2023/03/20

弟の夢

■ 青い枠だけになっていた弟

最近、ビタミンB6が充足して、血液は悪性貧血を脱したが、明晰夢をまた見るようになった。
 
夜中にうなされて、まだ実家にいるという設定の夢を見た。弟にSOSを出して(まだ生きている設定で)呼んだら、来てくれたんだけど…、なんと、薄ーい青い枠だけになっていて…その枠を見て、「あれ?あ、そうか、弟はもう死んだんだった… え?これ夢?」ってわかった。
 
もう枠になっている=もうどこかで輪廻転生している
 
ということがわかった。
 
が、姉がピンチになったら、呼んだら来てくれるということもわかった。
 
■ 頼りにならなかった弟
 
弟は、母子家庭の長女として家事担当していた私と比べて、成長が遅い子供だった。男の子というのは総じてそうだろう…
 
彼は、小学三年生までおねしょをし、中学では運動選手で人気が出て、バレンタインのチョコを14個も、もらって帰ってきた。

私が中学3年生の時、夜中に我が家に忍び込み、私のお腹を触ってくる夜這い男がいた。
 
なんと弟の同級生だった…(汗)。当時、私は、二段ベッドの下、弟は上で寝ていたので、その夜這い男の手がお腹をなでたのに気がついて、飛び起き、当然だが、弟を起こした。
 
けれども、その時の弟の対応は、控えめに言っても、失望、というもの…。 
 
姉が痴漢されているのに、そのことにすら気がつけず、”なんで起こされたんだろう…?”くらいの寝ぼけ眼だった。弟に、”この人、逃さないように捕まえておいて!”と言ったところでボケっとしており、大急ぎで母を呼びに行った…

そいつは後から痴漢と下着の窃盗で捕まった
 
あの時つくづく、弟は頼りにならない、と思ったのだった。
 
後日、この思いをクライミングで追体験することになった。

■ 崩壊する母を共有した、ただ一人の相棒

私が中学に入ったころ、母はバブル景気にほだされ、母子家庭の身分には不相応と思える買い物が相次いだ。
 
レーザーディスク、ワープロ、は、まぁ良いとして、へび革のバック16万円、高級コート15万円。
 
私の靴は、革靴のローファーで、これは、他の子供がローファーを履きだす時期より、1年早かった。
 
母は、もともとが裕福な家の出だったので、そんな調子で、お金の使い方も、出すときは出すみたいな感じだった。
 
が、そのツケは、ちゃんと家計に周り、私が高校に入る頃には、我が家は、食費に欠くような状態だった。そもそも、財布にいくらも入っていないのである。
 
母は、カードローンにハマり、パチンコ漬けになった。自転車回転の家計を母は、下の弟や妹がまだ幼くて、親を万能だと思っていることをいいことに、隠し通していたんだが…たぶん恥ずかしかったのだろうが…私は、かなり早熟な子供で、12歳頃には、普通の大人以上にすでに知性があった…マル経を読んだのがその頃…ので… 母が後戻りできない多重債務の道を歩んでいることは、勘ですぐにわかった。なにしろ、夜中に泣きながら帰って来るのである。
 
当時の私は、母の遅い帰りを待って、夜中まで英語の勉強をしていた。私の脱出口…は、学業しかないと思っていたし、中学生の子供の身分では、働いて自分を成り立たせることはできない。だから、祈り、として勉強していた。学業がゆいつの希望。
 
弟と妹は、母の帰りを待って夜なべしている私とは対象的にすやすや寝ていた。
 
ので、大学進学資金を母に期待することなどできないというのは、誰に言われるでもなく自覚できた。しかし、当時、進学校にいて、進学率が100%だった。どうしろというのだ?
と、私は、絶望に襲われた。絶望感ではなく、本当の絶望。
 
母は、稼ぐ能力がないのに、変にプライドだけは高かった。「お国の世話にはならん!」みたいなのが口癖。実際、当時は、母子家庭への理解も低く、人々の目は厳しかった。
 
でもね、それ、被害を被ってるのは子供ですから…。例えば、母は子どもたちが歯科の診療を受けるのを嫌がった。
 
子供時代に犠牲にしたもの、つまり健康。子供として無邪気に生きる時間。代わりに得たもの、レジリエンス。知性。自分で道を切り開く力。
 
仮に母が母子家庭世帯としてきちんと生活保護をもらっていたら、子供の医療費は、無料だったはずだ。しかし、そうしなかった…。親のプライドの犠牲になったのは、子供の健康。
 
