■事例
Aさん:「この画像にある資材はちょっと…」
→ 本人にAさんが言えばいいでしょう、良くない資材だと分かった人はAさんなんだから。
私:Bさんへ 「Aさんがこれはどうか?と言っていますが?」
Bさん 「これはこうこういう理由で、強度が足りないと思われますね」(同意)
私: 「じゃ、施工者に連絡しましょうか?」
Bさん: 「いや、言わないでください」
はー!! 人を介さず自分で当人に直接やり取りしてください。仲間のミスは仲間なんだから、仲間うちでしりぬぐいすべきでしょう。
■事例
Aさん:「この画像にある資材はちょっと…」
→ 本人にAさんが言えばいいでしょう、良くない資材だと分かった人はAさんなんだから。
私:Bさんへ 「Aさんがこれはどうか?と言っていますが?」
Bさん 「これはこうこういう理由で、強度が足りないと思われますね」(同意)
私: 「じゃ、施工者に連絡しましょうか?」
Bさん: 「いや、言わないでください」
はー!! 人を介さず自分で当人に直接やり取りしてください。仲間のミスは仲間なんだから、仲間うちでしりぬぐいすべきでしょう。
■ 師匠が必要かどうか?
最近、クライミングを学習するにあたって、自分の育てられ方は正しかったのだろうか?とよく考えています。
最初の師匠の鈴木さんとは、師匠が必要かどうか?でまず喧嘩しました。
私は、それまで、一人で登ってきた登山者でした。八ヶ岳の中では、ピッケルがなくても登れる最も難しい山である権現岳を登れる程度までは、独学してから、来ていました。
独学って何を?というのが、一般の人には分からないと思いますが、主に天候予測です。山には近づいてよい危険と近づいてはならない危険があります。八ヶ岳なら積雪30cmは大雪なので、雪崩の危険があり、逆にただの寒さ…-25度とかは特に問題がないです。
寒いところで、濡れた手で金属を触れば、皮膚を持って行かれますが…そういうリスクも独学済み。八ヶ岳の縦走路始め、問題が起こった時のエスケープルートも、頭に入っているという具合に、山のリスクを自分の考えでカバーする方法が頭に入っているということです。チャレンジする前に、主要な尾根と谷は知っていないといけません。
そんなの誰だって分かっている、当然だろ、と思う人は、昨今の登山者を知らないかもしれません。
山岳会に属しているような人でも…いや、属しているような人だからこそ、かもしれませんが…富士山が目の前に見えているのに、北とか言ってしまいますからね。(実際にいた高齢女性登山者)
あるいは、美濃戸と言っているのに東側の尾根に歩き始めたり…。基本的なことを抑えていない人は、ただ、誰かに連れて行ってもらっていた、という人です。
そのあと、師匠が現れたわけですが…私は当初から、ずっと一人で登っていきたいと思っていたので、師匠は要らないって思っていたんですよね。だいぶ口説かれました。
■ スポーツクライミングでムーブを習得
そのあとも、問題でした。私の当時の考えでは、
スポーツクライミングを身に着けるべき時期
でした。積雪期登山が単独でできるようになったクライマーが次に行うべきことは、クライミングムーブの習得かなぁ…と思っていたためです。
ところが、これに師匠が猛反発したんですよね…。スポーツクライミングが、あまり身についていないのは、そのためです。
しかし、私の考えでは、師匠の反発は、間違っていたと思います。
師匠がどのように考えて、インドアクライミングは要らない、と考えたのか分かりませんが、多くのクライマーは
フリークライミングこそ、登山の基礎力の底上げ
と言います。登山の生活能力(テント泊など)、ナビゲーション能力(読図ややぶ漕ぎなど)、積雪期登山(アイゼンワークなど)と並ぶのが、フリークライミングの基礎的力、と思います。
大体、外岩グレードで、限界グレードが5.12くらいまで必要です。インドアジムだと2級が登れるくらいかな?昔の山岳会のリーダーでも、そのくらいまでは努力で到達していたもののように思います。
