2021/11/23

命を粗末にするクライマー=愛に飢えているクライマー

■今日の仏教説話

家族などを亡くした人に、生きる意味を与えてあげる方法が、ビクトール・フランクル提唱のロゴセラピーとともに、紹介されていました。

 妻に先立たれた夫 → もし順番が逆だったらどうか?

 夫を不慮の死で亡くした妻 → 夫が若死にすると知っていても、結婚したか?

涸沢岳西尾根で、講習会仲間が亡くなった時、身重の妻を置いて、のことだったので、気の毒で目も当てられませんでした。残された妻がどんな苦労をするか、父親のいない家庭の子どもが、どんな苦労をするか?自分の経験から分かるからです。

その原因が、ただ、アイゼンをつけるのが面倒だった程度の些細なこと…。特に命知らず自慢ではなくても、山では、ちょっとしたことが、文字通りの、”命取り” ですね。

九州では、シリアスな山がないので、安全に対する意識が異様と言っていいレベルで低く、5.9程度のレベルしか登れないクライマーでも命知らず自慢のイケイケが普通なようで、謙虚さのレベル感、ゼロで、それに驚かされました。自然界への畏敬の念、もほとんどゼロです。

自分の命投げやり、なクライマーが基本多数で、

 自分の命など、どうなってもいい、

という、誰が見ても明らかに、ポーズ(気取り、言ってみるだけ、いきがり)の人が多いのです。でも、誰が見ても、その真意は、

「俺を愛してくれ」「俺を見てくれ」「だれか!」

という心の叫びです、むしろ…。

そういう自らの命に意味を見出せない人に、良き意味づけを与えること…について、フランクルやブッダだったらどういうのだろうか…?と今日は思いました。

「自分が死んだとき、悲しむ人のことを考えてごらん」

ではないのだろうか…。命への尊厳、超軽いレベルの人たちばかりに九州では会いますが、なんだかなぁ…。

■ 吉田和正さん

53歳で亡くなった故・吉田和正さん(クライミングを知らない人のために言うと、超・有名クライマー)は、クライミングによって、生きる意味と戦っていた典型的なクライマーと思うが、最後は、登りたいプロジェクト…彼の場合は限界へのチャレンジという意味です…もなくなり、母親が亡くなり、愛着を持っていた迷い猫が死に、生きる意味づけを消失して、この世を去って行ったように思います。

生きる意味が見いだせなくなると、神が、もういいよ、と天に招いてくれたような、そんなろうそくの炎を吹き消すような、亡くなり方でした。

もちろん、私は彼の人生の最後の、薄皮のところを知っているだけですが…

危険なクライミングをやっても、やっても、なかなか天が自分を召し上げてくれない…、と不服な人は、それはまだやり残している人生課題があるから、だということではないかと思います。逆から言えば。

人生の大きな課題は、自分の人生に意味を見出す、です。意味を生きるのが、人生。

余談ですが、吉田さんも、母親の死よりも、ペットロスに痛みを感じておられました。猫がなくなったことの方がダメージ大きかったよなぁ…。

愛着というのは、色々です。喪失の痛みを恐れて、そもそも、愛着を持つことを嫌がる人もいますが、それこそ、いくじなし、のすることですね。

クライマーは、クライミングではイケイケを気取っていても、実は人やもの、ペットなどとの愛着関係を築く勇気がないだけ=意気地なし、の人が多いので気を付けましょう。

モノ言わぬ岩を恋人にしたい、というのは、現実世界からの逃避行動であるようです。