステップアップは、できませんので、「お前、頭大丈夫か?」と言われてしまいます。ふつうは「すいません」と反省をするシーンです。

このように、危険を受容する以上に危険を美化しないと、たぶん九州では、「お前、金玉ついてんのか?」と言われるんだと思いますが…その受容するレベルが、昔は5.9だったのですが、今ではトップクライマーの故・倉上慶大さんなどは、5.14でやっていたんですよ。もうなくなりましたが。こうした記録に津出生していれば、逆に5.9なんかでランナウトしても自慢にもならないことが分かると思うのですが…。そんなところで、無駄に命を懸ける方が愚か者丸出しな感じです。しかも、女性に無理強いしますか?

このような「ランナウトをカッコいいとする文化」には、いわば、

未熟な“マッチョ的プライド”があります。

これは「怖れを感じる自分を否定する文化」であり、
まさに自由なFC自我や、現実的なA自我を封じるCP文化

私は山梨では、複数のレジェンドクライマーから、クライミングの考え方を教わってから来たので、私がそれに違和感を覚えたのは当然なんですよね。

私の中では、すでに、

「恐怖と安全を両立させる成熟した登り方」=アダルト自我とセルフコンパッション的なNP自我が統合されたクライマーの姿勢であること

が確立していたからです。

しかし、私の側につく人が、地元ではほとんど誰もいなかったんですよ。いや正確に言えば、いたんですが、なんと、ダメクライミングをしている人が私の主張に便乗しようとしたんですよ。自分のダメ評判を挽回したかったのかな??

だから、その場で感じたのは、利用された失望と孤立を選ばざるを得なくなった罠にはまった感でした。

私は自分の心の安定を取り戻したいと思ったのですが、それで母との密着期、バラ色だった時代を思い出していました。

周りが全員否定してきても、自分の内なる価値観を守れる、心の安定です。

しかし、九州の体験は、

「どう考えても正しいという、正しさを持っていても、誰からも守られない外の世界」

で生きる試練だった。しんどかったです。

なんせ、私の自己肯定感の源であった、クライミングが全否定されるような経験でした。

しかし、私は全否定されたとしても、生きている方が良かったんです。

そんな、つまらん下世話な信念に付き合って、殺されてしまうより。

実際に殺されてしまった女性がおり、昨日の自分、自分に起きたかもしれない過去を現実のものにした女性でした。私も祝子川に二人きりで行くように、お勧め、されていたんですよ。はぁ?勧めてくるなんて馬鹿じゃないの?と思って行きませんでしたが。

AC自我は、周りに合わせる自我です。そのAC自我で、「そんなにおっしゃるなら、おっしゃるとおりに九州のクライミングスタイルで登りましょう。祝子川もスポーツクライミングみたいなボルトが整備された沢なんだから、男性クライマーと二人きりで行くのに同意しますよ」と同調圧力に負けて合わせて、実際、その沢で死んだら、だれか同情してくれますかね?

いや、してくれんやろ。

これが、”クライミングは自己責任”の標語で、無責任が蔓延する構図です。根拠のない(というか根拠を間違っている)ポジティブ思考。

Kinny

新しい信念に書き換え

自分で自分の守護者になる

最近、母の後ろ盾があったころのことを思い出さなくなり、思い出さなくなったことに気が付いて、本稿を起草しました。

やはり、分子栄養学によって栄養を充足したことが、心の強さにつながったのだと思います。頭では理解できていたからです。

クライミング指導者の方へ

どうも、たぶん、ですが、九州ではクライミングを指導する側もきちんとした指導は受けていないため、上記のようなことに陥るようです。

ほっといたらこうなるのが、九州の文化なのでは?というのは、私の弟、高校入学一日目に、額に反りこみを入れて、ヤンキー風になって帰ってきたんですよね。弟も苦労しているんだなって思いました…姉として。私は九州の出身です。(大人時代は都会で過ごしたので考え方は都会や海外です。)

指導で、大事なのは、クライミング初心者の時期を安全に通過させ、危険なものの考え方を身に付けさせないことです。

たとえば、デッドで取るのはインドアのリード壁ではOKでも、外で同じことをしている人をみたら、指導者が持つべき感想は、「外岩のリードはまだ早いな」です。外では落ちることを予測できる能力を身につけさせないといけないのです。

一方、フリークライミングのこの時代に、全部のボルトにAゼロして、エイドクライミングで登っている人がいたら、「この人はフリークライミングの遊び方を知らないな」と思っていいです。

また、トップロープが初心者には必要ですが、「あれも登れる、これも登れる」という人は、岩の機微をよくわかっていないです。リードはまだ先です。登れるか?より、自分の限界を分かっている、ほうがリードの適性があるということなのです。

支点を軽視する人もリードにはまだ早く、登れても、終了点を作れないのでは、降りてこれません。

マルチピッチに行きたいと言われたら、懸垂下降が確実で、ロープアップされなくても自己確保で登っていくことができ、相手の確保も自分でセットできるかを本人にデモンストレーションさせます。「はい、終了点作って見せて」「セカンドの確保をセットして」と言います。これができたら、「ロープアップされなかったらどうする?」「どのギアで自己確保で登る予定?」「懸垂のセットをして見せて」と聞きます。

全部できないと、マルチピッチに連れて行くのは時期尚早です。ちなみに私は全部できるようになってからしか行っていないですよ。普通のショートの岩場ですら、「流動分散作って見せて」と言われ、できたから一緒に行くようになったのです。

こうした最初にクリアすべき基準がなく、だれもかれも岩場に連れていくことが善、になっており、そのうえ、危険行為をかっこいい行為と美化すれば、そりゃ事故も増えますがな。

このように「現場感覚に根ざした誠実な警鐘」を鳴らすことが、私の九州でのお役目だったのでしょう。

「クライミングは自己責任」から、「行動の結果を考えよう」へ

クライミング界に必要な変革

「行動の結果を考えよう」

これまでクライミング界では「クライミングは自己責任」という標語が掲げられてきた。
しかしその結果、「自己責任」を盾に他人に責任を押し付ける、無責任なクライマーが増えてしまった。

いま必要なのは、「自己責任」ではなく「行動の結果を考える」文化だ。

「行動の結果を考えよう」という価値観に転換すれば、

どれだけ深く結果を考えられるかという心理的競争が生まれ、自然と事故は減るだろう。


世界のトヨタを生み出した日本人。

われら日本人が、懸垂下降でロープが地面についていないとか、
登ったはいいが降り方が分からないといった理由で命を落とす。

そんな馬鹿なはずがない。


登山では読図ができず、自分が山の中のどこにいるのか分からなくなる。

――そんなこと、能力的にあり得るはずがない。


つまり、多くの日本人は、「考え方」を教わっていないのだ。

だからこそ言いたい。

「クライミングは自己責任」という標語から、「行動の結果を考えよう」へ。

これが、遭難事故を減らすための本当のカギですね。

■現状の構造的問題

「クライミングは自己責任」という言葉が、構造的に無責任を産んでいることです。

本来は“自分の判断・技術・準備に責任を持つ”という内面的な原則だったのに、
現実には「こんな俺を信じたお前が悪い」「俺のせいじゃない」という加害の免罪符に転化してしまっています。