そこらへんは、祖母も同じで、日本国国民として当然のように与えられている権利を行使するのを
 
 
として、受け取らないのだった。が…なぜか、子供には頼って良いと考えているようだった。特に私。言われたのは、家族の絆。
 
しかし、家族の絆という言葉は、私にとっては、一方的に私が家庭に家事貢献するって話であり、弟も妹も、年下だから、という言葉で貢献は要求されない。しかし、年齢差というのは、永遠に埋まらない。
 
自己責任という言葉が、クライミング界で永遠に私にだけ適用されるようだ、というのと似ている。
 
ということは、この家にいる限り、”永遠に”、私は、家族の絆という美名で、自分の時間を持てず、自分を大事にした生き方は、わがまま扱いされ、家族を優先した生き方だけが許される、という意味だった。
 
これもクライミング界で起きたことと同じだ。私は一方的に出すだけでお返しがない。
 
家族を大事にするのは当然だが、自己犠牲はおかしいだろう。人は、誰だって自分を第一に大切にして良いものである。
 
結局は、親がお国に対してええかっこしいをした付けは、子供がそのあおりを受けるだけで、実際、私は、10代のころ、きちんとした歯科医療を受けることができなかった。
 
受けれなかった歯の治療は、大学進学でフルタイム勤務の勤労学生になってから、自分のお金で受けた。このときは非常に満足感があった。歯くらい適切にメンテしたいものだ。
 
その時の歯は、色々経緯があって、後日、最初のインプラントになってしまったが…。問題を先送りしすぎて、ほんの小さな虫歯だったのに、インプラントする羽目になった。
 
当時、外資にヘッドハンティングされ、ドイツの歯科タービンの営業をしていたので、業界でもトップクラスの医師からインプラントを受けた。結構かかったが、自分で払える額満額ギリギリを出した感じだった。
 
それでも、私にとっては、子供時代にお金がなくて、自分の健康を守ってやれなかった子供の自分への罪滅ぼしになった。営業はつまらない仕事ですぐに辞め、インプラントは残った。
 
…という具合で、母のプライドが高すぎるために、なんでもかんでも、
 
 自立自立とうるさい
 
のであるのだが、母も、そして祖母も、掛け声のほうが、実際の実力より大きかった。
 
結局、長女の私が、8歳から18歳の10年間は、主婦として切り盛りした。学校では学業もトップ成績を維持する、という離れ業をしなくてはいけなかった。
 
これは、母子家庭だからと、後ろ指をさされたくないという母のプライドのためで、私は幼稚園、小学校、中学校とお受験していた。そんな子供は私の時代は、クラスで私だけで、中学受験では、学年に二人しかいなかった。結果?当然、合格しましたよ?
 
小・中学校では級長をして、生徒会をして、運動部ではキャプテンをしていた。母の期待に答えるためにこき使われている私に、学校の先生達も、PTAから文句が出ない便利な生徒として便乗したわけだった。
 
そんな中、弟は弟で、学業ではなく、水泳で、母の期待を満たし続けねばならず、結局のところ、親の庇護の下で子供らしく育ったのは、たぶん、妹だけ。
 
弟の生活は、水泳の大会を中心に回っていて、それは、家族も同じで、弟には食わせて泳がせる、って感じだったし、大会のときは一家総出で応援。お陰で弟は小学生の頃から、メダル選手だった。しかし、家族は、大会に振り回されて大変だ。
 
うちではそういう感じに、子供は皆、母の通知表、母が世間に証明する手段だった。
 
弟は、学業のほうは、もう行く高校がない、というくらいの低い成績だったが、実際のところ、母があまりに弟を水泳選手にするのに熱心で、弟としてはすっかりくたびれ切ってしまい、勉強する時間も体力もない、みたいなことだったと思う。
 
母は、ものすごく子供に要求が多い人だったのだ。それを満たすのは誰だって大変。弟も、そのうちの一人だった。私とは別の形で。
 
私には学業を求め、主婦を求め、弟には水泳選手を、そして妹には愛嬌を求めた。
 
思うに、母は本来自分で満たすべきだった承認欲求を子供でリベンジしようとしたのだろう。
 
弟は、そんな窮屈な子供時代を共有した、ただ一人の人であり、相棒、と言えるわけだった。
 
弟は、私が高校一年生でそうしたのと同じく、高校に進学するやいなや、バイトをはじめ、自分の食費は、自分で出すようになった。彼の初めてのバイトは、ドカタ仕事。ヘロヘロになって帰ってきていた。
 
