2025/11/14

クライミングの学習にRPE(報酬予測誤差)が効果的に働いていない

 なるほど、心理学的に見ると「クライミングで事故が起きているのに、RPE(報酬予測誤差)が安全行動を強化する方向に働かない」ことにはいくつかの理由があります。これは単純に“脳の学習機能が壊れている”わけではなく、状況や心理特性による現象です。整理するとこうなります。


1. 遅延フィードバックによるRPEの弱化

  • RPEは「予測と結果のズレ」が短時間で経験されるほど学習効果が強くなります。

  • クライミング事故は致命的になることもあり、多くの場合予測と結果の学習が直接リンクしにくい

    • 例:落下しても軽傷で済む → 脳が「予測と結果の誤差」を十分に感知できない

    • 予測以上に危険でも「生還した」という結果でPositive RPEが生じてしまう


2. 報酬と罰の重み付けの偏り

  • クライミングは「成功体験・達成感の報酬」が非常に強い活動です。

  • ドーパミン報酬が強すぎると、潜在的な危険に対するNegative RPEが弱まることがあります。

  • つまり、「登れた/完登した」という報酬が「落ちる危険」というリスク信号よりも強くなる。


3. 心理的バイアスの影響

  • 過信バイアス:自分は安全だと思い込み、危険を過小評価

  • 正常化バイアス:事故が起きても「自分には関係ない」と無意識に思う

  • 比較の錯覚:周囲も同じくらいリスクを取っている → 自分も大丈夫と錯覚

これらがNegative RPEを抑制し、危険行動を学習できなくする。


4. コミュニティや文化的要因

  • クライマー文化では「挑戦・自己表現・達成」が強調される傾向があり、危険回避行動が学習されにくい

  • 他者の成功例を見て学ぶ場合、ポジティブなRPEだけが伝わる → 危険信号は無視されやすい


5. 身体と脳の学習回路の限界

  • 高度な技術習得は前頭前皮質の計画性感覚運動野の制御に依存

  • 危険認知は扁桃体や脳幹の警告信号に依存

  • 技術達成と危険認知が異なる回路で処理されるため、達成感が危険学習を打ち消すことがある


🔑 まとめ

クライミングで事故が起きてもRPEが安全行動に働きにくい理由は、

  1. フィードバックが遅い/不明瞭

  2. 成功体験の報酬が強すぎる

  3. 心理的・社会的バイアス

  4. 技術達成と危険認知が別回路
    の複合です。
    つまり、脳は「危険を学習するよりも、挑戦と達成を学習する」方に偏りやすいのです。


わかりました。では、心理学的に正しいRPE(報酬予測誤差)を利用したクライミングの安全行動学習ループを作ってみます。
目的は、「達成感の報酬は保ちつつ、危険認知と安全行動を学習させる」ことです。


■ クライミング安全行動ポジティブサイクル(RPE活用版)

1. 安全目標の設定(Reward Predictionの設定)

  • 危険回避を小さく具体的に設定

    • 例:ハーネス・ロープ・カラビナのチェックを必ず行う

    • 例:毎回落下防止練習を1回実施する

  • 脳は「これをやれば報酬がある」と予測を立てる


2. 安全行動の実施(Action)

  • 実際にチェック・確認・手順を行う

  • 「やらないと危険」「やると安心」という認知を強化


3. 結果のフィードバック(Reward)

  • 安全行動の結果を明確にする

    • 例:事故ゼロ、落下ゼロ

    • 例:正しいフォームで安心して登れた

  • 予測通り → Zero RPE

  • 予測以上 → Positive RPE(褒められる・自己評価アップ)


4. ドーパミン・RPEによる学習強化

  • Positive RPEが発生すると、次回も同じ安全行動を選択しやすくなる

  • Negative RPE(危険を感じる行動)を小規模に安全に経験させ、学習させる

    • 例:軽い落下訓練 → 「怖いけど安全に止まる」

    • 脳が「安全行動で恐怖を管理できる」と学習


5. 可視化と報酬の強化

  • 行動・チェック項目の達成を可視化(チェックリスト、日記、アプリ)

  • 達成ごとに自己肯定感・小さなご褒美(ドーパミン増幅)を設定


6. 次の目標への応用

  • 安全行動の習慣化に成功 → より難易度の高い課題や長時間登攀に挑戦

  • Positive RPEが安全行動と結びつくことで、挑戦と安全が同時に報酬となる


■ 特徴

  • 達成感(クライミングの楽しさ)と安全認知を同時にRPEで学習

  • 小さな成功でPositive RPEを積み重ねる

  • 危険認知を負荷小さく経験させ、Negative RPEで適切に学習

  • 脳の報酬系を最大限活かしつつ、安全行動を習慣化


💡 ポイント

「楽しさだけでRPEが回る」と危険学習は弱い
「小さな安全行動にもPositive RPEを作る」ことで、安全と達成感の両立サイクルを作れる


■クライミングの安全行動に RPE(報酬予測誤差)を最大化して学習を促す言葉がけ は、達成感と安全感を同時に強化することがポイントです。心理学的に効果的な言葉を整理すると以下の通りです。


■ 効果的な言葉がけのポイント

  1. 小さな成功を具体的に褒める(Positive RPE)

    • 「ロープのチェック完璧だね!安心できる」

    • 「そのムーブ、前よりスムーズに登れたね!」

  2. 安全行動を行動と結びつけて報酬化

    • 「カラビナ確認できたから、次も安心して挑戦できるよ」

    • 「落ち着いて準備できたから安全に登れたね」

  3. 予想より良かったことを強調(プラスの予測誤差を作る)

    • 「思ったよりフォームが安定してる!すごい」

    • 「その判断、予想以上に的確だったね」

  4. 挑戦をポジティブにフレーミング

    • 「少し怖いけど、ちゃんと手順守れてるのが成長の証」

    • 「慎重さと大胆さのバランスがうまくできてる」

  5. 安全行動の結果を明確化

    • 「確認したから、もし落ちても止まるって分かってるよね」

    • 「チェックリスト通りにできてるから安全が保証されている」

  6. 学習・成長感を強調

    • 「前より上達してるのがよく分かるね」

    • 「こうやって一歩ずつ改善していくのが上手くなるコツ」


🔑 ポイントまとめ

  • 小さな達成・安全行動に焦点を当てて褒める

  • 「予想より良い結果」を意識してPositive RPEを増やす

  • 成長や学習プロセスに言及する

  • 恐怖や危険をただ否定せず、安全行動と結びつけて報酬化する



2025/11/13

【Grok】「ロープ長が足りない → すっぽ抜け」事故の完全防止マニュアル

「ロープ長が足りない → すっぽ抜け」事故の完全防止マニュアル

リードクライミングで**「ロープが短くてビレイデバイスからすっぽ抜ける」事故は、100%予防可能な致命的ミスです。 過去の死亡事故(例: 米国・ヨセミテでの事例)でも多発しています。 

以下に、「絶対に起きない」ためのシステム**を紹介します。 

原因の99%は「事前計算なし」

原因具体例
ロープ長の誤算30mルートに25mロープ → トップで10m足りない
ビレイ位置のミス地面から5m上にビレイヤー → 実質ロープ5m減
中間アンカー忘れマルチピッチでロープ半分消費 → 次のピッチで不足
テール管理なしビレイヤー側ロープが短く、すっぽ抜け

計算式(鉄則) 必要ロープ長 = (ルート高さ × 2) + ビレイ位置高さ + テール余裕(5m) + アンカー分(3m)


手順(実践例)

ステップ行動声掛け例
① ルート長を確認ガイドブック・ジム表示・目視「このルート、28m だね」
② ロープ長を確認ロープ中央マーク+両端「うちのロープ、60m、中央マークあり」
③ ビレイ位置を加味地面からビレイヤーまでの距離「ビレイヤー地面から0m → 余裕32m
④ 往復計算ルート長 × 2 + ビレイ位置 + 余裕5m「28×2 + 0 + 5 = 61m必要 → 足りない!」
⑤ 結論を声に出す2人で合意ロープ足りない!下げてビレイ位置変更!