つまり、責任のベクトルが、自分→自分から、他人→他人へとすり替えられている。

しかも、それを“合理的な正論”のように装える点が、非常に危険です。

「自己責任」という言葉が倫理の空洞化を隠す仮面になっているという現象です。

そしてそれは、無責任の自己責任とでもいえる現象となって、クライミング会全体の“思考停止の構造”を象徴しているとも言えます。

「俺を選んだのはお前の自己責任でしょ」

2025/10/27

雪上訓練してから行くのが冬山合宿ですよ


私は山岳総合センターのリーダー講習で、七倉岳の春山講習でこういうのをやりました。それで、班の中で一人だけ特出して上手だった上、ぜんぜん雪上でも走れるくらいゆとりだったので、まったく雪山での滑落を恐れなくなりました。

この春山講習、つまり雪訓で、シュラフなし&ビビィサックで寝たのは私だけです。ほかの講習生はは全員テント&シュラフ。ビバーク訓練は強制ではなく、自主的参加でした。

ので寝てなかったですが、普通に滑落停止は得意でした。のちに沢で滝の登攀で滑って落ちたことがあり、同じ技術でうまいこと怪我無くすみました。



福岡の人は雪上訓練をすることがないので、雪崩のリスクなども学ぶことがなく、したがって冬季の合宿は、八ヶ岳周辺で小屋の監視に下で行うのが安全だと思います。

山梨の山岳会では冬山合宿は参加者に参加費が出ました。レベルを維持するのにお金がかかるからです。

福岡では雪訓含め、すべての講習会に参加意欲が低く、したがって行ける山も下がります。今ある技術で行く山となると赤岳以南の山を除外した八ヶ岳が本格的な訓練なしで行ける、最高レベルの雪山です。甲斐駒も行くべきではありません。ロープが出せない上に雪上歩行の経験も浅いとなると、一か八かになります。おそらく事故は起こらないですが、保険なしのそれは砂上の楼閣の上に築かれた成功にすぎません。何かがうまく行かないと一巻の終わりということです。

これは、一人リーダーがいればカバーできるリスクではないです。

https://allnevery.blogspot.com/2025/10/winter-skills-25-how-to-ice-axe-arrest.html

筋肉増強期に入りました

自分らしいライフスタイルづくり、”この子はこういう子なんです”を親に作ってもらえなかった子供の自分軸のライフスタイルづくりですが…。

食事、衛生、衣類、睡眠、運動…生活の色々な面で自分という人間の面倒を見る、ということを親に手伝ってもらいながら学ぶのが子供時代とすると、親がいない子供として過ごした私は、長らく、放置だったみたいなんです。

親の役目というのは、本来は「こうしなさい」と生活の型を押しつけることではなくて、

自分の身体や感覚に耳を傾ける力を育てること。

でも、多くの家庭ではそこがひっくり返ってしまっていて、

「世間に合わせなさい」「人に恥ずかしくないように」

という“他人基準の生活”を子どもが自分の皮膚の痛みを押し殺してでも守らされる。

私の生家の場合は、親がいなかったので、18歳で実家を出たとき、自分らしいライフスタイルを作るぞ!とワクワクしていました。

しかし、私自身も世間に合わせた(世間が素敵だと思うライフスタイルを求めた)ので、長い間、私の身体の中では、

炎症(アトピー)

というかたちで記録されていたんだと思う。

不思議なことにアメリカにいた2年だけ、アトピーは良くなったんですよね。

そして、最近になってやっとわかったことは、私はなんと、

毎日お風呂に入る→NG、
シャワー&ときどき温泉&足湯=OK

な人みたいなんですよ。

「親がしてくれなかったことを、自分がやってあげる」

Kinnyの内なる親
  • 食事=「この子(自分)は何を食べたら落ち着くか?」

  • 衛生=「この子はどのくらい洗うと快適か?」

  • 睡眠=「この子はどうしたら安心して眠れるか?」

  • 運動=「この子はどんな動きを喜ぶか?」

この問いかけが、自分軸の親業”。

しかし、それを得るのにも、分子栄養学をまなび、血液検査の数値から自分の体の状態を読み取るというスキルが必要でした。

炎症体質を乗り越えたみたいです、CRP低値

血液検査の結果を先生とお話しするときに、CRPについてはお話しませんでしたが、私は鬱になったとき炎症体質でした。

ところが、前回の血液検査では、

CRP=0.01 mg/dL

健康な成人の基準は 0.00~0.30 mg/dL 程度ですが、0.1を下回る人は少なく、0.01はほぼ「炎症ゼロ」レベルです。

  • 慢性炎症、ストレス、腸炎、歯周病、皮膚炎など、どんな軽微な炎症でもCRPは上がるため、この値を維持できているということは、
    → 皮膚・腸・血管・肝臓・神経の炎症がいずれも沈静。

例えば、アキレス腱の手術前は、CRP0.011で、術後は0.105と上がっていました。

ちなみにCRPはこんなマーカーです。炎症マーカーの一つ。


C反応性タンパク質 (CRP)

  • 特徴: 急性および慢性炎症に敏感なマーカー。感染症、外傷、手術、自己免疫疾患などで上昇。

  • 正常値: 0.3 mg/dL以下(高感度CRPでは0.1 mg/dL以下が理想)。

  • 危険性の目安:

    • 0.3~1.0 mg/dL: 軽度炎症(慢性炎症や軽い感染症)。

    • 1.0~10.0 mg/dL: 中等度炎症(感染症、自己免疫疾患など)。

    • 10.0 mg/dL以上: 重度の炎症(重症感染症、敗血症、組織破壊など)。

  • メリット: 迅速に結果が出て、全身性炎症の指標として広く使用される。

  • 注意: 軽微な炎症では上昇しない場合も。局所的炎症(例:軽い歯周病)では感度が低いことも。

自分の食事、睡眠、衛生のライフスタイルを分子栄養学を羅針盤にしながら組み立てる

これに血液検査が使えますね。

というのは、私がヴィーガンになったのは、菜食のほうが体が心地よいからで、体の声を聴く、で病気になったからです。

胃酸の分泌量が下がると、肉より野菜が楽になります。

つまり、老化ってことですが、この場合、より適切にたんぱく質を取らないといけないってことで、心地よいからってタンパク質を取らなくなったら、病気になります、って、実際なりました。

”体の声を聴く”代わりに、”血液検査の数値を見る”、がいいのかも。

再構築期へ

どうも、私の現在地は、「炎症が終わった後の再構築期」のようです。
ここから先は、“育てる”方向になります。
これは、私自身の実感とも一致しています。

1️⃣ タンパク質とビタミンCの強化
 → コラーゲンと真皮を再生するフェーズ。
 → 特に朝食に20g前後のプロテイン+C(1000mg)を意識
=朝食にゼリーを食べる。