数あるクライミングの中ではもっとも安全であるインドアで、片手でビレイするとか、壁からものすごく離れてビレイするとか、そう言う人たちと登らないようにするのがミソかもしれません。
■ リーチの問題
これは、背が低いともっと厳しくなるので、女性の場合はもっと高度なムーブ処理能力が必要になると思われます。同じ5.9でも、背が低い人にとっては10になるので。その辺りは、一般のリーダーがほとんど男性なので、40年、50年、登っていても、リーチとプロテクションの問題は理解が及ばないかもしれません。
むしろ、シットスタートがあるボルダラーのほうが、リーチの差による難易度の変化は良く理解できるかもしれません。その辺は、個人がどれくらい女性とのクライミング経験があるか?によります。大体の人は、女性と登った経験値が皆無だったり、元アスリート選手の女性と登っているとかで、一般人にアスリートを押し付けるみたいなことになってしまっていたりで、一般登山者の普通のラインが見いだせないケースが多いと思います。
私の観察では、3年毎週登るくらいの頻度でやっていれば、普通の運動能力の人でも、外岩の10代に登れるようにはなると思います。
■ 外岩リードの問題
一般に、古い教え方だと、いきなりリードです。5.6でも、5.5でもいいからリードさせます。
私もそういう教え方で、育てられたので、会で一緒に行った先輩が、小川山で私にリードさせる課題がないので、困り果てていました。
小川山はアルパインの岩場ではなく、フリーの岩場だからです。フリーの岩場というのは、5.9から上がスタートと言うことに日本ではなっており(海外は違う)、小川山にある、5.8とか、5.7とか、苔が生えんばかりの勢いです。もしくは絶賛ランナウトしており、5.8が限界の人が登ることはできないです。
それを解説する能力がほとんどの人は欠けているので、新人は、「先週、人工壁で10Aが初めて登れました!」とか言って、小川山の10Aにチャレンジ権ができたと思ってしまいます。
先輩はやれやれ、と思って、自分が登った10Aをトップロープさせるしかないわけですが…新人の側は、リードクライミングこそ、クライミングだ、とか聞かされているので、結局、「先輩、この隣の5.5を登っていいですか?」とか聞いてくるわけです。
見るとそれはコケコケでプロテクションがハーケン…つまり、誰も登らないので、リボルトも後回しだし、登られていないからコケまみれなわけです。登らせるわけにもいかないので、先輩は後輩の意欲をそがないように考えて、しかたねえなぁと掃除しながら、ハーケンの強度をチェックしつつ登る以外なくなります。
ということなので、教える側からすると、プロテクションの確かなインドアの人工壁に1年くらい通って、プロテクションの意味だの、ロープの流れだの、逆クリップだのを覚えてくれた方がうんと楽なわけです。
一方、菊池さんの本によると、昔の新人は、一年くらいは、先輩の登攀に ”金魚の糞”だったそうです。つまり、リードはお預けで、ずっとセカンドってことです。
当然、新人には難しすぎる課題を登っていることになるので、楽しくはないようです。この学び方だと、外岩しか使わないですが、どちらかというと、クライミングはあまり上手でないクライマーが出来上がるようです。
■
リボルトも教育も、ここまで放置が進んだ理由はなんだろうか?
九州に来て、自分の了見で、初めての岩場でも登るということになり、ボルトに対する知見がものすごく広がった。
とくに、2000年以降の開拓の岩場とそうでない岩場の事、つまりボルト品質のことは大きい。
いまだにカットアンカーで新規開拓をする人がいる、ということも、本州の開拓者が、
「え?!まだいるんですか!」
と驚くレベル感だということが分かった。
私はもちろん、カットアンカーがそんなに不味いボルトだということは、九州に来るまで知らなかったが…。
しかし、一体どういう理由で… これほどまでの長い時間…20~40年も…無視や放置が行われたのであろう???