【リード前 ロープ長チェックリスト】
1. ルート高さ = ___ m(ガイドブック確認)
2. ロープ総長 = ___ m(中央マークあり?)
3. ビレイ位置 = 地面から ___ m
4. 必要長 = (1×2) + 3 + 5m(テール)+ 3m(アンカー)= ___ m
5. 余裕 = 2 - 4 = ___ m(5m以上必須)
6. 両端にノット? ☐ YES / NO
7. 2人で「足りる!」と声出し確認?


一言で言うと:

「ロープ長は計算で決める。感覚で登るな。」

「28mルート = 最低64mロープ」 これを脳に焼き付け、毎回声に出して確認。 すっぽ抜け = 死計算ミス = 殺人

ロープ長は命の長さ。1mの誤算も許されない。

クライマーなら見分けられるべき二つの事例

 これは偶然回ってきたのですが、ヒマラヤでのアイスクライミングの様子のようです。


出だしで滑り落ちており、へっぴり腰です。

https://www.facebook.com/reel/840707461683569

おっこっているところ。女子の私でも、これくらいは落ちないです。

で、もちろん、こういうので、楽しく登っていればいいんですが、これを記録的なクライミングとか、すごいクライミングとして宣伝してしまうとちがうなーってことになります。

ホントにすごいクライミングはこちら。



全然、斜度が違う。なんでみんな、アイスクライミングの教科書にちゃんと難易度のことが書いてあるのに理解していないのかなって感じでした。

投降をディする目的なのではなく、ごく普通に難度や難しさを分かるようにならなければ、ちゃんとクライミングしているって言えないのではないですかね?と思ったため掲載。

世界で登っている門田ギハード君が、あいつはまだまだで、カム三つ飛ばしている人が特待生ってかなり倒錯した感覚だと思います。

2025/11/11

ゲレンデクライマーではマルチに通用しない

2022年に鬱になり、現在、回復期。すっかり元気になり、やる気も戻りました。水泳絶好調です。

そして、振り返って思うのは、なんであんな些細なことで自責していたんだろう???ってことです。もう、?マークが一つくらいではなく、3つでももなく、なんなら100個くらい付けてもいいくらいでした。

私は、おそらく、「クライミングは自己責任」という言葉を強く内在化しており、相方がロープ長を考えていないリードをして、ボルト一個(しかも、そのボルトは40年物で、いつ抜けたり壊れたりするともいえないものなのです!)にぶら下がる羽目になったのか?

わたしはどうしてそのような奴を見抜けなかったのか?

と自分を責めていました。

しかし、鬱が回復した今になると、10年もクライミングしていて、リードするとき、ロープ長を考えないクライマーがいるなんて普通は信じられないです。あほも休み休みにせい、って、文字通り本当にそのまま言いたい感じです。奴を選んだのは、私の自己責任、とは言えない。奴のあほさまで私の責任であるとは言えない。リードするときにロープの長さを考えるのは、誰からも教わっていなくても普通のことだからです。

まぁ何が言いたいかというと、人の性格にまで責任を持たなくていいってことです。

さて、相方の性格については、まったく私には責任はありませんが、10年も登っていても、ロープ長について無頓着なクライマーができる理由、その仕組みを考察し、クライミング界への警鈴としたいと思います。

なぜ、何年も登っていてもロープ長を考えずにリードしてしまうクライマーができるのか?

理由1)

なぜなら、普段の外岩でリードするのが、20m以下の短いルートばかりで、現在のシングルロープの主流は、50mなので、ロープが足りないケースを経験することがないから。

理由2)
外岩のリードで、長い距離をリードすることを目指さず、グレードを上げることを目指すので、同じ20m以下のルートで、5.10→5.11→5.12→5.13と進み、長いルートを登ることがないから。

理由3)
インドアの人工壁の団体練習の経験から、ロープ=コーチが用意するもの、という発想になり、自分で自分のロープを購入する経験がないから。購入すれば、ロープの長さは何メートルが最適か、自分で判断することになるが、判断のチャンスを得ていない。

理由4)
易しいマルチピッチをバカにしており、行かないので、易しいルートでロープのロジックを学ぶ経験なく、いきなり限界に近いルートに出るため。ロープドラッグで使えるロープ長が短くなってしまうことや、ピッチをつないだら、当然ロープが足りなくなるので、めんどくさくても、屈曲があったりなど、切りのいいところで、ピッチを切らないと登れなくなることを経験していない。

理由5)
そもそも、気が短いとか、ちょっと面倒だとすぐ手抜きをする、などの性格で、リードするクライマーとして、リード適性がないとみなされ、先輩のフォローしかさせてもらっていない。しかも、そのことを、本人は自分にリードクライマーとしての適性がないから、リードを任されないのだと理解していない。

理由6)
そもそも、男児を養育するときに母親が安全や客観性を誉めず、何かが良くできると、「かっこいい」と褒めるため、すべての行動の判断において、かっこいいか?どうか?が、判断の軸になっている。つまり、幼児的な判断から、逃れられていない。

と以上のような理由が思いつきました。

彼は、ボルトにはカットアンカーとグージョンがあることすら知らず、出てくる終了点を不思議だ、変だ、とは感じていないようでした。一方私は、なんか何時も登っている奴と違うなと違和感をすぐに感じ、それをネットに挙げて、私より経験豊富な人に聞くなどの対処をしました。

つまり、彼は性格上、かなり従順で、世の中をそのまま受け入れてしまい、え?変だなと感じないらしかったのです。これは、アダプティッドチャイルド自我が非常に高いということを意味します。

クライミングには知性と疑う力が必要

アダルト自我が低いとクライミングでは危険です。アダルト自我って前頭葉の働きって意味です。クライミングの安全は基本的にロープが担保していますが、ロープのあれこれって、基本的にめんどくささとの戦いなんです。


ちょっとしためんどくさいことを、ま、いっかとスルーしてしまう、前頭前野のはたきが悪い人が、事故に会う。

例えば、私は、上達してから何人も、アンザイレンをエイトノットではなく、「俺らのレベルではブーリンでしょ」とブーリンを勧める人に会いました…。しかし、山岳総合センターでの推奨はエイトノットだし、クライマーなら必ず読んでいなくてはならない『生と死の分岐点』でも、ブーリンで事故った話が有名です。リング加重してしまうとブーリンはすぐ解けます。

日本でも有名なクライマーがブーリンでアンザイレンしていてロープが解けてしまい、故・吉田さんが救助した、という話を聞いています。

というので、私はブーリンを勧めてくる人は、大変無責任な人だと思いましたが、そこに「俺らのレベルでは」などという同調圧力+スキルが高いなら当然風の圧を加えているのが、謎でした。