そりゃ、そうするしかないような、空っぽの母の財布だったから…なのだった。
 
高校では給食は出ない。ので、ランチ代を持っていくしかないが、お金もない。結局、ランチ代は自分で稼いでね、って意味だと悟るしかない。
 
そんな高校時代を後にして、 誰にも相談せず、進路を決め、大阪の大学に進学した。18歳だった。その頃は当然、私以外の99%の人が親のスネをかじっている。
 
母には、この進学の名目で、銀行から50万円の無利子のローンが降りた。私がもらったのは17万円だけだ。あとは入学金から、入試までの旅費、模試代、新生活への準備資金、すべて自分で工面した。残りの33万円は、たぶん、実家の食費になったのだろう。
 
高校生で受験勉強しながら、自分で大学進学資金を工面
 
県内トップ進学校で受験勉強しながら、自分で大学進学資金を工面するということは、要するに、モーレツに忙しいということだ。私は、自宅には、皆が寝静まった夜中の2時頃、帰宅し、朝の6時にはバイト先に出るという生活をしていた。家族とわざと鉢合わせしないようにしていた。
 
というのは、一度、夕方に在宅してしまい、夕食を作れというので作って、自分は食べずに、自室で勉強していたら、その夕食を頭からかけられたためである。いなければ、そのようなことも起こらない。
 
つまり、家族に会ってしまうと、家事労働を要求されて、暴力を振るわれ、勉強もバイトもできないからだった。協力してくれたのは、当時の友人達だ。夜中は匿ってもらっていた。
 
睡眠時間は4時間とかなのだが、受験に不要の授業のときは、睡眠にあてて良いという学校の方針で、いらない数学やら化学やらの時間に、美術の部の部室で寝ることもできた。そういうわけで、美術部では絵を書いていた時間より、仮眠室として活用していた時間の方が長い。
 
そうして、進学を名目に家を出て、私はやっと役目…母の代わりを務める、という役割を終わることができた。
 
本当に長く苦しい子供時代だったので、子供時代が終わって、せいせいしたというのが本音だった。いや~、あれに耐えれたのだから、もう何が来ても耐えれる、って感じだった。
 
進学したら、周囲の人は、私が勤労学生というので、気の毒がってくれた。大学の生協バイトでは、みなが引き出物のお椀やら、タオルやらくれた。しかし、あの子供時代に比べたら、大学生なんて、なんという自由な身分だろう…という感じだった。
 
大学では、自分以外の何の役目も求められない。自分のことだけやっていればいいなんて!と、やっと自由を味わう事ができる身分になった…。

 それまでは、走りに行きたい!と思ったところで、そんな時間もない生活だったし、お金は常に食費に消えるか、受験費用だった。
 
大学時代は、フルタイムで働きながら、夜は大学の授業に出て、学費も生活も自腹で払う、という、一般の学生と比べると、かなりハードなライフスタイルなんだが…それでも、天国。元がもっと悪かったから。
 
それどころか、学生寮では自分が年下で、先輩たちがかわいがってくれた。
 
当時、外大図書館の仕事仲間は、そうした私を目撃していた人たちで、色々と助けてくれた。まさにゆりかごで、あそこがあったから、大学を卒業できたのだ。その地位もラッキーで得たわけではなく、自分で仕事をしたいと、履歴書を置いていき、空きがあったら入れてくれと言っておいたのだった。
 
夜学の生活は大変で、挫折する人のほうが多い。
 
しかし、私の場合、前述のように、子供時代がそもそも大変だったし、高校生活は、経済的にほとんど無理ゲーをこなしたため、私からすると、昼間はフルタイムで働いているので安月給とはいえ、安定収入があり、学業も、興味のない一般教養科目などは、単位スレスレのCでいいや、と割り切ることができ、大学、こんなに楽でいいの?みたいな生活だったのだった。