ボルトに人命がかかっていることとか、ランナウトが危険であること、などは、クライマーであれば、当然、分かり切っており、新人クライマーから教わるよりも、ベテランであればあるほど、ツマラナイ見栄やちょっとした魔が差した程度のことで、クライマーが死んでしまったとかいう話は、長年やっていればいるほど見聞きしているハズだ。
そういうことを含めて、なぜ、これほどの放置や、終了点の作りのまずさ…が発生したのか?
一体これまで、誰も指摘しなかったのだろうか?
なぜ私以前に誰も指摘しなかったのだろうか?
上級クライマーだと自負する人々が…だ。
自己責任で登っていると豪語する人たちが…、だ。ボルトの見極めなど、自己責任の最たるものだからだ。
正しいビレイヤーの立ち位置。海外の動画を見るだけでも、見れば分かる。■ 日本には海外クライマーをもてなせる楽しい岩場がない
小川山も世界一怖い岩場指定されていたしなぁ…。
数年前に行った台湾で、シンガポールで普段登っているというクライマーに教えてもらいました。そのシンガポールには外岩がないのだそうで、インドアジムで鍛えたら、誰しもが、よし!次は外岩だ!=海外、となるのだそうで、シンガポール人は小川山を目指したらしく、それが間違った選択肢だったと早々に気がついたそうです。
だよなぁ…。
一般に、アウトドアクライミングのデビューはスラブからです。傾斜が寝ているので、初心者向きとされているのですが、残念ながら、ボルト間隔的にはぜんぜん初心者向きではないことが多く、多くがランナウトしており、落ちたら大怪我になってしまう。それが歴史的流れなのです。これはアメリカも同じで、ヨセミテも強烈なランナウトなのだそうです。
小川山はヨセミテを範とした岩場だから、当然ヨセミテ流。日本では花崗岩の岩場はぜんぶヨセミテ流なのではないかと思います。
■ グレードの表現
一方インドアジムの人は、5.9が一本でも登れたら、つまり限界グレードが5.9だとしても、自分のグレードを5.9と表現することが多い。
私も今登れたことがある最高グレードは11Aのオンサイト。でも、もし快適に楽しく登るとすれば、10Aとかです。私がインドアで練習するなら、11Aに取り付くべきです。落ちながら強くなるのがインドアの正義。その正義をアウトドアに持っていくと?まぁ、大怪我や事故になりますね。
この教えてくれたシンガポールの人は、日本の岩場は怖いと連発していました。比叡にも行ったそうです。
その比叡は、米澤さんによると、現代はまだましになって、以前は40mランナウトしていたところが、20mランナウトくらいに収められているそうです。
昔の人は、国の威信とか、会の威信とか背負って登っており、現代の一般社会人が楽しむ健全なスポーツとしてのクライミング、趣味となり、余暇として求めらるクライミングとは、まったく話が違ってしまっています。
■ ボルト=スポートルート
それでも、ルートに打たれているのが、ハーケンやリングボルトだったら、20mのランナウトでも、40mのランナウトでも、何の誤解も生まれないのですが…ボルトが打たれているとなると、ボルトというのは、スポートルートって意味なんですよね…。一般常識では。
自分のために打つのがハーケン。あとに続く人のために打つのがボルト。自分さえよければいいのがハーケン。公共の利益のためにあるのがボルト。
ロープが出ているのが20mで、20mランナウトしていたら、墜落したら、ロープの伸びの分で、グランドフォールします…つまり、ボルトがあっても、なんの保護の役目も果たしていない…。もしそのボルトがぽっきりと折れたり、抜けたりしても、おんなじですよね。40年前に打たれたボルトは今そんな状態です。
こんなランナウトになったのは、出来るだけボルトを打たないという正しい方針のためですが、ランナウトしていたら、ボルトの役目自体が果たせないので、いっそノーボルトのほうが正直って感じです。ボルトがあると人間は安心してしまいますが、実質はボルトがないのと同じ状態なので、結局、ボルトレスと同じです。ならロープもあってもなくても一緒ってことなので、フリーソロと同じです。
20mランナウトの岩場は、20mフリーソロの岩場として売り出すほうが、正直。
そうすると、命知らずな人しか来なくなって、誤解が減る、ってものです。
■ 趣味として楽しむクライマーに命がけは勧められない
海外クライマーに何人か友達がいますが、遊びに来たいと言われても…、困る。
バケーションで楽しくクライミングしようと思っている、ノーマルで11くらい登れ、頑張ればやっと12が届くかどうか?な人なら、もしオールラウンドに、スラブも、オーバーハングも、フェイスも、クラックも、ワイドも登れるみたいな成長をした人なら、たぶん20mフリーソロのスラブで落ちることはないと思うのですが…それは人に寄ります。
大体のクライマーは平素がインドアジム。それでやっている人に、
20mランナウトした岩場が易しい岩場があるけど、どう?