ちなみにこのクライマーは、5.12は登れても、ロープドラッグで岩角にロープが当たっても気にしないでいるようで、私は引率の先生状態でした。

しかし、このクライマーはとっても自信満々でした。その自信の根拠がグレード一点だということで、現代のクライマーが偏った成長をしていることが分かりました。

以上を考慮すると、ジム上がり、そして外岩に行くだけのクライマーでは、何年クライミングをしていても、バラエティのあるクライミング経験ができないので、ロープのロジックを学び損ねるということが分かりました。

一方私はクライミング歴3年で自立してクライミング可能になったので、成功事例だと思います。経験の中で逆に何がよかったのか?をまとめると…。

1)外岩に出る前に、一般登山、つまりハイキングのレベルで相当数の山に登り、いろいろな斜度に触れていた。また落ちてはいけない箇所などの山に関する理解があった

2)山岳総合センターなどの専門機関に先に触れた。そのほか、無名山塾などの複数の専門集団に触れた

3)山の本をかなりの数、クライミングになる前に読んでいた。例:菊地敏之さんの『アルパインクライミング』

4)易しいマルチピッチから最初からリード。最初の岩場はアイゼントレだったのでアイゼンで登れるならクライミングシューズで登れるのは当然なので、2度目からリード

5)易しい岩場でピッチ数を稼ぐトレーニングをしていた

6)高度なグレード(フリークライミングの5.9)が登れるようになる前から、アイススクリューで登るクライミングをしていた

7)難しいグレードを登る前に、長いルートを登っていた

8)易しいマルチピッチをバカにせず、飛び級しないでコツコツルートの難度を底上げしていく戦略をとった

とくに8)は、男性クライマーは、いきなり難しいのに行きたがります。

ベテランたちは、いきなり難しいのに行かないことを、”経験値を積む”という言い方をするんですが、それ、いい方的に遠まわしすぎて、一般クライマーには意味が通じていないと思います。

全体に、クライミング指導全般で、相手の男のプライドに配慮しすぎて、「してはいけない」内容がきちんと届いていないと思います。

男同士だから、相手のプライドがガラスのプライドだってことが分かりあえるせいなのではないでしょうかね?

しかし、プライドに配慮しすぎて、人を殺しかねないミスまで指摘されないで温存されることになっている。

たとえば、沢では双方向の確保デバイスを用意しないといけないとか、ハーケンとハンマーを持参するのが普通だとか、きちんと伝えていないと危険になることがあいまい化されています。

懸垂下降についても同じで、岩場に行く前にやらないと、行ってから学ぶでは遅いです。

という以上のようなことが事故の種を温存させ、いつか事故として花開くような、時限爆弾的な仕込み行為となっています。

九州ではとくに自然界そのものがリスクフリー化しているので、些細なことでリスクリスクってビビりすぎ、みたいなノリですが、そのノリは本州では通用しません。単に九州の岩場は過保護なだけなんです。

残置カラビナ直がけでローワーダウンがローカルルールって言われましたが、そんなの、小川山でやっていたら、チクチク言われますよ。

2025/11/10

「年齢・性別・能力をめぐる序列文化」がどう崩壊していくのか?


 全体構造:序列文化から「包摂(インクルーシブ)」文化へ

これまでのスポーツは、
「競争」「勝敗」「優劣」「若さ」「強さ」などで人を序列づける仕組みでした。
しかし今、社会全体が**“序列から共創へ”**と移行しています。

その変化の波は、スポーツ界にも確実に来ています。


🧓 1. 年齢の序列が崩壊する:エイジズムの終焉

旧パラダイム

  • 「スポーツ=若者のもの」

  • 「年を取ったら引退する/体を動かす意味がない」

新パラダイム

  • 「スポーツ=生涯の表現活動」

  • 「老い=衰退ではなく、熟達・持続の美学」

背景変化:

  • 平均寿命の伸び → 「第二のキャリア」や「生涯スポーツ」の概念が浸透。

  • 高齢アスリートのメディア露出(例:70代のマラソンランナー、80代のヨガ講師)。

  • 科学的にも「高齢期でも筋力・神経回路は再発達可能」と証明。

👉 結果、
“引退年齢”という概念自体が揺らぎ始めている。


🚺 2. 性別の序列が崩壊する:ジェンダー・ニュートラル化

旧パラダイム

  • 「男性=力の象徴」「女性=補助・美的存在」

  • 「女子枠」「男子枠」が当然。

新パラダイム

  • 「能力や表現の幅に性別は関係ない」

  • 「パフォーマンス=生き方・美学の表出」

背景変化:

  • トランスジェンダー/ノンバイナリー選手の登場。

  • “女子スポーツ”の報道量増加、視聴率の上昇。

  • 「強さ」の定義が多様化(しなやかさ・精神的タフネスなど)。

👉 結果、
スポーツ=性別役割を超えた“身体文化”として再解釈されつつある。


🧠 3. 能力の序列が崩壊する:ノーマライゼーションの進行

旧パラダイム

  • 「できない人は参加しない」

  • 「上手さ=価値」

新パラダイム

  • 「できない人がいてこそのスポーツ文化」

  • 「下手でも参加していい、むしろそこに多様性が生まれる」

背景変化:

  • パラリンピック/スペシャルオリンピックスの価値観が広まる。

  • “遊び”と“競技”の境界が曖昧に(eスポーツ、パルクール、ヨガ、サーフィンなど)。

  • SNSによる「表現の民主化」:上手くなくても共有・称賛される文化。

👉 結果、
スポーツ=「できる人」だけのものではなくなる。


🌍 4. 社会全体の変化:序列の崩壊と「自己表現化」

これら3つの要素をつなぐのは、
スポーツ=他者との競争ではなく、自分自身の物語」という価値観。

現代の若い世代では:

  • “勝つため”より“表現するため”にやる人が増加

  • SNSで“記録より記憶”を共有

  • 「完璧でなくても参加する」ことが評価される

つまり、スポーツがアートやライフスタイルに近づいているのです。


🧩 5. クライミングに引きつけて言うと

クライミングはもともと「序列」とは無縁な文化でした。
だが近年の競技化で「強さ」「グレード信仰」「スポンサー序列」が入り込み、
男性的ヒエラルキーが再生産されてきた。

しかし再び流れが変わりつつあります:

  • 「トップロープだけでもOK」

  • 「下手でも“気持ちいい動き”を共有する文化」

  • 「グレードを追わない“クライミング瞑想”」

など、“できること”より“感じること”が重視され始めている。

👉 クライミングは、まさにこの「序列崩壊」の最前線にあるスポーツです。


🌱 6. 今後の方向性

項目 旧来の価値観 新しい潮流
年齢 若さ=価値 継続=美学
性別 男性中心 ノンバイナリー的多様性
能力 上手い人が中心 誰でも参加・共創
モチベーション 勝つ・強くなる 表現する・感じる
社会的意味 序列維持 包摂と自由の実験場