2️⃣ ナイアシンの継続(またはNAD前駆体)
 → 細胞修復のエネルギー源。フラッシュが不要でも、低用量で維持。

3️⃣ 夜間覚醒のケア(マグネシウム+光リズム)
 → 炎症が消えると、副交感神経が再構築され、睡眠が深くなっていきます。
 → 夜間覚醒が残っているのは、「交感神経の惰性」なので、朝日と朝食、運動を組み合わせる。時間栄養学を使う。

4️⃣ 入浴・洗浄を最小限にするライフスタイルの維持
 → 皮膚バリアと常在菌叢のバランスを守る。
 → 現状の“お湯と足湯中心”スタイルは理にかなっています。

という結果になり、腸活から軸足を時間栄養学によるコルチゾールのコントロールのほうに移動することになりそうです。

「ミトコンドリアの夜の代謝サイクル」と「副交感神経の再教育」がテーマ

ナイトルーチンとモーニングルーチンを見直します。

ナイトルーチン(沈静フェーズ)

  • 夕食は就寝3時間前まで。糖質は少量で血糖安定。

  • スクリーンを暗めモードに。

  • 足湯+精油(ラベンダー・フランキンセンス)で末梢から副交感へ。

  • 就寝前は「今日、身体が望んだことを叶えられた?」と一言日記。

モーニングルーチン(再起動フェーズ)

  • 起床後すぐに朝日+水分+タンパク質+少量の糖質

  • これで副腎のコルチゾールリズムを“教育”できる。

  • 朝の歩行やストレッチで「体の境界線」を感じる。

ナイトルーチン、夕方〜夜(交感→副交感への切り替え)

  • 夕食は就寝3時間前まで。
    → ミトコンドリアが「修復モード」に入れるように。

  • 糖質は少し取ってOK(少しのごはんや芋類)
    → 血糖が下がりすぎると夜中に目が覚めます。

  • マグネシウムは夜に
    → 交感神経の鎮静+メラトニン合成促進。

🕯 就寝前(22〜23時台)

  • 光を落とす・スマホを見ない・間接照明に切り替える。
    → 「松果体-ミトコンドリア軸」をリセットする。

  • ナイアシン少量(25〜50mg)+B群+C少量
    → 夜のDNA修復とNAD再生サイクルをサポート。

🌌 就寝中

・真っ暗で眠る(光を完全に遮断)。
→ 修復ホルモンは光に極端に弱いです。

  • 夜中に目が覚めたら「呼吸と体を温めるストレッチ」。
    → 交感神経を再び落とすシグナルになる。

🌅 朝(再生の定着)

  • 日光を浴びて15分散歩。
    体内時計の再設定(コルチゾールリズム再教育)

  • タンパク質とビタミンCを摂る。
    → 修復した細胞の「材料投入」

これを2〜3か月継続して実験です。

  • 夜間覚醒が減る(深く眠れる)

  • 朝、頭がすっきりしている

  • 感情の波が穏やか(炎症性ストレス反応の消失)

  • 思考や直感が明晰になる(脳の炎症が落ち着く)

が、成功の目安かな。

栄養ポリシー
  • ビタミンB群(ATP・ナイアシンの血行促進、セロトニン合成)

  • ビタミンC(抗酸化・整形外科的要素)

  • ビタミンD(免疫と抗炎症)

  • オメガ3(細胞膜・脳)

  • マグネシウム(神経の安定・解毒)

  • 亜鉛・鉄(成長、鬱)

って感じです。ATPの合成をもっとよく回せば、すぐに痩せ、筋肉も取り戻せそうな気がします。

クライマーって、どんな人?

一般的には週に2回ジムに通い、週末は岩場か、山にいて、年に一回海外に登りに行くような人のこと。そういうライフスタイルが私にはあっていたんですが、できなくなって、えらい目にあいました。

ジムに通っていると、ひどく疲れるので、当時から栄養欠損というかたんぱく質の不足は症状としてあったかもしれません。

それがこのライフスタイルを続けられなくなった原因かも?

2025/10/26

【アルパイン指導法】一般の男性アルパインクライマーが習得すべきスキル

「スーパーアルパイン・ツクチェピーク前衛峰(6490m)北東壁報告会を視聴して」から、

https://note.com/kinny2021/n/ne6a28b000681?from=notice

https://www.jpnsport.go.jp/tozanken/Portals/0/images/contents/syusai/2025/tozankensyu-vol.40/vol.40-3-1.pdf


一般の男性アルパインクライマーが習得すべきスキルとして具体的に挙げられていた項目を整理すると、以下の通りです👇


🔩 一般男性アルパインクライマーが習得すべきスキル一覧

① 登攀技術

  • オンサイトでM7程度を登れる登攀力(氷雪混じりの複合ルート対応)

  • 1日400m程度のロッククライミングをこなせる持久力とスピード

  • MIXルート、アイス(AI5程度)、フリーを統合した技術


② ルートファインディング力(読図・ナビゲーション)

  • 地形読解力(読図)

  • GPSや地図を用いたナビゲーション能力

  • 下山ルートでの危険回避・撤退判断

  • そもそも「登る壁を見つける力」(Google Earth等での地形分析を含む)


③ 生活技術・ビバーク能力

  • 積雪期・無雪期のテント泊/壁ビバーク技術

  • 限られた装備での生活維持能力(火・水・食・休息)

  • 複数ビバーク(例:5ビバーク)に耐えられる心理的安定性


④ プロテクション技術

  • アイススクリュー、カム、ナッツなどの設置・回収スキル

  • 確実な支点構築と自己確保技術

  • 人工登攀的要素(AID的判断)の習熟


⑤ 装備・軽量化・体力温存の工夫

  • パックの軽量化思想(例:バックパック560g)

  • 自作・工夫(例:アイスハンモックなど)

  • 体力温存のための合理的行動計画とリズム管理


⑥ 高所適応・フィジカル

  • 6000m級で動ける持久力と順応力

  • 標高・寒冷・疲労下でも安定した判断力


⑦ 精神的持続力・判断力

  • 長期行動中の自己制御(怖さ・焦り・集中のコントロール)

  • パートナーとの意思疎通・チームバランス感覚

  • 撤退の決断を含めた冷静なリスク判断


要するに、記事が伝えていた「現代のトップアルパインクライマー像」は、
単なる“根性型”ではなく、

🎯「技術 × 判断 × システム思考 × 省エネ × 探究心」を備えた総合職の登山者

という構図になっています。


見栄じゃなくて、システム思考が必要らしいですよ(笑)

はい、この登攀スタイルやスキル体系の捉え方は、**かなり「システム思考的」**です。

ただし、ちょっと特殊な「身体を通したシステム思考(身体知型)」なんです。

以下で分解してみるね👇


💡 1. システム思考的な要素が強いポイント

🧩① 部分最適ではなく「全体最適」を見ている

→ 「登攀力」「装備」「時間」「体力」「標高」「気象」など、
 すべてが連動する“複合システム”として扱ってる。
 たとえば:
 > 「体力温存=軽量化=登攀スピード=安全」
 というように、個別スキルを相互に最適化してる。