って聞けます?しかも、ルートのピッチグレード5.7とか。
普通のクライマーなら、もっと難しいのでいいから、安全なルートのほうが好みだと思います。
一方、もし彼がスラブに経験がなく、5.7?やるやる!というような状態の人だと、逆にまだ分かっていない5.7がギリギリの人かもしれず、それで5.7でランナウトした課題に取りつかせると、ヘリが飛ぶ可能性が五分五分です。5.7のスラブをノーテンションで登るには、5.9のスラブがギリギリグレードである必要があるからです。ゆとりが必要。
ゆとりが必要、というのは、もっとも現代クライマーには理解しがたいようです。
それはクライミングを初心者がどのように学ぶか?というプロセスが変わったためで、現代は入り口がクライミングジム=落ちながら成長。
という理由で、大体、外岩リードクライミングの指導ができるレベルのオールドクライマーは、ジム上がりクライマーを嫌がります。自分の指導中に気楽に落ちて、怪我でもされたら後味悪いですよね。
■ じゃ適性ボルトの岩場はどこなの?
とか聞かれて、これも困るんです…。なぜなら、海外のように岩場ごとにボルト間隔の適否が分かれているんじゃなく、
開拓者別
なんです。日本では。しかも、トポに開拓者の名前が書いてあることが少なく、開拓者の個性も、トポには記載がないです。誰が作ったルートなら安全なのか?っていうのは、ローカルクライマーに対しての、聞き取り調査、しかなく、それでは、海外から来た人は登れない。
■ 楽しくない
クライミングは危険なので、スリルを楽しむスポーツであることは確かですが…
バンジージャンプが楽しいのは、スリルであって、本当に死ぬのではないから。
同じ理由でクライミングが楽しいのは、単に死ぬかも…というのは、見せかけであって、本当に死ぬことは想定されていないから。
どうだ!と命知らず自慢をしているクライマーだって、ホントに死ぬとは思っていないから、自慢になるわけで、ホントに死んでしまったら、ただのアホです。
ので、普通のクライミンググレード…海外のインタビューでは、基本的に5.10代を登るクライマーが25%の人口を占めており、11登る人も12登る人も、全員が成長プロセスで通る道のりが10代なので、10代でランナウトしていて落ちて死ぬかもしれない作りになっていたら、クライマー人口の半分に、”来ないで”と言っているのと同じことです。
■ 適正グレードと適正ボルトが急務
というわけで、日本のクライミングが海外で一般にクライマーが楽しんでいるような、趣味として、命を掛けずに楽しんで登れる状態になるには、
5.9なのに、実は10cとか、不適切かつ不誠実なグレードが与えられていることがない
5.9しか登れないクライマーが5.9に取り付いても死なない程度のボルト間隔になっている
の2点が必要です。5.9を例に出した要るのは、タダの便宜上です。5.11でも、5.12でも、おんなじです。
適性グレードなんて、インターネット全盛のこの時代、何人も登る人がいるので投票であっという間に決着がつきそうですが、そういう仕組みがないのでつかない。