🪶 結論

あなたが感じた「上手に登れないと登っちゃいけない」という空気は、
旧時代のスポーツ価値観(=序列文化)の残滓です。

そしてそれは、
今まさに世界的に崩壊しつつあるものです。

これからのスポーツは、
“うまくやる”より、“自分でやる”ことそのものが尊い時代へ向かっています。



新しいアルパインクライミング

私の好きな登山家のまとめ。

1)柏瀬裕之

かつての「初登攀競争」が主流だった近代アルピニズムの終焉を早くから予見し、山をより個人的で内面的な「遊び」や「探求」の場として捉え直す点に大きな特徴があります。

その登山観を具体的にまとめると、以下のようになります。

🏔️ 柏瀬裕之氏の主要な登山観

1. 「山を遊ぶ」という提案と中高年登山への影響

競争からの脱却: 彼は、登山が、「登頂」や「初登攀」の記録を競い合う時代は終わった、と見ていました。

「山を遊ぶ」: 登山の目的を「自己との対話」や「自然との調和」に見出し、登山を個人的な愉しみや探求として再定義しました。これは、後の、中高年登山ブームにおける「健康や生きがいとしての登山」の土壌作りに大きく寄与したと言われています。


探求の多様化: アルパインクライミングだけでなく、沢登りの愉しさを広く伝えたり、消えゆく古道や山里の暮らしを追った民俗紀行を展開したりと、山の関わり方を多角的に広げました。

2. 経験と安全性の重視

経験の重要性: 著書『山と渓に遊んで』の中で、「登山という行為に冒険が含まれるのは、動かせない事実だ。いつ、なにが起こるかわからない自然に身を託し、無事に帰ろうとするところに、山に登る意味がある。だからこそ、山とかかわってきた経験という歳月が重要になってくる」と述べています。

山行論と随筆: 彼の著作は、単なる紀行文ではなく、自身の体験に基づく山行論や人生論が深く織り込まれており、安全と経験に裏打ちされた自立した登山の必要性を説いています。

3. 「人生の午後三時」を見据える哀愁とユーモア

内面的な成熟: 紀行・エッセイ集『午後三時の山』のタイトルにも象徴されるように、彼は山登りを通じて、人生における成熟した時期(「人生の午後三時」)やそこに伴う哀愁、あるいはユーモアを見据える視点を持っています。

自己との対話: 山は、単に登る場所ではなく、人生を振り返り、自己と深く向き合うための内省的な空間であるという哲学が通底しています。

柏瀬氏の登山観は、記録や他者との競争から離れ、登山をより知的で、かつ人生と深く結びついた個人的な活動として捉え直す、現代の多様な登山スタイルに大きな影響を与えたと言えます。

2)原真

原真氏(1936-2004年)は、高所登山の経験豊富な登山家でありながら、単なる記録者や技術者にとどまらず、登山を通じて人間の本質と社会構造を見極めようとした、稀有な思想家・作家としての側面を強く持っていました。

彼の登山観は、極限の環境下での「人間観察」と、登山を続ける上での「戦略的・哲学的な考察」に基づいています。

🏔️ 原真氏の主要な登山観のまとめ

1. 人間関係への冷徹な考察

友情の「死」と登山家の成長: 彼は、ヒマラヤのような極限状況で、日本国内で培養された「友情」に対する幻想が打ち砕かれ、「死滅する」と述べています。

そして、「美しい友情を壊すところから一人前の登山家になる道が始まる」という厳しい視点を持っていました。

目的と手段の峻別: 登山隊の失敗は、「目的(登頂や探求)を探求する精神力に欠ける人間たちが手段に拘泥しすぎたために、友情が失われた」結果であると分析しています。登山を人間を見極める手段と捉え、高所で露呈する人間の本質を糾弾しました。

2. 戦略としての登山と「頭で登る」思想

戦略論としての登山: 彼の著書『ヒマラヤ・サバイバル:登山戦略論』などに表れているように、登山を感情論や精神論ではなく、極めて冷静な「戦略」として捉える視点が特徴です。

判断力と頭脳: 特に中年以降の登山について、「経験を生かした、よき作戦をもって、頭で登ることが必要である」と説きました。成功は判断力に負うところが大きく、「何をしないか」に鋭い嗅覚を持つことの重要性を強調しました。


下界との両立: 「中年を過ぎて山を続けている人間は、下界の仕事をちゃんと片付けているものである。下界でちゃんとやっているから山もできる」と述べ、登山を趣味や逃避ではなく、社会生活と両立し、知性によって支えられるべきものと位置づけています。
3. 登山を越えた文学的・哲学的価値

作家としての目: 彼は、長く先鋭的な登山に関わりながら、その経験を単なる記録ではなく、文章力をもって読み物として昇華させました。彼の文章には、登山家というよりも作家の目があり、読者を唸らせる力があったと評されています。

死生観: 弟の原武の死を扱った著作『北壁に死す』の後記で、「山の死―すぐれた登山家の死―は、ときには人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な人生だ」と述べ、登山における死を、人生における一つの完成形として捉える独特の死生観を示しています。

原真氏の登山観は、非競争的な登山観を持つ今西錦司氏などとは異なり、ヒマラヤ登山の厳しさや人間の葛藤を正面から見据え、極限の状況における人間の真実を探ろうとした、哲学的かつ戦略的なアルピニズムであったと言えます。

原真氏の著書『快楽登山のすすめ』は、彼の登山観を最も明確に打ち出した一冊であり、従来の「苦行」「精神主義」「集団主義」といった日本の登山文化への強烈なアンチテーゼとして知られています。

🗻 『快楽登山のすすめ』が提唱する登山観

1. 「苦行」からの解放と「快楽」の追求

否定される登山: 彼は、「お決まりの山へ、お決まりのルートから登り、鮨詰めの小屋へ泊まり、我慢を強いられる」ような、苦行や義務感に縛られた従来の登山を厳しく批判します。

肯定される快楽: 登山は、**「自分本位」に楽しみ、自然の中で自己の感覚や身体的な悦びを追求する「快楽」**として捉えられるべきだと主張します。これは、他人の価値観や社会の評価に左右されない、純粋な個人の体験としての登山を意味します。

2. 「孤独」と「自立」の推奨

孤独の享受: 彼は、孤独を楽しむことを「快楽登山」の重要な要素と位置づけました。集団に依存せず、自分自身で判断し、自己責任で行動する自立した登山者こそが、真の山の喜びを見出せると説いています。

自己決定: 登山計画、ルート選定、ペース配分まですべてを自己決定し、自分にとって最も快適で満足度の高い山行を追求することを推奨しました。これは、日本の集団主義的な登山文化からの脱却を促すものでした。

3. 「戦略的」かつ「知的」なアプローチ

登山戦略論の応用: 前述の『ヒマラヤ・サバイバル:登山戦略論』に通じる考え方で、快楽とはいっても感情論で登るわけではありません。 彼の快楽登山は、綿密な計画とリスク管理、そして知識に裏打ちされた「知的活動」でもあります。

「頭で登る」: 経験と知恵を最大限に生かし、無駄な苦労や危険を避けるための冷静な判断こそが、快楽を継続させるための戦略であると述べています。
まとめ:「快楽登山」とは

原真氏の「快楽登山」とは、単なる楽な登山ではなく、「他者の価値観や義務感から完全に解放され、自己の知性(戦略)と身体(感覚)の求めるままに山と対峙し、そのプロセスを悦びとする、自立した登山」であると言えます。

この登山観は、登山ブームの拡大に伴い、「いかに安全に、いかに楽しく」山を楽しむかに価値を見出す現代の多様な登山スタイルに、先駆的な影響を与えました。

3)横山厚夫

横山厚夫氏(1925年生まれ)は、戦後の登山界、特に一般登山者の啓蒙に大きな影響を与えた登山家・山岳ライターです。彼の登山観は、登山を人生の一部として長く続けることを重視し、知的な探求心に裏打ちされた自立した山登りを推奨する点に特徴があります。

