2016/06/22

落ちれないビレイヤーと登っていると登れるようにならない

■ 気づき

先日、十二ヶ岳の岩場に行ってリードクライミングしていて、分かったことがあった。

  ある特殊なメンタリティになると、Ⅲ級でも怖い

ということだ。Ⅲ級の岩場と言えば、片手程度の三点支持でも登れ、一般的に岩登りの経験がゼロの人でも登れる。でも、落ちれば大怪我になる。

(岩登りのカンタンさ) と、(墜落時の怪我の大きさ)は、まったく相関関係にない。 

カンタンであれば、怪我が軽い、とは、まったく言えない。

しかるに、簡単であっても 墜落時の怪我リスク小 とはならない。

カンタンであろうが、なかろうか、落ちたら、大怪我が待っている。

そのことには、カサメリ沢にクライミングに行った時、これ以上ない簡単さの、単なる歩きのトラバース道で、8m転落して理解した。あやうく頭を打って死ぬところだった。

■ 落ちるか落ちないかは、50:50

思慮深くない人は、そういうことは考えない。

だから、”簡単、簡単”、とそのまま、登って行ってしまえる。

その調子で、”ここもカンタン、あそこもカンタン”と、深く考えないままに登っていると、終に ”む、難しい・・・”となるだろう。

その予想は容易だ。

では、”む、難しい・・・”となった場合、次はどうなるのだろうか?

 (落ちる) & (落ちない)

の二者択一しかない。 確率は、50:50だ。

■ 空想力

そういう風に、実際に落ちてしまう難しさまで行ってから、初めて次を考えるのが、8割の人だ。

夫の元君は、高所恐怖症だと自己申告しているが、クライミングしている私がびっくりするような危険な個所を、ヨイショと平気で越えてしまう・・・。

落ちたらどうなるか?を想像するのは、空想力の問題だと分かる。

そして、おそらく、8割の人に空想力がない。現場で行き詰って初めて気が付く人が8割だ。

■ 合理的な空想力 = 予想

空想力が私はたくましい。このままで行くとどうなるか?という未来予測を常にしている。

空想力は、現実の観察力に基づいている。

子供の頃、母が高額の買い物・・・DVDプレイヤーだの、ワープロだの・・・ちなみに我が家はシングルマザースリーキッズの世帯であった・・・を購入する姿を見て、我が家の教育費支出はヤバいと予測した。

それと同じで、下にいるビレイヤーを見る・・・。 なんだ?あの立ち位置は・・・。声を掛ける。「もっと壁によって!」 

リードしている先輩のビレイヤーのロープが超だらりんとしている・・・。ということは、私も、あのビレイで登らないといけないのか・・・(戦慄)。あれで落ちたら止まるまい。

ビレイヤーが酷使されている。さっきも彼だし、ビレイばかり連続4回だ・・・集中力も切れてくるだろう・・・。次に登るのは嫌だ。

今初めて流動分散を習っている? ということは、リードはしていないということで、ということは、経験の浅いクライマーに違いない。この人のビレイでは落ちれないな。

とまぁ、そんな具合。

■ 命名 アラート状態

その空想力がもたらす、心の状態で、ある特定の状態がある。

その状態のことを、何と命名していいのか分からないが・・・、確実に感知できる。

アラート状態とでもいうものだ。赤ではないが黄色というもの。

■ アラート状態

ということに気が付いたのは、十二ヶ岳の岩場で、カンテをリードした時に、特段、問題がなかったからだ。

以前に落ちれないビレイヤーで登ったことがあり、同じルートだと、差が鮮やかだったからだ。

この心理状態は、パニックではない。パニックになった状態とは緊迫感がまた違う。パニックは、もっと時間的な切迫感がある。

ただ、あてにならないビレイヤーを見ると、私は決して落ちられない。と決意する。

その決意は、失敗したら後がないと、オール自腹で臨んだ大学受験や財布に2万円しか入っていない状態で渡米したカリフォルニアでの2年と似ている。

今すぐどうこう、というのではないが、手違いが一つでもあると、非常にまずいことになる、という自己認識だ。

その時の心の状態は、とても特殊で、その状態を私はそうでない状態と切り分けられるようになった。

アラート状態(=信頼できない状態)と名付けよう。

■ 心的パワーの半分で登れるところを登る

信頼できない状態だと、心は半ば、怒っている。つまり、矛先が相手へ向いている。

岩には向いていない。要するに、岩に集中はしていない。

しかし、理性では、分かっていない相手へ怒りを向けても仕方がないと分かっている。能力がない母に学資を期待しても仕方がないと、あきらめるようなことだ。

しかし、合理的に考えても、頼るべきところが頼れない分の負担はこちらへ来る。

岩の場合だと、落ちれもしないので、心的パワーが100という容量があるとすると、下のビレイヤーへの怒り、ちゃんとしてないビレイを監視する心配、などに、心的パワーを30程度は、振り向けなくてはならない。

残りの70が、岩に振り向けられる心的パワーになる。

落ちれないということは、技術スキルにゆとりが必要になる。つまり、ギリギリではないということだ。

ギリギリでないためには、70の心的パワーに対して、さらに20%のゆとりを残して、岩にふりむけなくてはならなくなる。

つまり、56の心的パワーしか岩に振り向けられない。確実に落ちないためには、ゆとりの20%は必要だからだ。

ということで、振り向けられる心的パワーの約半分である56が、私が登るべき困難度の限界値となり、そのビレイヤーの元では、自分の能力の半分程度の困難度の岩しか登るべきでない、という結論になる。

能力の限界を試すのは、失敗が許されない環境ではできないのだ。

■ リラックスはできない

その状態の時は、”決して落ちない”という決意が、「こうやってみよっかな~♪」という思考錯誤を楽しむ、気軽な思いを凌駕している。

 (落ちてはならぬ) > (こうやってみようかな~)

ここまで書いて気が付いた。 そうか、楽しんでいないんだ。

(楽しみ)はお預けで、(決して落ちてはならぬという義務)が優先。

何事も楽しんでやらねば、スキルは身につかない。

楽しいという思いが土台になければ、岩登りはただの苦行だ。

まぁ、今まで苦行をこなしてきたわけですね(笑)。

■ 苦行から解放

ということは、会を退会したのは、本当に良い選択肢だったのだろう・・・

神は私に楽しめ、と言っているのかもしれない(笑)。

落ちれないビレイヤーで登る苦行は、どんな初歩的なクライマーにも、イラナイ。自分も落ちれないビレイしかしないから、相手の落ちれないビレイを受け入れる、ということは、Lose:Loseの選択肢だ。

岩でも、実生活でも、Win:Winの選択肢が誰にとっても取るべき道だ。

つまり、確実なビレイを身につけ、落ちても止めてもらえるビレイヤーと登る。

クライマーは、まずはビレイを身に付けましょう。そうしなければ、互いに登れるようになりません。