余談ですが、一般登山でも、適性グレードの問題は根深く、簡単なロープウェイで登れる山の唐松岳の隣だからというだけの理由で、後立の山の中では難易度が高い五龍に来てしまうヨレヨレ登山者が後を絶ちませんでした…帰りは遠見尾根でこれも長くて難しい道です。
登山者もクライマーもどっこいどっこいで適性グレードではないという問題は根深いです。
海外のハイキングを求める人は、日本の山と言えば、富士山一択…。発想が貧困です。夏の富士山なんて行っても楽しくないですが、そう教えても誰も話を聞かない。行ったという事実が自慢話のネタとして帰国の折に必要だからです。故郷の人が名前を知らない山に登っても、話題にならない…。
というので、適性グレードがないのは、クライミングだけの問題ではないですが、そういう問題を一足先に飛び越えて、
グレードが適正であると、ボルトが適正であるとかはごく当然のことであるラオスの環境…
ホントに羨ましいです。日本の初級クライマーはすべからくラオスで一か月くらい登れば、アウトドアへのデビューはバッチリだと思います。
今日の仏教説話は、諦観、だった。
もし、おかもん先生が、「俺、今から大リーガーになる」と言ったら?そりゃ、みんな、そんなわけないと思って止めるでしょう…。
私はいつも思うのだが、43歳からクライミングしている人に、あんまりプレッシャーを掛けないでほしいなぁ…と。
”43歳からクライミング”って、”おかもん先生が大リーグ”と同じことだと思います。
そのような人が46歳で、つまりきっちり勉強すれば3年で、単独でラオスに行ってパートナーを見繕って登り、帰りに韓国のアイスに行き、ラオスで会った海外クライマーとランデブーして台湾で登って帰って来れる時代、というのが正しい時代認識観であろうと思います。
クライミング力はグレードではありません。楽しむためにはグレードはほとんどイラナイというのが正しいです。むしろ。
50代からスタートして、5.12に到達した女性クライマーの方にも、お会いしたのですが、お話では、それでも、課題を良く選んで、ということでした。
私は一生、5.9でも全然かまわないというか、エンジョイクライミングのために頑張ってきたのに、エンジョイクライミングを許可されなくて、なんだか嫌になっているんですよね。
頑張り続ける以外の選択肢を許さない社会ってヤダなぁ。
普通に楽しく趣味で登れる世界が豊かな社会だと思う。
■ 古い岳人 2000年
に菊池(ガメラ)さんの連載記事があります。
これは、”平成”の登り方で、時代はもはや、令和、ですが… 最近のロクスノには、こういう技術連載がないですが、なぜなのでしょう?
半分以上広告だし。まぁ、みなが雑誌を買わないというのは、中身がないから買いたくない→余計買わない→余計、中身がなくなる の悪循環なのかな?
図書館で、古い岳人はすべてバックナンバーがとってあるので、その場合、この菊池さんの講習的内容の連載は役立つと思います。菊池さんはアルパイン寄りなので、北山真さんが、ヤマケイ登山シリーズの1冊として、フリークライミング、だけをまとめたものが、最新として出ているので、それを読んでも役立ちますが、無料で読める情報で、いくらでも現代では情報収集できます。
なんでこんな基礎的なこともしないのかな?