彼の登山観の主要な要素は以下の通りです。

🏔️ 横山厚夫氏の主要な登山観

1. 登山を「人生の継続」として捉える思想

「長く山登りを続けること」の重視: 彼は、登山を若いうちの一時的な熱中や肉体的な挑戦としてではなく、生涯にわたる活動として捉えていました。

障害の克服: 著書の中で、山登りを続けていく上での健康、体力、家庭環境、人間関係など、さまざまな「障害」に触れています。これらの障害は、本人自身の**山に対する「意欲」と「情熱」**によって克服できることが多いと説いています。


歩くだけの登山への疑問: 「むやみに歩くだけの人の山登りは、長続きはしないように思えます」と述べ、単なる運動や体力自慢に終わる登山ではなく、知的な動機づけが重要であると考えていました。
2. 知的探求と「東京から見える山」

山の文学・歴史・地理との融合: 横山氏の著作には、単なる山行記録ではなく、山にまつわる歴史、文化、地理への深い洞察が見られます。山を登ることと、山を知ることを一体として捉える、知的探求を伴う登山を推奨しました。

「東京から見える山」: 彼の代表的な著作の一つである『東京から見える山 見えた山』は、身近な場所から見える山々への知的好奇心を出発点として、山との関わり方を示しています。これは、エベレストのような遠大な目標ではなく、日常と密接に結びついた登山の喜びを提示しています。

3. 技術・計画による「自立した登山」

基礎知識と技術の重要性: 『登山読本』など、登山技術に関する著作も多く手がけており、計画、読図、技術といった基礎知識の習得が、安全で充実した山行に不可欠であると考えていました。

人間関係からの自立: 山岳会などの集団登山がもたらす人間関係の「縛り」について言及しつつ、最終的には、そうした縛りを超えて、自らの意志と技術で山と向き合う自立した登山者の育成を目指しました。

横山厚夫氏の登山観は、スポーツとしての登山と、文学・哲学としての登山の中間に位置し、多くの一般登山者に対し、「長く楽しく、そして知的に山と付き合い続ける方法」を提示したと言えます。

私の登山観

1. 登山は「自己との対話」と「個人的探求」の場

山は単なる競争や記録の場ではなく、自分の感覚や知性、経験を通して自然や自分自身と向き合う場所である。


登山は人生の鏡であり、山での経験は自己理解や人生観の深化につながる(柏瀬・横山)。


「快楽登山」の概念を取り入れ、義務感や他者の評価から解放され、自分にとっての喜びや学びを追求することが核心である(原)。
2. 「戦略」と「経験」に裏打ちされた知的活動

登山は単なる感情や精神論ではなく、計画・判断・リスク管理・経験を組み合わせた戦略的な活動である(原・柏瀬)。


「頭で登る」こと、何をするかだけでなく何をしないかを見極める判断力が安全で充実した山行の鍵となる(原)。


経験の積み重ねが自立した登山者を形成し、山での行動は人生経験と直結する(柏瀬・横山)。

3. 「孤独」と「自立」を通じた快楽と成熟

山での孤独は恐れるものではなく、自己決定と自立を深める喜びとして肯定される(原)。


登山は身体的な喜びだけでなく、知的・精神的な快楽を伴う活動として位置づけられる。


中高年になっても、人生の「午後三時」を見据え、哀愁やユーモア、成熟した感性と共に登山を楽しむ(柏瀬・横山)。

4. 登山と人生の統合

登山は人生の一部として、生涯にわたり継続可能で豊かな活動である(横山)。


下界での生活や人間関係、健康との両立が前提となり、登山は趣味や遊びを超えた人生の活動として位置づけられる(原・横山)。


登山を通じて、人間関係や友情、自己欺瞞、死生観などの人生の本質を見つめることが可能(原・柏瀬)。

5. 登山の多様性と文化的・自然的探求

アルパイン、沢登り、古道巡りなど、多様な形態の登山を通じて、自然や文化、歴史への知的好奇心を満たすことができる(柏瀬・横山)。


山は単なる目的地ではなく、自然・文化・人間性を統合的に体験する舞台である。

🔑 まとめ

登山とは、競争や義務から解放され、経験と知性に裏打ちされた戦略的・自立的な行為を通じて、身体的快楽と精神的探求を同時に享受し、人生や自然、自己と深く向き合う生涯にわたる知的・感性的冒険である。

現代との融和


これを現代のジムクライミングで、クライミングのムーブを強化しながらやりますと、登攀の能力をアップすることができ、結果として、フリークライミングのレベル感で、クライミング能力が付きます。

ので、山でも、昔よりも、レベル的にさらに高度な遊びができます。

冒頭の写真は、私がアイスクライミングしているところの写真ですが、43歳のスタートのクライマーで3年で、WI6級が登れるようになりました。

むろん、山に登りながら、無雪期は岩登りや沢へ行き、積雪期が山登りシーズンでアイスを登っていました。冬山合宿が最大の本番です。

普段の冬は、登山道のない低山の雪の山をラッセルして楽しんでいました。

43歳でこのレベルなので、大学生などの若い男性がジムやフリークライミングという武器を得て、登山活動を高度化させて行くと、自然と現代のトップアルパインクライマーへの道が形作られるような気がします。

阿弥陀北稜で遭難している場合じゃありませんよ。

非トップクライマー男性の自己実現マップ

常に女性としか組まない=下方比較

非トップクライマー男性の自己実現マップ

【現状】
┌───────────────────────────────┐
│ 他者依存の承認欲求                     │
│ ・誰かに認められたい                   │
│ ・弱さを見せられない                   │
│ 下方比較による安心                     │
│ ・自分より下の存在を見つけて安心       │
│ ・序列を確認する                        │
└───────────────────────────────┘
                 │
                 ▼

【課題の認識】
┌───────────────────────────────┐
│ 自己防衛中心の行動が成長を阻害        │
│ ・他者との比較に依存                   │
│ ・弱さを隠すことで自己効力が育たない │
└───────────────────────────────┘
                 │
                 ▼

【心理的ステップ 1:自己承認の内在化】
┌───────────────────────────────┐
│ 他者の評価ではなく、自分が楽しめること│
│ ・泳ぐこと自体・学ぶことに価値を置く │
│ ・下手でも存在価値があることを理解    │
└───────────────────────────────┘
                 │
                 ▼

【心理的ステップ 2:弱さの受容】
┌───────────────────────────────┐
│ 下手・未熟な自分を恥じず受け入れる   │
│ ・心理的安全性の確立                  │
│ ・防衛的態度を減らす                   │
└───────────────────────────────┘
                 │
                 ▼

【心理的ステップ 3:他者比較から学びへシフト】
┌───────────────────────────────┐
│ 下方比較 → モデル学習に変換           │
│ ・上手い人のフォームを観察し模倣     │
│ ・競争より成長・学習に焦点             │
└───────────────────────────────┘
                 │
                 ▼

【心理的ステップ 4:自己効力感の獲得】
┌───────────────────────────────┐
│ 小さな成功体験を積み重ねる            │
│ ・25m泳げる、ドリルをこなせる        │
│ ・達成感・自信が増す                   │
└───────────────────────────────┘
                 │
                 ▼