当時は休みの日には、神戸の三宮に、古着屋さん回りに行き、憧れの輸入食材を買うのが楽しかった。

大学2年目には、子供の頃、憧れだったバレエもスタートし、3年目には、大学の先輩たちから、海外での働き口を紹介された。
 
休学して、アメリカへ。働き口が見つかったのが初めての海外旅行の後だったので、財布には2万円しかなかったが、すでにスレスレ生活には耐性ができていたので、なんとも思わなかった。まぁ、先進国で飢えることはないだろうと。

アメリカにも、そのようなカツカツの経済状況で行ったし、向こうでもカツカツで暮らした。が、人生で一番幸せだったのは、アメリカ、サンフランシスコにいた2年間だ。
 
同じように人生スレスレの人たちと、ヒスパニックの貧困エリアで楽しくヒッピー生活をした。
 
日本に帰ってきたら、バブルは崩壊して、就職氷河期に突入し、先輩たちは40社落とされ、同級生たちは失意で田舎に帰っていった。私は、大学でも成績が良いほうだったので、ほとんどの人から、院に進め、と言われたが、すでに背負っている育英会奨学金約400万円の負債を更に大きくする選択肢は、賢い選択肢とは思えなかった。
 
この負債がなければ、日本に帰国することはなかったのだが、大学を卒業しない限り、一括返済だし、アメリカでの働き口と預金がなければ、日本で保証人になってくれた親戚のおじさんに、その弁務が行ってしまう。
 
というので、私のアメリカ移住の夢より、責任を取った形だった。
 
アメリカ住まいは、お金がないことで取れなかった夢だった。
 
当時は、この負債のためにアメリカから帰ってくる羽目になったので、日本で返して、アメリカにとっとと舞い戻る気だった。実際は、返済に20年かかったが。だから、私の人生は、この返済が終わったときに再スタートしている。
 
結局、帰国後の大学4,5年次は、学生通訳やバイト3つ掛け持ち。
 
この頃、恋人のデイビッドが日本に来てくれたりしたが、大変だった。デイビッドは日本語ができなかった。私は、不況下では、図書館の仕事を続けても、就職につながらない、と思い、リスクを取り、短期の派遣業で信用を創造中だった。派遣業は当時は出始めだったが、今と違い、本当に優秀な人しか入れない仕組みになっていた。
 
短期の仕事で、収入が安定しないので、デートクラブなどの怪しいバイトも甘受しないといけなかったし、デイビッドは私の予想外の忙しさから、孤独になり、アル中になってしまった。
 
最後は、三叉神経痛の発作が起き、緊急的に豊中から関空までタクシーを飛ばして、その日の一番早い便に飛び乗って帰国させた。
 
当時は、冷蔵庫は、近所の電気屋さんがくれた粗大ごみに出されていたもの。家具は、円山町で拾ってきたもの。
 
国際会議の事務局や学生通訳、IT系のインストールなどで、実績を貯め、当時まだ、専門職だけに門戸が開かれていた派遣業…実務経験最低2年…の条件をクリアして、松下へ入社したのだった。もともとプログラマー志望だったためだ。14歳でBasic言語を独学している。
 
ロボット事業部は安定した仕事で、その上、私は水があっており、かなりの実績を上げた。バグ管データベースは、MSアクセスでゼロから作った。当時SQLを理解している人は少ない時代だった。ロボット事業部には、ほんとに感謝している。
 
その間、18歳から、24歳まで…私が安定的収入ができたのは、ロボット事業部に入って2年目の25歳になったころ。これは夜学は卒業に5年かかり、私は途中2年、アメリカに行ったので、トータル7年大学にいたことになるためだ。
 
卒業式には出ていない。卒業前から、一般社会人として普通に働いていた。というか、高校生から、働いていたんだが。なんかおとなになったことを祝うという行事は白々しく、もうとっくの昔に大人になっているんですけど?みたいな感じだった。
 
一般の学生より、卒業時の年齢が高かったので、新卒採用は受けていない。当時は第2新卒という言葉もなく、22歳を逃すと、もう2度目のチャンスはないような時代だったが、夜学の学生は、留学などしていなくても、23歳の卒業なので、鼻から新卒採用には含まれない感じだ。
 
とは言え、外大はもともと外交官を排出してきた国立大学としての歴史があり、朝日新聞など、学生バイトは外大生が多く、そのままバイトからスライドして社員採用、というのが定番だったので、私のメーカー就職もそんな感じだった。大学卒業前に、派遣社員で入社したが、2年後には、エンジニアの師匠について、事業部ではなく、更に上の、研究所付きの個人事業主となり、ソフトウェア一本いくら、の仕事をしていた。当時で、年収が一時800万円くらい行った。
 