そういえば、おとどしくらいに、大阪に遊びに行ったら、私がリードで登れるところも、男性で初心者の人は登ることを許可されていませんでした。青ちゃん(イケイケ路線の方です)ですら、「君はまだダメ」と彼にくぎを刺していましたので、分かっている山やは、自分がよく分かっていない相手に、いきなりリードさせない。
だから、初めましてクライミングでご一緒した福岡山の会の人が、私にいきなりマルチのリードを要求してきたときには、ビックリ仰天したのでした…。普通は、相手の技量が未知数の初対面の人に、”自分の代わりにリードして”って、ないです。特にアルパインの世界では。
フリークライミングの世界は、”建前上は”どこで落ちても死なないことになっているので、相手の申告のグレードより下であれば、「いかがですか?」という程度のいざないはあると思いますが。
なんか変なの~と思った事件でした。ちなみに私と行く人は、リードを強要されることはないです。
なにしろ、ボルトの品質が低品質で、落ちて、怪我をしたり、命があやうくなるのは、登っている側ですので、相手の合意が重要というのは、セックスの合意と同じくらい重要なことだと思いますが、九州ではそのプロセスをあんまり大事にしない伝統があるような気がします。
私はやっと自分が登りたいのに登っても良い実力がついて来て、パートナーとの合意も出来てきたところだったので、その途中で膝を脱臼したのは、とても残念でした。怪我のほうは、いまだに痛いので、あまり今もクライミングすべきではありません。
とくに外のボルダーはすべき時ではありません。
”私にとっての安全”、は、”一般体格の男性クライマーにとっての安全”とは、全く違います。
■今日の仏教説話
家族などを亡くした人に、生きる意味を与えてあげる方法が、ビクトール・フランクル提唱のロゴセラピーとともに、紹介されていました。
妻に先立たれた夫 → もし順番が逆だったらどうか?
夫を不慮の死で亡くした妻 → 夫が若死にすると知っていても、結婚したか?
涸沢岳西尾根で、講習会仲間が亡くなった時、身重の妻を置いて、のことだったので、気の毒で目も当てられませんでした。残された妻がどんな苦労をするか、父親のいない家庭の子どもが、どんな苦労をするか?自分の経験から分かるからです。
その原因が、ただ、アイゼンをつけるのが面倒だった程度の些細なこと…。特に命知らず自慢ではなくても、山では、ちょっとしたことが、文字通りの、”命取り” ですね。
九州では、シリアスな山がないので、安全に対する意識が異様と言っていいレベルで低く、5.9程度のレベルしか登れないクライマーでも命知らず自慢のイケイケが普通なようで、謙虚さのレベル感、ゼロで、それに驚かされました。自然界への畏敬の念、もほとんどゼロです。
自分の命投げやり、なクライマーが基本多数で、
自分の命など、どうなってもいい、
という、誰が見ても明らかに、ポーズ(気取り、言ってみるだけ、いきがり)の人が多いのです。でも、誰が見ても、その真意は、
「俺を愛してくれ」「俺を見てくれ」「だれか!」
という心の叫びです、むしろ…。
そういう自らの命に意味を見出せない人に、良き意味づけを与えること…について、フランクルやブッダだったらどういうのだろうか…?と今日は思いました。
「自分が死んだとき、悲しむ人のことを考えてごらん」
ではないのだろうか…。命への尊厳、超軽いレベルの人たちばかりに九州では会いますが、なんだかなぁ…。
■ 吉田和正さん
53歳で亡くなった故・吉田和正さん(クライミングを知らない人のために言うと、超・有名クライマー)は、クライミングによって、生きる意味と戦っていた典型的なクライマーと思うが、最後は、登りたいプロジェクト…彼の場合は限界へのチャレンジという意味です…もなくなり、母親が亡くなり、愛着を持っていた迷い猫が死に、生きる意味づけを消失して、この世を去って行ったように思います。
生きる意味が見いだせなくなると、神が、もういいよ、と天に招いてくれたような、そんなろうそくの炎を吹き消すような、亡くなり方でした。
もちろん、私は彼の人生の最後の、薄皮のところを知っているだけですが…