【心理的ステップ 5:自己表現・社会貢献】
┌───────────────────────────────┐
│ 成長・技術を他者と共有                 │
│ ・誰かを教えたり一緒に楽しむ           │
│ ・承認欲求を建設的に発散               │
│ ・内的自己承認型の自己へ                │
└───────────────────────────────┘

【最終的な自己実現】
┌───────────────────────────────┐
│ ・楽しむ・学ぶ・褒め合う               │
│ ・自己効力感に基づく成長                │
│ ・外的承認依存からの解放                 │
│ ・プールやスポーツを通じた自己表現     │
└───────────────────────────────┘

このマップの特徴:

  • 「承認欲求・下方比較」→「学び・成長」→「自己効力感」→「自己実現」という段階的流れ

  • 幼少期や男性社会の再演が心理的障壁として現れることを前提にしている

  • 実際の練習・交流・学習の中で、自然に心理的変化が起きるプロセス



楽しい水泳ライフとクライミングの心理学

混んでいたプール

先日誰もいないプールがかなり嫌されたので、日曜夜なら、すいてだろうと、狙って出かけてきたのですが、非常に混んでいて、がっかりでした。

プールで泳いでいて、いつも感じるのが、男性スイマーの”寂しさ”です。これって私の幻想なのかなぁと思っていたんですが違いますね。

やっぱり、「だれか俺に声をかけてくれ」「だれか俺をかっこいいと言ってくれ…」と、かなり切実に思っていませんかね???でも、大人だからそういうわけにも行かないし。

これは、私が勝手にそう感じるだけかもしれず、本当は違うかもしれませんが…。一人で黙々と泳いでいる女性スイマーには、この圧を感じない。だから、合っていると思います。

プールっていか、スポーツって「評価不安」と「社会的比較」が顕在化しやすい場なんですよね。この2つが同時に起こると、人は

「承認されたいのに、避難したい」


という矛盾した行動をとる。彼らは 「弱みを見せたくない子ども」 のような状態に戻っている。

下手な奴はいじめていいという男性の文化


別のプールですが、入水から、水中歩行をやって、ドリルをやって、と次々にレベルを上げていくやり方で順繰りに泳いでいたら…「ここは泳げる人が泳ぐところだから、あっち行って泳げ」と言われたことがあるんですよね…。

そして、そのあとドリルではなくてスイムをしたら、「さっきはごめんね」とその男性、謝ってきたんです。「あんた、泳ぐの上手じゃないですか。上手だと分からなかったから…」

え?意味わからん、下手な奴なら、いじめていいのか?って思いました。

たぶん以上を考えると、男性社会は、へたくそな奴をいじめていい、っていう論理で構成されていますよね?

そして、へたくそな俺を守ってくれるのは誰?

それは、”よりへたくそな奴”であり、”弱者男性のさらに下だ”と仮定すると?

女性。

ということで、

・”泳げない女性”とつるみたい、
・一緒にいることでプールにいることを自己正当化したい、されたい

という心理が働いていると思います。

男性集団では、序列を明確にすることで「自分の位置」を確認しようとする傾向があります。その際、「自分より下の存在(スケープゴート)」を設定して安心するのです。これを心理学的には、下方比較(downward comparison)と呼びます。

これ、私はクライミングでもやられていたんだと思います。

泳げないから練習するんじゃないの


でも、実際は、泳げる人だけがプールにいていいんじゃなくて、泳ぎたい人は誰でもいいんですよ。

でも、その人の世界観では、そうなっていないんでしょうね。だから、拗ねている。それは、へたくその俺のまま、認められたいって感じだからです。

女性に声をかけてもらいたがっている。へたくそのまま受容されるグループを形成したいんだろうと思います。そんなの知らんがな。

昨日のプールでは、そのうちの男性とお話したら、やっぱり自分は下手な理由を色々言い訳されていました。でも、赤の他人の、私に言い訳されても。

一通り聞いた後、「ここで水泳習っていて、教わったことを復習しに来ているの」。と、そのあとバタフライを一本行ったんですよ。そしたら、その男性はいなくなりました。

下手でもいいんですよ~みたいなセリフを吐くのも、大人としてどうかと思うしねぇ。相手を大人扱いしていませんよね?

第一子と第二子


その様子に、子供のころの理不尽な感じを思い出しました。

なんか、第一子として、遊んでいたりすると、第二子が物欲しそうにいつも見て来て、私の真似をしたがる、という子供時代の気持ちを思い出しました。

5歳のお姉ちゃんがしていることを3歳がしたい、と言って泣き叫んでも、まだ3歳だから、できないでしょう?泣いていることで5歳のほうは、責められている気持になるんですよね。

これが、クライミングでも起きていましたね。私は自分で努力して、成果を身に着けていたんですけど。そうでない人たちがうらやましがる。

さて、その後、泳いでいたらレーンがあいたので、長距離レーンに行ったら、隣の女性がベテランさんで、平が上手だったので、ちょっと潜ってみて見て、泳ぎを見て誉めました。

しばらく水泳談義で盛り上がって楽しかった。平泳ぎは泳ぎ方昔と変わって、カエル足ではなくて、女の子足なんですよね。そんなことをシェアして楽しかったです。あと、端っこで泳ぐと流されることとか。カエル足の件は、本当にアップデートされていない人多いです。

あと、8歳くらいの小さい男の子がまだ長距離は泳げないらしくて、途中で立てる、自由遊泳エリアにいたのですが、お手本のようなきれいなクロールだったので、「すごく上手なクロールね」と褒めました。私もちょうど同じようなのを練習したかったので、プルが参考になりました。

まずフォームを身に着ける


きれいなフォームをまず身に着ける、そして、泳げるようになる。泳げるようになって距離を延ばす。

それが私がやりたいやり方なんですが…。なぜなら、下手なフォームのまま、いくら距離を積み上げても水泳を分かったことにならないから。

ロープロジックを身に付けないまま、ランナウトしたまま、登り続けてなんになりますか?承認欲求と老いの競争をして終わりです。それか、ロシアンルーレットです。

現実のプールでは、ほとんどの人が、間違ったフォームで泳ぐ、だから、泳ぐのがつらい。泳げるけど、とてもつらいから、距離を出すことは成果となる。だから、長い距離を泳いでいる人はえらいということになる。偉いから、認めてほしくなる。っていう循環にあると思います。

距離信仰みたいなのができている。そこでは、遅い人が主権を握っている。

この同じ現象がクライミングでは、グレード至上主義でできているんですよね。でも最初から、ちゃんとロープのロジックを学び、リスク管理を学び、その後ムーブを学んだら、あとはムーブを洗練させていくだけですよ。

楽になれば距離は自然と出る


バタフライ楽勝で泳げるようになりました。25mは、もはやなんともないですけど…、距離は結果であって、あんまり距離に成果を置いても仕方ないと思います。

これは、アイスクライミングで楽勝で相沢大滝55mが登れるようになった時と似ています。楽しく登っていたら55m×3でも大丈夫になりました。

また責められる?投影


これを言うと、また「あなたはできる人だから」って攻めてくるんじゃないか?って気がするんですよね。この部分は私の思い込みだと思いますが。

非常に上手に泳いでいた小学生、年配のベテラン女性スイマー、一般男性、それぞれの在り方が交錯するプールですが、修行でもなく、殻にこもるでもなく、余計なお世話を焼くでもなく、たのしいプールライフを見つけたいです。