それまで前倒し人生だったので、やっと一息、ボーナスという感じだ。開発部は、明るい時間に家に帰れることは滅多にない。今思えば、ブラック労働だが、当時は若いし、周囲もそんな感じだし、中島みゆきの”プロジェクトX”のフレーズが、脳内麻薬のように頭に流れており、本当にみなやる気だった。すごいロボットを作るぞ!ってこと。実際、私には大学生活や高校生活のほうが大変だったので、特に問題には思っていなかった。
 
そんな折、弟の訃報が来たのだった…。
 
やっと一息つく、ゆとりができた…と思った矢先のことだった。
 
弟と会えなかった8年間… その8年は、私の人生では最も激動期で、乗るか?そるか?を地で行く時期であり、本当に息をつく間もない、という感じの8年だった。
 
余分なお金は一円もなく、当然、実家には一回も帰っていない。 まだ吹田では、月3万円風呂なしの長屋に住んでいた。顔も険しく怖く、今とはまるで別人。
 
そんな折に死んだ弟… 8年ぶりにあった弟はすでに冷たくなっていた。風貌は、全く知らない男性みたいだった。わたしの知っている子供時代の弟の顔ではなく、大人の男性の顔になっていた…。
 
弟は、死ぬ前の8年間、どんな暮らしをしたのだろう?私は知らない。
 
だから、私が大きな心残りを弟の死に対して持っているのは、不思議なことではない。
 
しかし、私が何か悪いことをしたのだろうか?いや、このような状況に陥れば、誰だってそうだろうことしか、私はしていない。
 
こんな過酷な子供時代…そして、高校から就職まで、私以上のパフォーマンスが出せる人が多いか?と言うと、私ほど、時間も、お金も、下手したら、愛情という投資すらも与えられず、の環境で、こんなにうまくやれた人は、ほとんどいないのではないか?と正直に言って思う。
 
子供は、親の要求が常軌を逸している、ということに気がつけない。
 
気がつくことができない。
 
だから、要求のまま、頑張り続けるしかない。
 
私は一度14歳のときに玄関で気絶したことがある。過労というやつだ。そのときに、私が極度の過労に陥っても、誰も助けてはくれないのだ、ということがわかった。まだ母に従順に、学校の先生に従順に言われるまま、役割をこなし続け、15分刻みの生活をしていた頃だ。
 
つまり、当時から私は健康を犠牲にして、親や周囲の要求をこなしていたと言うことだ。
 
クライミングも同じで、うっかり相手に合わせてやったら、命を取られかねない。
 
大学では、外大の夜学のクラスメートたちは、そもそも卒業できず、退学して実家に帰る人が多かった。公務員をしながら大学に通っていた人たちは、だいたい大卒を諦めて高卒で公務員になることを選んだ。うつで引きこもった人もいたし、自殺してしまったクラスメートもいる。私より良い就職先にありついた人は、外務省に進んだ一人くらいだ。
 
…というので、私なりに精一杯の努力をし、そして、その努力は実った…。
 
大学に行くというのは、私の希望ではなく、大人に強いられたものだったが、一大事業は叶えた。その対価は、健全な高校時代と健康だった。
 
英語を話せるようになるという子供時代の夢も叶えた。その対価は、貧乏暮らしだった。安い対価だった。この時はあまりに楽しく、アトピーは改善した。貧乏は別に気にならなかった。全く話せない状態で出国したが、帰国したら、2度目のTOEICで、ほとんど満点の925点だった(当時の満点は950点)。
 
プログラマーになるという夢も叶えた。その対価は、IT系ブラック労働だった。これも、あまり気にはならなかったかも。そもそも仕事があるだけでありがたい時代だった。
 
27歳で、個人事業主で年収800万円も貰えば、誰だって肩で風を切るような気分になるでしょう…。
 
だが、それでも弟との死別に際して、
 
 8年も会えなかった… この男の人はだれ…?
 
という残念な形の死別をしたことは、本当のことだ。
 
犠牲になったのは、家族との時間だが、犠牲と言うべきかどうか?は怪しい。家族は、私にとっては、この上ない重荷として機能し、あまりゆりかごという形では機能しなかった。
 
母が作ってくれた料理は一つも覚えていないが、幼い頃、お腹が空いて、弟と一緒に作った、あやしげなお焼きのことは、覚えている。小麦粉を水で溶いて焼いてみただけだ。しかし、それも、そのおかげで、料理に興味が湧いた、ということだった。
 
弟が亡くなる前の、あの8年間に、私は弟との接点を設けることができただろうか?
 