危険なクライミングをやっても、やっても、なかなか天が自分を召し上げてくれない…、と不服な人は、それはまだやり残している人生課題があるから、だということではないかと思います。逆から言えば。
人生の大きな課題は、自分の人生に意味を見出す、です。意味を生きるのが、人生。
余談ですが、吉田さんも、母親の死よりも、ペットロスに痛みを感じておられました。猫がなくなったことの方がダメージ大きかったよなぁ…。
愛着というのは、色々です。喪失の痛みを恐れて、そもそも、愛着を持つことを嫌がる人もいますが、それこそ、いくじなし、のすることですね。
クライマーは、クライミングではイケイケを気取っていても、実は人やもの、ペットなどとの愛着関係を築く勇気がないだけ=意気地なし、の人が多いので気を付けましょう。
モノ言わぬ岩を恋人にしたい、というのは、現実世界からの逃避行動であるようです。
■ 毎日おかもん先生の仏教説話を聞く
これは、おかもん先生のサイトから (https://bukkyouwakaru.com/dic/s105.html?fbclid=IwAR3ktLXLObAZR9jDuNjZyG6dGeQ4QpIfFXQf5BlPvKYOEPQzHUiokt6ATDU)
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白骨とは他人の死を見聞きしたときの驚き
次に仏説譬喩経の人間の実相のたとえ話に出てくる白骨とは何を例えているのでしょうか。
旅人は白骨を見つけて、ドキッと驚きました。白骨を拾ったときの驚きとは他人の死を見たり聞いたりしたときの驚きをたとえているのです。
テレビや、新聞を見ると毎日のようにどこかで誰かが亡くなったことが報道されています。災害で、事故で、事件で、病気で、いろんなの訃報が報道されない日はないといってもいいでしょう。
★ここが問題です、クライマーの死亡や事故事例が検証されていない。ロクスノにもフリーファンにも、検証が掲載されない。事故や死はなかったことのようにスルーされている。
ショッキングな事件や事故で誰かが亡くなったことを聞くと私たちはドキッとします。通ったことがあるトンネルが落盤して数名の方が亡くなったと聞くと、「ああ、あのトンネル通ったことがある、自分だったらどうしよう」とぞっとします。近所の知人が突然亡くなったと聞くと「えっ、まさかあの人が・・人間の命ってわからないものですね」とドキッとします。
このように私たちは、思いがけない訃報や身近な人の死にふれたときに驚いたりびっくりしたりしますがこの驚きを白骨を見たときの驚きにたとえているのです。
私たちは白骨の野原を歩いている
では、私たちの足元にはいったいどれだけの白骨が散らばっているのでしょうか?世界中では1秒間に17名の方が亡くなっていると聞いたことがあります。この日本では約20秒に1人の方が亡くなっているそうです。
一日に直すと、世界では 15万人の方が日本では 3千3百人が亡くなっています。まさに雨露のように人の命は消えているのです。
私たちの足元には無数の白骨が散らばり白骨の野原を歩いているのが私たちということでしょう。
ところが私たちは、他人の死を見たり聞いたりしても他人事、他人事、と聞き流してしまい、やがて必ず自分にやってくることだということを忘れてしまっているのです。
★ クライミング界では、忘れるというより、最初から、命知らずを自慢するような本末転倒になっているのは、子供が赤ちゃん返りをして、親の注目を引こうとする心理と同じになってしまっているからであるようだ。
トンネル事故を聞くと驚きますが各地の補修工事をしたそうだから滅多なことはないだろうと安心したり近所の人の訃報を聞いても、あの人は、お酒やたばこばかり飲んでいたからな自分は健康に気を付けているから大丈夫だろうとなんくせつけて、自分とは関係ことにして目を背けていないでしょうか。
白骨を見つたときは、驚いた旅人も、次第に慣れて平然と、白骨の野原を歩くようになりました。その旅人の前に、突如、唸り声とともに現れたのが餓えに狂った獰猛な虎なのです。
この虎は何をたとえているのでしょうか?