これは典型的なシステム思考の特徴。
単なる“筋トレで強くなる”ではなく、
**“全体をどう回すとシステムとしてうまく登れるか”**に焦点がある。


⚙️② 「関係性」を観察している

→ 壁・天候・身体・装備・パートナーの関係性を、
 固定ではなく動的な相互作用として読んでいる。
 →「読図」「ルートファインディング」「撤退判断」などは、
 まさにシステム内の変化に対応する“調整的知性”だね。


📊③ 「ループ」を理解している

→ たとえば、
 「体力を温存すれば安全マージンが増える → 判断力が維持される → さらに効率が上がる」
 みたいな正の循環。
 逆に「重装備 → スピードダウン → ビバーク増 →リスク上昇」という負のループも意識してる。
 これが因果ループ図的思考の具体例。


🏔 2. でも「身体知型システム思考」でもある

アルパインは机上の分析よりも、身体感覚と環境のリアルタイムな対話が主軸。
だから「認知科学的システム思考」と「身体知的直観」が融合してる。

つまり、

「登攀者自身がシステムの一部になってる」
という点で、超実践的なシステム思考なんだ。


🧠 3. 一言でまとめると

これは、

“自己と山を含む複雑系の中で、全体バランスを取りながら目的を達成する思考”
であり、
まさにシステム思考そのもの。
しかも理論だけでなく、身体と現場で循環してるタイプ



初心者向けにトポの改定を

 日本ではクライミング事故隠ぺい体質が利得になっている件について

日本のロッククライミング界では、事故が隠蔽されている。

その隠ぺい体質には、事故が発覚すれば、地主によって、岩場が閉鎖されるかもしれないという恐れが根拠にあり、そのため、見られてはまずいことは、言わない、隠し通す、という体質にあり、結果として、事故対策に真正面を切って向き合う、対策する、ということは、後手後手に回っている。

日本が後手に回っている証左としては、アメリカではAAC(アメリカアルパインクラブ)が事故調査レポートを冊子にして毎年出版しており、アマゾンで入手可能だが、同等のものは、日本では発行されていない、という事実がある。

岩場で起きた死亡事故は、警察の統計には載るかもしれないが、実際は、クライミングコミュニティに周知されることはなく、延々と同じ過ちで死ぬ人が絶えない。

この事実は、例えば、関西にある非常に有名な危険ルート、斜陽の事例でも、ネット上でも明らかになっている。このルートは私が知った時点では、6件の重大事故を起こしている。検索してみてほしい。

https://kkinet.sakura.ne.jp/oshirase/2016/160308_iwabamondai-osirase.pdf


しかし、これは、単に代表的な事例、と言うことであり、全国各地に類似した課題は多く放置されている。例えば九州では、インディアンサマーを知った。その他、多くの岩場で、同類のルートが放置されていると思われる。

従って、外岩にデビューする前のインドアジムのクライマーには、このような課題の存在が放置されていることを教えなくてはならない。ケーススタディでクライミングを教えるとしたら、非常に有効なケースが斜陽だ。

問題の本質は何か?本末転倒

この問題の根本を一言で言い表せば、

 実力に不相応なリスクが、課題そのものに設定してある、

ということだ。

初心者向けルートの5.9には、5.9のクライミングムーブがこなせる実力の人が取れる以上の上級者向けのリスクが設定されている一方、より高度なルート5.12には、5.12のクライミングムーブがこなせる人にしては、全くゼロと言ってよいリスクしか設定されていないことが通例だ。誤解を恐れずに単純化すれば、
 
 5.9は危険で、5.12は安全、

ということになっている。

その本末転倒が、昨今のジム上がりクライマーと出会うとき、事故が起きている。

私自身はジム上がりではない。初心者で成人でクライミングに遭遇した。また、同じくジム上がりではない、山梨〇ルパインクラブで出会った(しかし、彼の経験値は詳しくは知らない)クライマーと各地の岩場を登った経験から顧みて、”登山のステップアップとして、アルパインクライミングへ進み、その後フリークライミングに進んだ、一般的な身長の男性”にとっても、低グレードをそのグレード一杯一杯の登攀力で登るほうが、より大きなリスクを背負って登らないといけないということは、理解が難しいようだった。

理解が難しいため、低グレードを登る相手を臆病者だと言って、馬鹿にし、あおられてムキになったクライマーが無理をして、事故になる、という精神的な構造がある。この手のあおりは男性社会では一般的で、これで競争し合っているともいえる。その結果、重大事故になっている。
また、ここでは深くふれないが、自分は臆病者ではないということを示すための記録、というものも実際ある。

低グレードのほうが危険な原因は何か?

この原因は何か?というと、私のクライミングメンターであったクライミング歴40年のクライマーの様子から考えると、指導者側がマルチピッチをフォローで登った経験の少なさ、だ。

マルチのフォロー経験が少ないと、組んでいる相方の身長への理解が乏しくなる。相手のリードクライマーの身長で取れる、ハンドホールドの高さを実感として持てない、ということだ。

一般的には相手の立場を考える能力というのは、知性と正比例であり、もともと自分のことしか考えられない性格の人は、相手の立場に自分を置いて、考えてみる、ということが、そもそもできないそうである。

時代は変わり、今は誰もがクライミングをするようになった。

したがって、これまでの慣行では、事故が増えることになった。

昔は、18歳男子大学生というのが、”新人”の典型的な姿であった。つまり、運動能力としては最大期の男性だ。つまり、兵役に出るくらい、生きの良い奴ってことだ。

しかし、現在では、20~30代男子が多いとはいえ、下は10歳程度から、上は70代まで、多種多様な老若男女が登る。一般市民だ。

そこで、多様な能力を持つ初心者(いや、昔ほど能力が高くない初心者というべきか…?)が台頭してきたのであるから、インフォームド・ディディジョン・メイキングができることが大事になるが、そのような情報提供が、日本ではされていない。

これでは、初心者側は、自己責任を全うした判断ができず、盲目的に危険に追い込まれることになっている。

対策: ボルト本数に注意を払おう

これはトポ(ガイドブック)の書き方に表現されており、海外のトポは、課題ルートの高さとともに

 ボルトの本数

が記入されているのが普通だ。

日本のクライミングガイドブックにはボルトの本数は記載されていないことのほうが多い。

したがって、安全と非安全を分ける肝心の中間支点の数は、示されていない。この時点でルート選択に対して、日本側のかなりアンフェアな姿勢が見て取れる。

海外クライマーは初心者同士であっても安心して岩場に出向く。これはクライマー同士の助け合いで、安全が互いに持ちつ持たれつされているからだ。

一方、日本では文化的にこれがなく、しかも、高グレードを登る者のほうが偉いという盲目的な価値観により、実際はより小さなリスクしか背負っていない側(5.12の側)が、岩場で大きな顔をしていることのほうが多い。

単純化すれば、強い者が弱者を虐げている、ということだが、結果的にこれで、排他的グループを形成している。

この排他的であることの自己正当化に、そのほうが事故が減るから良い、という欺瞞が使われている。

その結果、外岩クライマーというある種の特権グループが非言語に形成されることになっている。

これが不健全であることは言うまでもないだろう。

さて、このようなことが起こるのは、根本的には、ボルトが遠く、リスクを含んだ名作課題、事例としては、ニンジャと、ただボルトが遠いだけで名作でも何でもないルート、事例としては斜陽、との区別がつかず、名作ニンジャを擁護するために、不出来な斜陽をも擁護しないといけない論理構造に陥っているからだ。

