先日、十二ヶ岳の岩場に行ってリードクライミングしていて、分かったことがあった。
ある特殊なメンタリティになると、Ⅲ級でも怖い
ということだ。Ⅲ級の岩場と言えば、片手程度の三点支持でも登れ、一般的に岩登りの経験がゼロの人でも登れる。でも、落ちれば大怪我になる。
(岩登りのカンタンさ) と、(墜落時の怪我の大きさ)は、まったく相関関係にない。
カンタンであれば、怪我が軽い、とは、まったく言えない。
しかるに、簡単であっても 墜落時の怪我リスク小 とはならない。
カンタンであろうが、なかろうか、落ちたら、大怪我が待っている。
そのことには、カサメリ沢にクライミングに行った時、これ以上ない簡単さの、単なる歩きのトラバース道で、8m転落して理解した。あやうく頭を打って死ぬところだった。
■ 落ちるか落ちないかは、50:50
思慮深くない人は、そういうことは考えない。
だから、”簡単、簡単”、とそのまま、登って行ってしまえる。
その調子で、”ここもカンタン、あそこもカンタン”と、深く考えないままに登っていると、終に ”む、難しい・・・”となるだろう。
その予想は容易だ。
では、”む、難しい・・・”となった場合、次はどうなるのだろうか?
(落ちる) & (落ちない)
の二者択一しかない。 確率は、50:50だ。
■ 空想力
そういう風に、実際に落ちてしまう難しさまで行ってから、初めて次を考えるのが、8割の人だ。
夫の元君は、高所恐怖症だと自己申告しているが、クライミングしている私がびっくりするような危険な個所を、ヨイショと平気で越えてしまう・・・。
落ちたらどうなるか?を想像するのは、空想力の問題だと分かる。
そして、おそらく、8割の人に空想力がない。現場で行き詰って初めて気が付く人が8割だ。
■ 合理的な空想力 = 予想
空想力が私はたくましい。このままで行くとどうなるか?という未来予測を常にしている。
空想力は、現実の観察力に基づいている。
子供の頃、母が高額の買い物・・・DVDプレイヤーだの、ワープロだの・・・ちなみに我が家はシングルマザースリーキッズの世帯であった・・・を購入する姿を見て、我が家の教育費支出はヤバいと予測した。
それと同じで、下にいるビレイヤーを見る・・・。 なんだ?あの立ち位置は・・・。声を掛ける。「もっと壁によって!」
リードしている先輩のビレイヤーのロープが超だらりんとしている・・・。ということは、私も、あのビレイで登らないといけないのか・・・(戦慄)。あれで落ちたら止まるまい。
ビレイヤーが酷使されている。さっきも彼だし、ビレイばかり連続4回だ・・・集中力も切れてくるだろう・・・。次に登るのは嫌だ。
今初めて流動分散を習っている? ということは、リードはしていないということで、ということは、経験の浅いクライマーに違いない。この人のビレイでは落ちれないな。
とまぁ、そんな具合。
■ 命名 アラート状態
その空想力がもたらす、心の状態で、ある特定の状態がある。
その状態のことを、何と命名していいのか分からないが・・・、確実に感知できる。
アラート状態とでもいうものだ。赤ではないが黄色というもの。
■ アラート状態
ということに気が付いたのは、十二ヶ岳の岩場で、カンテをリードした時に、特段、問題がなかったからだ。
以前に落ちれないビレイヤーで登ったことがあり、同じルートだと、差が鮮やかだったからだ。
この心理状態は、パニックではない。パニックになった状態とは緊迫感がまた違う。パニックは、もっと時間的な切迫感がある。
ただ、あてにならないビレイヤーを見ると、私は決して落ちられない。と決意する。
その決意は、失敗したら後がないと、オール自腹で臨んだ大学受験や財布に2万円しか入っていない状態で渡米したカリフォルニアでの2年と似ている。
今すぐどうこう、というのではないが、手違いが一つでもあると、非常にまずいことになる、という自己認識だ。
その時の心の状態は、とても特殊で、その状態を私はそうでない状態と切り分けられるようになった。
アラート状態(=信頼できない状態)と名付けよう。
■ 心的パワーの半分で登れるところを登る
信頼できない状態だと、心は半ば、怒っている。つまり、矛先が相手へ向いている。
岩には向いていない。要するに、岩に集中はしていない。
しかし、理性では、分かっていない相手へ怒りを向けても仕方がないと分かっている。能力がない母に学資を期待しても仕方がないと、あきらめるようなことだ。
しかし、合理的に考えても、頼るべきところが頼れない分の負担はこちらへ来る。
岩の場合だと、落ちれもしないので、心的パワーが100という容量があるとすると、下のビレイヤーへの怒り、ちゃんとしてないビレイを監視する心配、などに、心的パワーを30程度は、振り向けなくてはならない。
残りの70が、岩に振り向けられる心的パワーになる。
落ちれないということは、技術スキルにゆとりが必要になる。つまり、ギリギリではないということだ。
ギリギリでないためには、70の心的パワーに対して、さらに20%のゆとりを残して、岩にふりむけなくてはならなくなる。
つまり、56の心的パワーしか岩に振り向けられない。確実に落ちないためには、ゆとりの20%は必要だからだ。
ということで、振り向けられる心的パワーの約半分である56が、私が登るべき困難度の限界値となり、そのビレイヤーの元では、自分の能力の半分程度の困難度の岩しか登るべきでない、という結論になる。
能力の限界を試すのは、失敗が許されない環境ではできないのだ。
■ リラックスはできない
その状態の時は、”決して落ちない”という決意が、「こうやってみよっかな~♪」という思考錯誤を楽しむ、気軽な思いを凌駕している。
(落ちてはならぬ) > (こうやってみようかな~)
ここまで書いて気が付いた。 そうか、楽しんでいないんだ。
(楽しみ)はお預けで、(決して落ちてはならぬという義務)が優先。
何事も楽しんでやらねば、スキルは身につかない。
楽しいという思いが土台になければ、岩登りはただの苦行だ。
まぁ、今まで苦行をこなしてきたわけですね(笑)。
■ 苦行から解放
ということは、会を退会したのは、本当に良い選択肢だったのだろう・・・
神は私に楽しめ、と言っているのかもしれない(笑)。
落ちれないビレイヤーで登る苦行は、どんな初歩的なクライマーにも、イラナイ。自分も落ちれないビレイしかしないから、相手の落ちれないビレイを受け入れる、ということは、Lose:Loseの選択肢だ。
岩でも、実生活でも、Win:Winの選択肢が誰にとっても取るべき道だ。
つまり、確実なビレイを身につけ、落ちても止めてもらえるビレイヤーと登る。
クライマーは、まずはビレイを身に付けましょう。そうしなければ、互いに登れるようになりません。