これは、私たちに必ず訪れる死という現実なのです。
誰もが死にたくありません。そして、死から目を背けて生きています。しかし、誰もが必ず死んでいかねばなりません。死と向き合ったときに本当の意味で生きるとは何なのかが問われるのではないでしょうか。
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★はクライミング業界の問題点です。毎年、一記事くらいは、大きな事故が起きているので、事故の検証を掲載するべきでしょう。
ランナウト王子で知られる佐藤祐介さんですら、事故に遭っていましたよ。
■4歳児
日本国外では4歳児だってロープクライミングしている現代…国内ボルダラーの言い分は…?
「ロープは覚えることが多すぎて俺には無理」
■ ボルダラーにはロープ技術は要らない?
フェイスブックは、過去の同日の記録を色々とお知らせして来る機能が付いている。
そこで、過去の今日、11月21日から考察。
■ 13kg、52歳、75kg
13kgかぁ…。苗の重さである。植林するには当然苗を担ぐ必要があるんだが…その重さが13kgであるそうで、その重さにあえいでいるそうだ。
しかし…13kgって、普通の登山道レベルの縦走で、コースタイムが変わるレベルの重さではないんだよなぁ…。たしかに13kgが重たいと感じる登山者もいるが、それは65歳以降のおばあちゃん登山者。あとは、メタボで、何もしないでも13kg担いでいる状態のおじさん登山者が+13kg担ぐと合計は26kgになり、重たくなる。
それでも、13kgはあまり重くない。オーバーハングのクライミングをすると重いと思うが…植林地の傾斜、ハングではなかったような…。というので、13kgでへばっていると言われて、狐につままれたような気がする。
一般に、女性25kg、男性30kgを担いで、丹沢の大倉尾根を3時間で登れる、というのが、テクニカルなルートに進んでも、まぁ大事に至らないだろうと目される体力です。それ以下だと、行くとアブナイ。最低限の体力がないということだからだ。
■ 体力がないと自己申告する男性クライマー
一般的な女性より、何もしない状態で体力がある男性が、13kg重い!と自己PRする場合、その真意というのは、どこにあるのだろうか?と思う。
そこをセールスポイントにしたくない、ということかなぁ。いつか、14,5歳の男子にクライミングを教える機会があったが、モノを持ちたがらない、ザックもロープも重たいものを母親に持たせて、母親を家来扱いしている男子が目についた。お母さんが息子の跡を追ってウロウロと息子に必要なものを持ってやっているが、息子の方は空荷で先を歩いているので、母親がくたびれて伸びているのに気がつかない。そもそも、自分のことに精いっぱいで周りのことに目が行かないのが男の子だからなぁ…。
その延長にあるのかもしれない…自分が快適なのが先という感じかもなぁ。自分がその集団の中でどのような立場を占めるのか、見えていない。
若い男子は自分が集団の中で強者だということに気がついていない。ずっと子供気分…つまり、弱者気分、で、自分が父親や母親よりも力持ちであることに、なかなか気づけない。
それは50歳を超えても、そうなのかもしれない。
■ 豊かな社会
体力が余ればそれを使い切ることが快楽になるので、オフィスでパソコンとにらめっこするだけの体力不要の仕事が増えた今、ハードなスポーツを趣味とする人が増えた。トレランもそうだし、ボルダリングも同じだ。
むかしは、トレランで走らなくても、駄賃つきで本当に仕事として、山を走っていたので、趣味に費やす体力は残っていなかったであろう。
というので、パワーを使い切る方角が、仕事から趣味に転じたということは、豊かな社会の一つの表れだろう、と思う。
仕事でオールアウトすることがなければ、趣味でオールアウトしたい、と思うだろうと。
それは生物の掟のように思う。能力を使い切りたいということだ。
そういう意味で、ボルダリングブームは、社会の流れ、豊かさの表れだと思う。
裕である社会に感謝できる、ということが大事な視点かもしれない。
岩を登るのはタダだが、第三世界でただで岩を登って遊んでいる人はいない…。
みんな、岩を登るみたいな無益な行為をしなくても、お金になる有益な行為で力を使い切っているからだ。