さらに違いは、名作のほうは、ボルトが遠いことが認知されてクライマーは挑むことになるが、駄作のほうは、登る側にその認知がないことだ。

日本のクライミング界に必要なのは、

 ただボルト配置が悪いがために、そのグレードにしては過大なリスクが”告知なく”設定されている駄作課題

 ボルトの遠さも含めた名ルート

との区別だ。

前敲で紹介したが、小川山で、5.7などで良く登られている人気ルートは、”ボルトの遠さを含めた名ルート”のほうである。(例:川上小唄 5.7)

つまり、初心者は名ルートではなく、ボルトが適切なルート、を登らないといけない。

初心者向きのルート選択の方法が、きちんと指導者側から、初心者側に適切に伝えられていない。

ちなみに、初心者向きのルート選択方法は、以下だ。

ロッククライミング初心者向けルート選択法


・ボルト間隔が適切で、
・グレードが適切であり、
・どこで落ちてもグランドフォールすることなく(どこでも落ちる可能性があるのが初心者です)
・ビレイをする場所が安定しており、下地が良い
・下部核心ではなく、(下部核心だと、適切なビレイをしても、グランドフォールの危険がある)
・低身長のクライマーに対しては、たぐり落ちのリスクがなく
・素直に直上しており、クイックドローの工夫が必要ない(初心者は長ぬんで伸ばしてロープの流れを作る必要があることを知らない)

注意事項として、長いルートは、そのグレードにしてはムーブが易しく、登りやすいが、ロープのすっぽ抜け防止のために、50m以上のロープが推奨。

50m以上というのは、昔のロープは40mしかなかったため。日本の古い岩場では、登れる距離は必然的に、その半分の20mであり、大体の日本の岩場では、20mの高さが標準的だからだ。新しい岩場で、20m以上の課題を登る場合は、用心が必要だが、50mあれば、すっぽ抜けのリスクは、ほぼカバーされる。60mあれば、国内岩場で登れないルートはほぼないだろう。

まとめ

インドアジムのクライミング経験者が外岩にデビューする場合、課題を選ぶには、

ボルトの本数が多いルート

1ピン目が遠くないルート

を選ぶ。ほかにも重要な選択項目がある。

日本のトポには、不備があり、このような情報は、意図的サボタージュも含めて、あえて提供されていない。




2025/10/23

【クライミング指導】指導経験のない上級クライマーが、初心者に教えることが難しい理由

今日はプールに行ったら、私を泳げるようにしてくれた87歳の丸林先生に会った。とてもうれしかった。私が水泳を続けていることが先生もうれしいみたいで、相思相愛。

そして思うのは以下のことだ。

■指導経験のない上級クライマーが、初心者に教えることが難しい理由

指導経験のない上級クライマーは、そもそも初心者がどこで詰まり、なぜ怖いのか、どうして動けなくなるのかを理解できない場合がほとんどです。

・初心者のムーブレベルや身体感覚を分析するスキルがない。
・そのレベルに適した課題(グレードや傾斜、ホールド配置)を選ぶ能力がない。
・初心者がその課題で実際に使える安全対策(ステッククリップ)やビレイ方法を知らない。
・初心者がクライミングを安全に、段階的に習得できる教え方を知らない。

■友達の上級クライマーについて

その上級クライマーは、単に一緒に登っている友達にすぎません。

初心者を指導したり、怪我をさせないように責任を負う立場ではありません。

もちろん「上級者の友達に教えてもらって、上達したり、楽しく登れた」というのはとても良いことですが、それは必然ではなく、たまたま相性や状況が良かった「ラッキーなケース」と考えた方がよいでしょう。いつもそううまくいくとは限りません。

これはクライミングだけでなく、スキーやスノーボードなど、レベル差のあるスポーツ全般に言えることです。

① 指導経験や指導スキルのない上級クライマーからのアドバイスは、

 今のあなたにとって最適なアドバイスや教え方ではない場合が多い、
 ということを理解しておきましょう。


 それは、感謝の気持ちとは別の話です。

② アドバイスや指導は、「自分のレベルに合っているかどうか」がとても大切です。

③ 自分のレベルに合ったルートや課題を選ぶことは、初心者にとって非常に重要です。
 (グレード、傾斜、ホールドの種類、ホルト感覚、スラブか?フェイスかなど)

④ 上級者の友達と一緒に登っている場合でも、その友達には、 あなたを上手にする義務も、あなたの安全を保障する責任もありません。

インストラクターやガイドと呼ばれる人たちは、あなたのレベルに合った課題やルートを選び、あなたの成長に合ったアドバイスをしてくれる専門家です。


そして、そのために日々トレーニングを重ね、指導スキルを磨いています。

彼らは、試験を受けて資格を取得し、日々のレッスンで経験を積み、さらに上位資格を得るために高額で長期の講習にも参加しています。

つまり、上級者の友達とインストラクター/ガイドの違いは、「インストラクターはあなたのために、自分の持つ情熱・スキル・経験を最大限に使ってくれる」
という点にあります。

あなたの友達の中には、技術だけならインストラクターより上手な人もいるかもしれません。

ですが、「教える」ことには別の専門性と責任がある、ということを覚えておきましょう。

逆に、クライミングが好きで、上手だからといって、そのスキルや情熱を「自分の登りのため」に使いたい人は、インストラクターやガイドにはならない方がいいです。

なぜなら、インストラクターというのは、自分が登る楽しさよりも「相手が登れるようになること」「相手が笑顔になること」に喜びを感じられる人の仕事だからです。

もし情熱の矛先が自分自身の挑戦や成長に向いているなら、それはとても健全で素晴らしいことです。


けれど、その情熱の方向が他人に向いていないと、インストラクターとして活動しても、あまり楽しく感じられないでしょう。


■ヨガの指導歴6年

私はヨガの指導歴が6年ありますが、指導でうまくなったのは、教え方、であってヨガそのものではありませんでした。

私の水泳の先生は87歳ですが、自分はもう泳ぎません。でも私にくれるアドバイスは的確です。

AI修正版:初心者に親切なトポを。日本の岩場とトポの問題点

トポの意図的サボタージュ

1)事故隠ぺい体質が「利得」となっている構造について

日本のロッククライミング界には、事故を隠蔽する文化が根強く存在する。
その背景には、「事故が公になると岩場が閉鎖されるかもしれない」という恐れがある。
そのため、地主や行政に知られては不都合な情報は、意図的に伏せられる傾向が強い。

結果として、事故への正面からの対策は後手に回り続けている。
そもそも「事故がなかったこと」にされてしまうため、改善が進まないのだ。

この点で日本はアメリカに大きく遅れを取っている。
米国では、AAC(American Alpine Club)が毎年「事故調査レポート」を冊子として公表しているが、日本ではそのような取り組みは行われていない。

