【ここに注意!】人を愛する能力のない人の見分け方/あなたを大切にしない人はこれでわかる!
という動画を見つけ、身長差による歩幅の違いに気が付かない人=人を愛する能力のない人であるという主張を聞いてしまい、いや~これが、ボルト間隔が遠いのが、小さい人に不利なんです、とか、そもそもホールドが遠かったら、小さい人はどんなにムーブがうまくても関係ないんです、ということを受け入れられないクライミング界でみた男性多数派なのではないか?と思ったりしました。
オリンピックの森さんの事件が起きたとき、ヨーロッパのやり方は汚い!と抗議したのが、ほとんどクライマーではない一般観客で、とうの日本のクライマー界は、森もっと頑張れ、の一点張りで、誰も森さんを擁護しなかった。
森さんの身長に対する理解力ゼロ=愛する能力ない、ってことだよなぁ。
ルールに忠実であれ…のアダルトチルドレン丸出しの、その美学で得しているのは、優勝したヨーロッパで、敵に塩を送る結果になってしまっているのが日本。
美学を発動しても、誰もわかってくれないのが、いわゆる世界という舞台ですけどね…。
どんなに努力しても、ガラスの天井みたいな感じですよねぇ…森さんの立場から見たら。アンフェアなやり方で、排除された大会だったよなぁ…。
九州に来て、一緒に登っていたベテランクライマーたちの庇護がなくなり、自分で登り始めたのですが、ほんと、ちゃんと登れるように鍛えてもらっていてよかったです。最初は、山岳総合センターの講習、その後の御坂山岳会、そして最初の師匠鈴木さん、蒼氷の先輩、2番目の師匠の青木さん、故・吉田さん…、ホントに。
九州で初心者時代を過ごしていたら?と考えると、絶対にクライミングをする気にはならなかったであろうと…。つまり、ジム→人工壁→外岩って流れでは、外岩クライマーは作られない。
登山基礎教育→まともな山岳会→岩・沢・氷・雪→師匠に弟子入り→外岩…な流れで成長しました。
最初の、登山基礎教育をすっとばして、手抜きで成長したい人が多い。で、そうなるとダニングクルーガー効果で、リスクに関して自覚がお留守なのに、気持ちばかりはあるという状態になる。
その状態のところに、この動画にあるような相手の歩幅が分からない、つまり、共感力がない人、相手を愛する能力がない人が登場すると?
事故になる。
と、こういう流れで事故が作られるんですね。
私の弱点は、誰にでも初心者時代があるのだから…と、登山基礎教育を受けてこない人を大目に見てしまう癖でした。
登山基礎教育の中に、ロープ長があり、ロープ長を考えつつリードするのはそこにあるんだが…。
現代のジムから外岩に出た人は、ロープは50m。昔の40mではない。だから、日々のショートの外岩では、ロープ長が問題になることがなく、またダブルでの登攀も学習経験がない。外岩のショートはいつもシングルだからだ。
というので、いざマルチピッチに出たら、ダブルの使い方は知らないわ、カムの位置は悪いわ、でロープの流れが作れない、ということが起きるんだなーということが分かった。
結局ショートの岩場に適応したら、ダブルなんていらないからなぁ…。
私が初めて買ったロープはダブルですが、まぁ出番が来ない。明神主稜に行ったときは持って行ったが。
結局、ガイドであっても、ロープが出る山をガイドすることはないので、このロープは出番がないロープである。
海外に登りに行く時もシングルで行くからなぁ…
という結果になって宝の持ち腐れ感があるが(笑)。
どんなに丁寧に予想し、相手のためを思っていても、相手の意図が、ただ登りたい!なんでもいいから登りたい!だったり、承認欲求だったり、自己顕示だったりしたら、その人は、自分の考え方の盲点…実際の登山の考え方に照らし合わせたときの抜け、に気が付くことができない。
だから、思いもよらない事柄で、パーティ全体を危機に陥れる。
その一つが、
・俺のプリフィックスしたカムで登れ、だったり
・ボルト配置の悪く重大事故が連続している課題でも、ボルトの位置訂正を見直さない態度ったり
・サバージョババージョの件のように自分と同じホールドで同じムーブでないと認めん、という態度だったり
・オリンピックでの森さんの件みたいな、リーチによる不可能な可登性の否定だったり
まぁ、もうどう考えても、合理的ではない、感情的な議論で、その裏にあるのは、
自信のなさ、だけでなく、共感力自体の欠如、であるのは、
もしかしたら、常に危険にさらされるクライマーとしては大成することの条件
なのかもしれません。外科医がサイコパスであるように。
厳しい環境を耐えるには、共感性は不利なので。
というので、私はまったくオフガードを突かれたわけですが、昨日はその学習効果を発揮して、また物欲しげな初心者クライマーとの接点はお断りしました。
私自身も初心者だった時代があることは本当にその通りで、多くの人に、「こいつ、分かっていないことを分かっていないな」と思われてきたと思いますが、そのような時点であったとしても…教えてください、初心者なので…と自己申告している時点で
山岳総合センターのリーダー講習は受講済み
雪崩講習受講済み
日赤救急救命受講済み
自分の足で雪の山は行ける段階は終わってからだった
すでに読図はマスターしていた
と、言っていることだけでなく、行動でわかっていない自分を克服しようとしていたわけで…努力が書いていたとは言わせない。
もう、勉強熱心さだけは折り紙付きで、初心者と言える段階は抜けてから、最後の手段で教えてくれと、来ていたわけで…
ジム&人工壁から、外岩に来る人たちとの決定的な違いはそこだった。
最初の師匠や二番目の師匠が、ほんなら面倒見てやろうか、と思う根拠はそこにあるのだったと思う。
でも、私に来る人って、ちゃっかり、そこをやらないで、ただ組みたい、ただ一緒登りたい、登っているグループに混ぜてもらいたいって感じみたいなんですよね…
宿題をしていないのに、おやつのご褒美は欲しい子供みたいな感じ。
宿題は自分でしてきた子が、おやつも食べれる世界で生きてきたので、そうでない人の思考回路を理解するのに時間がかかったが…
そういう子が組みたい!ということで私に来ても、私の命はあなたのただただ登りたいという欲求レベルの願望を満たすだけに生まれてきた命ではないし、“命を預けるには早すぎる”と思った時には、きちんと距離を取るしかない…。悪いけども、の枕詞ですら言いたくない。みんなチャッカリしちゃってる。
距離を取る、ということができるようになってきたような気がする。ジム店長、コスタリカ人、に続く4人目の拒否だが…仕方ないよなぁ。
私にも確実に初心者時代はあった。わかっていない人だったころもあった。それでも、その時に見放さずにいてくれた人たちがいたから、今の自分がある。
だから私は、相手の“分からなさ”を責めないでいたいが、宿題はやってきてもらわないと、おやつは出せないのだ。
それが、本当の「愛の形」なのだと思う。親の愛と同じことですね。甘いだけではだめで、そこに必要なのは、父性なのだということです。
それが、本当の「愛の形」なのだと思う。親の愛と同じことですね。甘いだけではだめで、そこに必要なのは、父性なのだということです。
九州では、甘いだけってのは、「ロープ直がけがローカルルール」に現れていましたが…