Non…
 
残念だが、そんなことは、私がいくら逆境に強くても、不可能なことだった。
 
神でなければ、弟が24歳で突然死することなど、誰が予想できるであろうか?
 
家族と不幸な関係であったのは、子供であった私の責任とは言えない。むしろ、そのような子供時代しか与えることができなかった親の業、というものが、撒いた種だと思える。
 
父も健在だが、彼はずっと子供を助けず、自分の生きる道を選んだ。これは産ませた側のタダの無責任である。
 
おばあちゃんが普通は同居してこういった家庭では親代わりを務めるものだが、そうしなかったことについては、母と祖母の関係が非常に悪かったので、致し方ないのだろうと思う。
 
実際、トライはしてみたいで、祖母は妹が赤ん坊のときはほとんど面倒を見ている。母は?というと、不規則で不安定な仕事をしていた。祖母は、自己犠牲をしないで、母を助けることはできなかったので、結局、犠牲が回ってきたのは、もっとも弱者である子どもたちだった。モロにかぶったのが私で、次が弟だ。
 
色々、考え合わせても、幼い頃の私と弟を救ってくれる手段は、市役所などの行政支援も含め、大人たちの中にはなかった。
 
私も弟も、お互いに、自分で自分を救う必要があった。私は学業で、弟は水泳で。
 
そういう場合、自覚が早いほうが有利である。 私は小学生のときに自分の乗っている船が泥の船だと自覚できた。弟はだいぶ高校生になってからだ。妹なんて社会人になるまで気が付かなかったため、自殺未遂に追いつめられることになった。
 
私は弟と妹は救いたいと思っていた。自分が救命ボートに乗ったら、次は弟を、そして妹を乗せる気だった。しかし、弟の死には間に合わなかった。
 
そのために、クライミングでは、年下の男性には、弟を投影してしまい、必要のない親切をすることになり、そのことで、足元を見られる羽目になった。
 
私の中には、ものすごく大きな罪悪感がある。
 
弟を救命ボートに乗せられなかったことについては、私の能力の及ぶところではない。 心残りであるという事実が覆せないにしても…。

クライミングで、私の親切を利用しようとし、そして実際利用した人は、弟に感謝してほしい。私の弟の死への心残りが、クライミングでの常軌を逸した親切な行動、につながったのだ。
 
いや、逆か…。この心残りのために、すでに楽しみでも、人生をよくする要素でもなんでもなく、賞味期限の切れた、楽しみでしかない、福岡でのクライミングに、見切りをつけることができなかったのだ。
 
まだ何かやれることがあるはず、と思っていたし、悲惨な有様…もう世も末、のていたらく…を見ても、何か理由があるはずだ、と自分の理性的判断を欺いていた。
 
弟が若くして突然死をしなければ、うっかり白亜スラブに行ってしまう… パートナーがいなくて気の毒だ…休みが不定休で気の毒だ…とか、思わなかったであろう…。
 
また、小川山にトポも用意してこない男子を案内する、なんてこともなかったであろう。 

その他諸々、私が起こした不適切な行動は、弟恋し、のために起きた。
 
大体、中学生からは、男の兄弟とは遊びが合わなくなる…。私は小学生時代は、弟にあやとりをつき合わせていたが、彼とは中学以降、一緒に遊んだ覚えはない。小学校の頃は、取っ組み合いの喧嘩をしていたのに。(で、大体、私が勝っていた。)
 
弟とは、うり二つで、そっくりさんで育った。
 
私のほうが男の子に似ていて、”僕?”と良く、男の子に間違われた。しかし、大人になったら、私は子供時代とあまり変わっていないが、弟は別人だった。身長も180cmもあったし、超逆三角形のアスリート体格だった。私とは、もはや似ても似つかない。
 
たぶんクライマーになっていたら、よく登れる人になっていただろう。 頭は悪かったけどね。
 
弟は私より2つ下だった。24歳という若さでの死だった。 
 
クライミングで起きた数々の不愉快な事件で、
 
 どれほど深く自分が弟を愛していたのか?
 
ということを深く知ることになった。