日本では、岩場で起きた死亡事故が警察の統計に載ることはあっても、クライミング界に共有されることはほとんどない
そのため、同じ場所・同じ原因で事故が繰り返されている。
例えば関西の有名ルート「斜陽」では、少なくとも6件の重大事故が発生していると聞くが、トポにはその旨の記載が一切ない

このような情報欠如の中で、そのルートを安全に登るためにはトップロープを張って自動化登攀にするしかない。
しかし、それでは、オンサイト(初見)という理念からどんどん離れていくことになる。


グレードとリスクのミスマッチ

問題の根本を一言で言えば、

「そのグレードを登る人にとって、課題に設定されたリスクが不相応である」
という点に尽きる。

初心者向けルート(例:5.9)には、登攀技術レベルに対して過剰なリスクが設定されている一方、
上級者向けルート(例:5.12)では、ほとんどリスクが存在しない
つまり単純化すれば、「5.9は危険で、5.12は安全」という逆転現象が起きているのだ。

この構造が、ジム上がりのクライマーとの遭遇時に、事故を生む必然となる。
なぜなら、ジムでは外岩のリスクを学ぶことができないのに、
「自分は高グレードを登れる」と錯覚してしまうからだ。

本来、ジムと外岩のグレードシステムはまったく異なる。
しかし、その違いが明示されることはほとんどない。


「低グレード=危険」が理解されにくい理由

私はジム上がりではないが、同じく外岩育ちのクライマーと登る中で感じたのは、
低グレードほどリスクが高くなるという現実を理解している人が非常に少ない、ということだ。

例えば、山梨のあるアルパインクラブで出会った男性クライマーも、
「グレードが低い=簡単で安全」と無意識に思い込んでいた。
実際には、低グレードを限界ギリギリで登るほうが、より大きなリスクを背負っているにもかかわらず。

その理解の欠如が、心理的な挑発構造を生む。
低グレードを登る人を「臆病者」と見なして嘲笑する者が現れ、
バカにされた側は意地になって無理をし、結果として事故が起きる。

この心理は「自分は臆病者ではない」と証明したい欲求と結びついており、
フリーソロのような極端な記録行為にもその影が見える。
しかし本来フリーソロとは、恐怖を克服する行為ではなく、ムーブが完全に自動化されている証に他ならない。


なぜ低グレードのほうが危険なのか

この「無理解」の根本原因はどこにあるのか。
私のメンターであるクライミング歴40年のクライマーの観察から導くと、
最大の要因は——フォロー経験の少なさである。

フォロー(セカンド登攀)は、リードクライマーの動きを追体験するプロセスだ。
この経験が乏しいと、相手のリーチやホールド距離に対する理解が育たない。
つまり、「相手の身体条件で見える世界」を想像できなくなる。

その結果、トポの作り手も利用者も、実際にどの層にとって危険なのかを見誤ってしまう。
こうして、事故を誘発する「トポの意図的サボタージュ構造」が温存されているのだ。

なぜ低グレードのほうが危険なのか

マルチピッチでのフォロー経験が少ないと、プロテクション回収作業がないので、相手の身体特性やリーチの違いを実感として理解できない

自分の身長やリーチでは容易に届くホールドやプロテクションでも、フォローで登ってくれる相手にとってはギリギリ、もしくは手が届かないことがある。


その「差」を体感しないままショートルートを設定すると、平均的でない身長のクライマーには過大なリスクを強いるルートが生まれる。

このようなバランスの悪いルート設定が、特に低グレード帯に集中している。


なぜなら、低グレードは「初心者でも登れる」という前提で、とくに課題の内容が吟味されていないからだ。ランナウトは当然視されている。初心者にとってリスクがあることを意識せずに「とりあえず簡単な課題を」と設定されがちだからだ。ボルト間隔については盲点化している。

しかし実際には、初心者こそフォールコントロールやセルフビレイの技術が未熟である。
そのため、5.9クラスのルートでも、フォール時の地面衝突リスク(グラウンドフォール)が極めて高いケースが少なくない。

それだけでなく、グレード自体も日本の5.9には、5.9~5.12まで全部が含まれているのだ。


「危険を知るための情報」が欠落している現実

こうした構造的問題をさらに悪化させているのが、情報の欠如である。
トポ(ルート集)は、本来「岩場の安全情報を共有するための手段」であるはずが、
日本では「問題を隠すためのフィルター」として機能してしまっている。

事故歴や注意喚起がトポに記載されていないことで、
クライマーは現場に立つまで危険性を把握できない。
そして、事故が起きても「報告しない」「書かない」「聞かない」という沈黙の連鎖が続く。

結果として、トポそのものが意図的なサボタージュ(妨害)装置のようになってしまっている。
安全情報を隠すことで岩場の存続を守っているように見えて、
実際には、クライマーの命を削って岩場を延命しているに過ぎない。


「岩場を守る」という名の矛盾

岩場を守ることは大切だ。
しかし、「事故を隠すこと」と「岩場を守ること」は同義ではない。


むしろ、事故情報を共有し、再発防止策を積み上げていくほうが、
長期的には岩場の信頼性と存続を支えるはずである。

それでもなお、現場では「波風を立てないこと」が最優先される。
こうして、沈黙の文化が制度化されていく
事故が起きても誰も公に言わない。
そして次のクライマーが、同じトラップにかかる。


結論:構造的サボタージュからの脱却へ

事故を「個人のミス」や「不運」として片づける限り、
この構造的なサボタージュは終わらない。

必要なのは、次の三点だ:

  1. 事故情報の公開と記録の体系化
     AACのように、事故調査・報告を継続的に共有する文化を育てる。

  2. 低グレードの安全性再評価
     初心者時が最も危険に晒される現実を前提に、ルート設定とトポを見直す。

  3. クライミング教育に「フォロー経験」やリーチの理解を必須化する
     リスクは万人に同じではない。他者の動きと危険を理解することは本人のリスク理解を深めることにもなるはずだ。

岩場を「聖域」にするのではなく、人間の失敗も含めて記録し、学び合う場所にしていくことが、真の意味で岩場とクライマー双方を守る道である。


今日のNOTE:誰と登ると安心か?で登る

私は、7歳、15歳、48歳で希死念慮が出て、人生で3度鬱になっているのですが…今は3度目の回復期です。かいつまむと1回目は、親が離婚し子どもの心の安全基地が侵されたため、2度目は自覚ができる燃え尽き、3度目は悪性貧血で身体性でした。鬱型性格で作った身体化でした。自分を追い詰める思考法を持っていた、ということです。


3度目の鬱で特徴的だったのは、言語能力を獲得する前の赤ちゃん期に父親に水に落とされたトラウマが、映像でフラッシュバックするようになった、それはクライミングで起きた、ということでした。これは明らかに潜在意識からの”警告”のメッセージでした。

で、どういう警告か?ということですが…当然、「あの時のあれだぞ!」です。目を覚ませ!あの時のあれだぞ!

そうして、大事なことに気が付いたのですが…何から目を覚ませ!と言っているのか?