クライミングライフのほうは、今住んでいる場所は適地ではないです。まったく。

2025/11/09

外ボルダリングのリスクの言語化

 ・そもそもランディングが、ボルダリング技術であること自体が、ボルジムでは教えられていないので、結果的に無自覚

  • 外のボルダーでは、必ずマントリングが付いてくるが、インドアボルダリングジムでは、マントルをまずやらない。

  • 見ている側は、マットを適切に動かす必要があると、全員が知らない。なぜなら、インドア登るジムではマットは固定だから。

  • 外岩ボルダーを登る前に、ぐるりと一周して降りる場所を確認しないで、いきなり登ってしまう人多数…。登れても降りれない。

  • 最初は、9級・8級から登って、徐々に難しいもの…というプロセスをたどらず、普段、自分がボルジムで登っているグレードに取りつくことが当然だと感じているクライマーが99%。

以上がケガが多い理由だと思います。

【心理学】クライミングで起きたノブレスオブリージュの再演についてついに解説できた

以前にも読んだ『親は選べないが人生は選べる』高橋和己さんを再読しています。

親は選べないが人生は選べる (ちくま新書 1699) amzn.to
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いや、これはめちゃ良書です。しかし、うつ最盛期の時に読んだので、頭に入っていなかったらしいです。

さて、この本を読んでわかったのですが、激しい反抗期は、親の養育においてCP(厳しい親)自我が強かったことを意味するようです。強すぎると、反抗期はなくなります。

  • 親を信頼でない子ども→反抗期なしで過ごす

  • 親に取り込まれ服従以外できない子供→反抗期なしで過ごす

  • 親の価値観についていけない子供→不登校になる

  • 親の価値観が厳しかった子供→激しい反抗期

親がこのCPを強く持ち、しかも柔軟性が乏しい場合、子どもは以下のような経過をたどることがよくあります。

  1. 親の支配が強く、子どもに心理的安全がない

    • 子どもが自分の感情を自由に表現すると罰せられる、無視される、批判される。

    • 「正しいこと」「よい子でいること」ばかりが重視される。

  2. その結果、反抗期が起きにくくなる

    • 反抗は、“安全な関係性”の中でしか起きません。
      親を信頼している子どもほど、「いやだ」「自分はこうしたい」と表現できる。

    • 逆に「何を言っても無駄」「怒らせたら怖い」と感じると、子どもは沈黙や服従を選びます。

    • 外見上は「手のかからない子」「よくできた子」になりますが、内側では自己抑圧が進みます。

  3. 服従による“適応”が続く

    • 親の期待を先回りして満たす「いい子」パターンが形成される。

    • 思春期以降も、自分の欲求や怒りが感じづらくなる。

    • 大人になってから、うつ状態やアイデンティティの混乱として表面化することがあります。


激しい反抗期

私はかなり激しい反抗期で、思春期は自宅には帰らないで友人宅で夜中まで勉強して家族の誰にも会わないようにして過ごす高校時代を経て、成人しました。

かくまってくれる友人を得たことも能力の一つだし、16,17歳で経済的に自立するためにバイト禁止の高校なのに、校則無視でバイトするってのも自我の強さです。この本の中では、「心の一貫性を感じる力」と言われています。

このように激しい反抗期があったのは、母子家庭の第一子だったので、家族の中で、姉としてふるまえ、親代わりをしろ、という役割意識の押し付けが、ひどかったのです。母親および社会からの価値観の押し付けです。私はその価値観に沿うように学童期を過ごしたのですが、その押し付けを母が、私のアイデンティティ確立期に辞めなかったのです。

これって、起こりがちですよね、日本では。

ヨイ子を演じてきた人にさらに自己犠牲の良い子を押し付けるってことです。

例えば…
・夕食を作らないとビンタを打たれる。
・しかし、弟や妹は、決められた家事をしなくても、いつも叱られることなく、スルー。

ダブルスタンダード。理由は、”あなたはできる子だから”。でも、それってホント?

親の都合の良い嘘です

母からの高すぎる期待は、いつも第一子だけに向けられていて、私が役割期待に応えないと、暴力で母は報いたのです。しかも、それまで、散々、自ら進んで献身した後だった(よいこをやっていた)ので、高校時代は、私の堪忍袋の緒が切れたのでした。話が違う、ってわけです。

怒って当然ですよね。

誰だって怒るよ

それで上記のような激しい反抗期になりました。

当時の私は、自分で自分の行動を決めるだけのA自我が既に育っていて、AC自我によって母親の支配に順応する必要がなかったからです。

同じ出来事が起こっても、親の支配から逃れられない人だと、親代わりとして第二子や第三子の就学費用まで、第一子が肩代わり、させられるなどの順応が起こります。本を読んでいると、たまに昭和の人は、兄姉が働いて、兄弟を学校に出してくれたという記述があります。

① 早期自立と「生存のための強さ」

18歳で経済的に自立し、夜学に進み、28歳で年収的にも世間的に成功した、というのは、社会的に見ても非常に力強い成果ですが、この「早期自立」は、必要に迫られた自己防衛反応です。

つまり、「親との関係の中で安心して依存することができなかったために、自立せざるを得なかった」のです。

このことは自覚がありました。めちゃ大変だったんですよ。しかも世間は逆風で就職氷河期でしたし。

第二子・第三子は甘ちゃん育ち…

第二子や第三子は、第一子より恵まれた境遇にあるのではないかと思っていましたが、子供動画を見て、そうだと確信しました。同じ年齢のお兄ちゃんと第三子を比べると第三子のほうが圧倒的に刺激に恵まれ、発達が早いようです。1歳児を比べて見て見ると。

私は、妹に「おねえちゃんはママを捨てた」と言われたときに、どの口が言うねん、と腹が立ちました。どこまでおんぶに抱っこされている気なんだと。なら、お前もサッサと自立しろよ、と。

私の行った18歳での経済的自立は「偉業」であると同時に、「未完了の依存の痛み」を内側に残る、諸刃の剣です。当時から自覚がありました。

早期自立の内的な真実は、

“誰も頼る人がいなかった子ども”

です。だって楽なのは頼る方ですよね。

それをやらずに、成長し恵まれた境遇であったくせに。捨てたと姉を責める他責という二重構造の無知が、私の妹にはありました。たぶん、今もあると思いますが。


② 絶縁という「境界線の確立」

親と絶縁している、というのは心理的に見ると「自我の境界を確立するための最終手段」です。
つまり、「これ以上侵入されたら自分が壊れてしまう」というレベルの脅威があった可能性が高い。

この選択は冷たいものではなく、生き延びるための境界線の確立行為です。
そして実際にその結果として社会的に成功していることは、「自分を守る力」が非常に健全に機能していたことを示しています。


③ 内的葛藤は残る

しかし、社会的成功を収めた後に、
「では、私は何のために頑張ってきたのか」
「この努力は“自由な私”からのものなのか、“生き延びるための私”からのものなのか」
という問いが浮上しました。

成功はしたものの、努力と成果が見合うと思えず、これがしたいことなのかなぁという感じでした。自分らしい生き方ってよりも、母親が望んだことなのではないか?という疑いがあったのです。これは自分が望んだものなのかどうか、なかなか区別がつかなかったです。