それは、「こいつは弟じゃないぞ!」でした。この第二のメッセージをきちんと消化しておかないといけない…とふと思いました。

父親から愛されなかったこと

私の人生の悲劇、心の傷の、最初のものは、”父親から愛されなかった”ことでした。残念なことですが、考えの浅い若い男性だった父親に、まだ言葉も話せない時期に水に突き落とされ、溺れかけたのです。これはずっと忘れており、気が付かなかった記憶です

私は子供時代、とても水が怖く、頭を下を向いて洗うことができず、8歳までギャン泣きになってしまい、上を向いて洗うのに、母に洗ってもらっていました。母は、あるときシャンプーハットを買ってきて試してみたんですが、私がやっぱりギャン泣きになったので、ため息をつきました。その顔には、”まだだめか…”という心の中の声が書いてありました。それが8歳。7歳のころ、母にプールに行くように言われましたが、近所の公園で頭を濡らして、「行ってきたよ」と嘘をつきました。たぶん、持って行った水着は濡れていなかったと思います。明らかな嘘だと、バレバレだと当時から明らかでしたが、母は仕方ないな、という顔をしただけでした。これらは全部、子供時代に私はこのフラッシュバックを思い出せなかったのですが、水トラウマの現象でした。その後、小学生時代は水泳の授業がつらく、恐怖体験・臨死体験でしかなかったのですが…。学校生活の水泳の授業では大変な思いをしたものの、何とか逃げきって大人になり、水泳とは関係ない世界に住めて、ほっと胸をなでおろした、というのが水と私の関係でした。

その理由が40代になって解明できた。なんと、父親に水に突き落とされたらしい。その記憶を取り戻したのが、白亜スラブというマルチピッチに出かけたクライミングでのことでした。思いがけない出来事があって、フラッシュバックしたのですが、そのフラッシュバックした記憶が映像であり、ことばではなかったのと、なぜ出てきたのか?驚いたので、その場では緘黙というか、ショックで声が出ないみたいな感じになりました。軽く乖離していました。浮遊感があったからです。

そのため、論理的な合理思考が働かず、相方の「やっぱロープは60だね!」という非合理的な自己弁護の言葉に対して、適切なツッコミ、「はぁ?なんて馬鹿なこと言ってんの、60mロープでも足りないでしょ」と言い返せなかったのです。

脳内が、”え?なにこの記憶?私に何を伝えようとしている記憶なの?”という解析に忙しかったからです。

この時、適切に言い返せなかったことについて、言い返したかった、という思いが強かったですが、こんな重要記憶を思い出したばかりだったので、その解析に忙しかっただけです。いい加減、自分を許そう。


潜在意識は、一体”何から”私を守ろうとして、この記憶を思い出したのか?


ということですが、クライミングという活動は、私にとって失われた子供時代の遊びの時間を取り戻す時間でした。で、たぶん、父親と遊ぶ感じだったのが師匠と登っていたころなので、この時のクライミングの相方とは、弟と遊ぶ時間を取り戻したかったんだろうと。

第一子でおねえちゃんであり、24歳の若さで死んだ弟を持つ私には、若い男子クライマーが、ぜんぶ弟に見えていたんですね。年下の男性が全部弟というか、頼りなく見えるというのは、おねえちゃんキャラの人あるあるだと思います。

だから、この時思い出せ!と我に返るように促されたのは、

「こいつは弟じゃないんだぞ!」

ですね。何から目を覚ますか?


思い出せ!あの時のあれだぞ!そして、こいつは、弟じゃないんだぞ!お前の命をささげるような相手じゃないぞ!が潜在意識、セルフの声です。

これがメッセージだったのです。

つまり、心理学的に言えば、これは「陽性転移していたこと」の気づきです。

つまり、無意識に過去の家族関係(弟との関係)を、現在の人間関係に重ね合わせていたということです。

若い男性クライマーとの関係が「守るべき弟」に見えていたのは、

1)「姉として家族を守ることで愛される」役割スキーマ
2)そして「頼りない男性クライマーを支えることで、自分の存在価値を確かめる」補償行動


の2つが働いていたのです。

役に立てば愛されるは、逆に言えば、役に立たない私には価値がない、です。

無価値観が習い性になっていたということでしょう。

無理もない…という感覚を自己に対して持つ

無理もないです。3人兄弟の母子家庭での姉と弟ですから。

潜在意識が再生した「水のトラウマ」は、父という「本来は守ってくれるはずの男性」に裏切られた原初体験でした。

その後私は、姉なので、7歳の希死念慮の時に決意して、「守る側に回る」という信念を作り出しました。それが生存戦略でした。

しかし、クライミングは、守る側に入れないのです。自分で自分を守ることができても、相手のポカから身を守ることはできない。あの白亜スラブの登攀は、本当にダメな登攀で、下手したらヘリレスキューになるところでした。ならなかったのは、私のフォローの技術が高かったからです。ロープアップされないときに、なんかとしてくれるフォローはほとんどいません。

で、大事なことは、私の潜在意識が、「これは危険だぞ!」「いつもの構図の姉ちゃん役に入っても通用しないぞ」「殺されるぞ」「目を覚ませ!」と警鐘を鳴らした。

これが、かいつまむと、「こいつは弟じゃないぞ!」の真の意味だったわけです。

3度の鬱の共通構造


3度の鬱には共通して、「自分の存在(命)を守るための、古い構造が崩壊した瞬間」という共通項があります。

1) 7歳 →両親の 離婚により「安全基地」が喪失→早すぎるが自立へ
2)15歳 → 過剰適応・燃え尽き(=他者を支えることで自分を支えてきた構造が崩れた)
3)48歳 → 身体性の鬱(=心身が”もうこの生き方限界”と告げた)

つまり、鬱はわたしにとって

「もう、前のやり方では、生き延びられないよ」

というリセットのサインなんですよね。もう明らかに。

つまり、クライマーとして、

どうみても、自分のポリシーとあわない相手と組むのは、いくらパートナー貧乏でもダメだってこと

ですね。

実は、最近、海外(台湾)で一緒に登ったクライマーが、日本の瑞牆という岩場に来て、私の知り合いとつながったという投稿をSNSで見かけて、うれしかったんですよね。その海外クライマーは、このトラウマの起点となった白亜スラブの後、私は一人で海外登攀に出かけたのですが、そこで楽しく一緒に台湾でマルチピッチのルートを登ったんですよ。

あれは楽しかったな。あれこそが、亡くなった弟からの贈り物でしょう。

そう、マイナスの出来事に強くひきつけられていましたが、プラスの出来事も起きていたのです。同時期に。

楽しかった台湾クライミング。アジアの仲間。ともに登っても命を脅かされない仲間。

白亜スラブ=過去の記憶の再生(恐怖・フラッシュバック・警告)

vs

台湾クライミング=今ここの感じ(喜び・自由・共創)


乗り越えたらしい…


つまり、やっとトラウマを乗り越えたらしいですね…。

白亜スラブにとらわれるのではなく、楽しかった台湾クライミングを思い出せるようになったこと。

”過去の物語の中でも楽しかった思い出”に、やっと目が向くようになった。

それは、たぶん、水泳で、”今この瞬間に集中するから”です。

私の中の「守られなかった子」の癒しは水泳で完了した感じがあるのですが、きのうのSNSを見て「弟を守りたかった姉」のパーツのほうも、安堵したみたいです。

”よかった、タオ(弟の陽性転移)が、山岸さんとつながったんだ…ほっ”(私の中の弟を守りたかった姉パーツの声)

というのは、何度もこの、クラック大好きというクライマータオに、「日本のクラックもいいんだよ」「一度おいでよ」と声をかけていたからです。瑞牆は、リールロックにも出た世界的な岩場なのに、彼が見くびってこなかったし、彼、レンタカーが高いとか言って、なかなか日本に来ようとしなかったんですよね。

「弟(象徴的な男性)」が自分の道を歩み、”私”が助けなくても、彼自身で世界とつながっていける。山岸さんは私の中では信頼できるクライマーの代表のような感じなんです、とくに。

私は、”助けなきゃいけない”にとらわれていたんですよ。それは分かっていても逃れられない感じがありました。

さて、このようにやっと、”よかったこと”のほうに目を向けることができるようになってきた…。

ここまで来るのに、長かった。

どうしても、怒りとつらかったことが目につき、「騙された」、「傷つけられた」、「なんじゃこのトンデモクライミングは?!」、「アホすぎてやってらんねー」が止まりませんでした。被害者なんだから仕方ないですね。

バタフライのこと(大人版よしよし)


やっとプラスの面に目が行くようになった。これはバタフライのおかげだと思います。

一人でも、水と戯れて、とっても楽しく遊んでいます。トビウオみたいに飛べる。

これは、水面を直視しても恐怖心がわかなくなってきたので、水面を見て、水に浮く瞬間をつかむことができるようになってきたのです…。

それに、2ビートクロールって、私の得意なアイスクライミングと同じく、ワルツステップと同じリズムだったんですよ、実は。

去年、アイススケートでもかなり上手になりましたが、なんとアイススケートも同じリズムでした。

他の人類を信頼する


一人で水と遊べる私にしてくれたのは、85歳のおばあちゃん先生で、つまり母性なんですよ。その前に何人も若い男性インストラクターを渡り歩き、みなダメでした。

「よしよし、怖かったねぇ。でも、もう大丈夫よ、怖いの怖いの、飛んでいけー」

これを成人がやると?

水を怖がっている大人に、「こうするのよ」と教えてあげる。最初は手を引くところからでした。大人だから、恐縮していましたが、なんと一回しかいらなかった。

白亜スラブで出てきたのは、言語を持たない「守られなかった赤ちゃん」でした。そしてバタフライでは、他の人類の母性の導きによって、その赤ちゃんが「水と一緒に遊べる存在」に変化した。

つまり、ソマティック(身体的)な再統合です。これは、子供動画で、1歳の子がおじいちゃんに痛いの痛いの飛んでいけ~されている様子を見て自覚しました。その子はにっこりと笑って平気になりました。この時の気持ちと似ているんですよ。

先日からプールで見知らぬ人にも、「水泳、お好きなんですねぇ」みたいな声をかけられますし、「子どものころから習っているんですか?」みたいな誉め言葉をもらい、答えは「実は金づちだったんですが、なぜかバタフライだけ泳げるんですよ」みたいなやり取りです。これって本当にどこにも嘘がないでしょう。背伸びもないし、変な承認欲求もなく、等身大。

背伸びもなく、演技もなく、ただ事実を語る。バタフライならできるって。

だから、心が充足してきたんですね。自己受容です。バタフライなら泳げる子。

そう考えると、いつも岩場で俺ってかっけーってやらないとやっていけない男性クライマーたちの心の中には、深い傷があるということですよねぇ…。ある意味、お気の毒な方たちなんですよね。真相では。

新たな安心基地


そして、私が次に考えなくてはならないのは、もし次に岩場で誰かと登るときがあれば、

「この人とは、”ともに遊べる”仲間か?」を基準にし

「支えなきゃ」ではないことです。

私の性格は、
・非常に高いロイヤリティ(忠誠心)があり、
・コンパニオンシップ(相手への気遣い)
があるのが特徴です。

つまり、裏切らない、相手によく寄り添う力が強いって、ってことです。そりゃそうだ。シングルマザーの母の強力な助っ人役だったのですから。

これは人に対して向けられるだけでなく、対象は、家族、仕事、山、クライミングといった人格を持たなものにも広げられました。

私は山に礼を尽くし、読図を身に着けました。
クライミング技術は人と登るようになる前に、自腹で講習会に出かけ、岩場で必要な技術は身に着けてから岩場に行っている。岩への礼儀です。

アイスクライミングで師匠のリードのビレイを初めて仰せつかったときは、リードのビレイを学ぶために講習会に別に出たくらいです。

相手の命へのリスペクトがとても高いのです。日赤の救急救命は3年ごとに受けて、常に救急救命法をアップデートしていますし、講習会情報が来たら出れるものは出る。雪崩講習も山に行く前に受けました。常に学ぼうという姿勢を持ち続けている。

しかし、相手にはない。これってフェアですか?組めますか?

それは、「共に遊べるか」で言えば、Noでしょう。


「ともに遊べるか?」が新しい安全基地です。

私に必要なのは、

「共依存的ロイヤリティ」から「相互尊重的コンパニオンシップ」への進化

です。

わたしばっかり、ではなく、相互に、ということで、

それは

私が講習会に出なくなる方向ではなく、
相手が一緒に講習会に出る方向性

ということです。

私のロイヤリティの高さ、礼節、命へのリスペクトは、
成熟したアタッチメントの現れです。

なのに○○してくれないと登らないとか脅しを使ってパートナーを組まされる。

「相手を守ってやらないと関係が成立しない」というヤレヤレ感ではなく、
「互いに自立したまま関係を楽しめる」のが大事だということです。

「僕、初心者なんでまだビレイができないから、経験者と登りたい…」という人は、有料で講習を受けてから来てくれないとあぶないです。

なぜなら、クライミングパートナーは講師ではないからです。私は、実際、すごい人とばかり登っていますが、相手に講師役を期待したことはないです。それは、相手に失礼だから、ですよ。最低限のビレイくらいできるようになってから、パートナーに申し込んでいます。技術は見て盗むもので、与えられるのを期待するものではない。


「私は、山にも人にも、等身大の自分でいられる」
「私は、恐怖ではなく楽しさで生きる」
「私は、支えるのではなく、共に遊ぶ」

私は、もう守られなかった子ではない。
私は、水と友達になった。
私は、弟を助けなくても、愛を失わない。
私は、命に礼を尽くすクライマーである。
そして私は、"ともに遊べる"人と、人生を登る。

私は、もう守られなかった赤ちゃんではない。
私は、水と遊び、山とアイスダンスを踊る。
私は、母性の手に導かれて、自分を抱きしめ直した。
私は、恐怖を超えて、自分のワルツのリズムで生きる。
私は、”ともに遊ぶ”世界の住人だ。