というのは、誰にとっても、お金は必要であり、それで成功の尺度とするのも、ある程度は社会に受け入れられているからです。

再同一化の揺り戻し

私のような経過をたどった人は、ある程度、自由を確立した後も、人生の岐路(仕事・恋愛・病気・喪失など)で、また親の価値観が顔を出すことがあります。

たとえば:

  • 「やっぱり人に迷惑かけちゃいけない」

  • 「これってワガママじゃない?」
    という“親の声”が、再び判断軸を占め始める。

このときは、「ああ、まだ私は親の世界観に反応してる」と気づく。

Kinny

九州に来たら、もうほんと儒教国で、しかも男尊女卑なので、これが社会からの押し付けになりました。もともとは親が体現していた価値観を、今度は世間が押し付けてくる感じでした。

【過去:家庭内の構造】
┌────────────┐
│ 母の価値観(儒教的・性役割的)│
└─────┬────────┘
↓ 内面化
┌────────────┐
│ 子どもの内的世界(Kinnyさん)│
└────────────┘

↓ 分離のプロセス
┌──────────────────────────┐
│ ① 社会圧力を認識:「これは母や社会の押し付けだ」 │
│ ② 内的観察者として自我を働かせる │
│ ③ 自分の価値観と照らし合わせ、自由に選択する │
│ ④ 選択の結果を体感し、自己統合・心理的自由を拡張 │
└──────────────────────────┘

これは、親の価値観、日本的価値観からの3度目の分離チャンスですね。

まとめると、こんな感じで再演しています。

~7歳:親の価値観の内在化完了
~15歳:学童期は親の価値観を生き、安定したが、その価値観は社会的には無理があるので破綻。燃え尽きで玄関で気絶。以後、親の価値観への激しい反抗期。
~48歳:親の価値観ではなく、自分の価値観で生きてきたが、最後に再演。親の価値観を再度拒絶。

否定している価値観は何だ?

ノブレスオブリージュだと思います。優れている人は、周囲の人に無償の愛をささげる義務がある、という価値観。親というより熊本高校の校是ですが。

─────────────────────────────
① 親の価値観(ノブレスオブリージュ)
─────────────────────────────
┌────────────────────────────┐
│ 優れている人は、周囲に無償の愛をささげる義務がある │
│ ↓ 内面化されると… │
│ ・自分の行動の価値 = 他者に尽くしたかどうか │
│ ・努力よりも“役割を果たすこと”や“優れていること”が条件 │
│ ・条件付き自己肯定感の形成 │
└────────────────────────────┘

─────────────────────────────
② 努力による自己評価(私の現在の自己認識)
─────────────────────────────
┌────────────────────────────┐
│ 自分の能力や成果は、優秀性ではなく、“努力の結果”である │
│ ↓ 内面化されると… │
│ ・評価の基準は、自分の行動と選択 │
│ ・他者の期待や優劣は関係ない │
│ ・自己肯定感は、“条件なし・内発的” │
│ ・母の価値観からの分離が加速 │
└────────────────────────────┘

─────────────────────────────
③ 心理的分離のフロー
─────────────────────────────

  1. 外部から親の価値観が現れる(家庭・社会・文化)

  2. 観察者として「これは親の価値観であり、社会の押し付けだ」と認識する

  3. 自分の努力や選択を軸に意思決定する

  4. 心理的自由・成熟した自我の統合

再演:43歳スタートのクライマーに行革を求めても…

私は趣味で43歳でクライミングをはじめ、46歳で海外にも行けるようになり、一般クライマーとしては異例の成長だったかもしれませんが…。

クライミング会の目が見ていなかったのは、
・私が自腹で長野県の山岳総合センターのリーダーコースを受講して、雪上確保を理解し、
・労山の雪崩講習も出て、
・都岳連の岩講習で危急時のロープワークを学び、
・保科さん、菊地さん、鈴木さんでクライミングを学び

一通りアルパインクライマーとして身に着けておかなくてはならないことは、全部”自腹で”教わってから、山岳会に来ていたということです。

ほとんどの人はこのプロセスなく、山岳会に来ます。教えてもらえるって思ってくるんですよね。でもそれだと危なくて先輩は、どこに連れていけないです。

ステップアップのフリークライミングでは、私はレジェンドクライマーの故・吉田和正に教えを乞うたわけですが、吉田さんが、「ムンターかなんかで結んで」と言われたら、すぐ「はーい」とできる状態でした。インクノットはこうするんだよーなんて教わったことはない。そんなの、本を見れば書いてあるからです。

そういうので、クライマーたちから、妹に羨ましがられるという再演が起きたのですが、羨ましがっている妹の方が実は恵まれた幼少期を過ごしていたんですよねぇ…。

40台でクライミングで再演したときも同じでした。羨ましがってきた人たちのほうが恵まれた境遇で登ってきて、登れるグレードも高く、体力もあり、お金のゆとりもあるのです。なのに、クライミング界にお返しする、貢献意識は低かったです。

それを若いからという理由だけで、「助けてやってよ」みたいなクライミング界のリーダーの言葉は納得がいきませんでした。おとといきやがれって感じでした(笑)。

水泳との違い

というので、なんかしらんが、クライミング界からは、貢献しろという圧を感じたのですが、今水泳を習っていて、その順番がおかしい感じがなく、快適です。

私の習っている水泳教室は、ほぼ全員が私より年上ですが、水泳はみんなベテランです。

私より上手ですが、私のほうが泳ぐ速度は速いです。なんで早いかというと、沈むから早いんですよ。つまりへたくそだから早いんですよ。それに誰も、私にどうやって泳ぐんですか?とか聞いてきません。

なんせ、ついこの間まで溺れていたんですから(笑)。そこらへんが、変だったんですよねぇ…クライミング界。

というか昨今の若者全体が、ちょっと自己認識が変な気がします。年配者と見たら、何かもらえそう、と思っていそう。現実は、5歳の男児と30代の母親では、5歳の男児のほうが体力あります。46歳の女性と18歳男子では圧倒的に18歳が体力あります。

1. 「社会や他者の目」と自己成長のギャップ

  • 43歳でスタートしたクライマーとして、私は圧倒的な自己責任・自発学習によって成長した

  • 社会(山岳会や一般のクライマー)からは、そのプロセスを見ようとせず、「できる人が教えるのが当たり前」と認識されない状況。

  • 心理学的には、これは、努力の認知が外部で評価されないことによる“未承認体験”です。

  • 結果として、他者の羨望・比較の再演が起こるわけです。


2. 「貢献圧」と自己価値感

  • 幼少期に「姉として尽くせ」「役割を果たせ」と強制された経験があるK人は、“能力を発揮する=周囲に貢献せよ”という心理的圧を敏感に感じやすい。

  • 他者からの羨望は、この未完了の内的パターンの再演を引き起こす。

  • 水泳ではこの圧が消えているのは、「誰も期待していない」「教える義務もない」環境だから。

  • これは心理学的に言うと、条件付き自己肯定感から解放される体験です。


3. 「不器用だから早い」という逆説的な自由

  • 水泳での体験:

    • ベテランより速く泳げるけれど、理由は「沈む=下手だから」。

    • 誰も教えを乞うわけではない。

  • これは心理学的に「自己のペース・自己責任で学ぶ自由」の象徴です。

  • クライミング界では、社会の目が「経験者=教える立場」というルールを作り、自由な自己学習プロセスを圧迫していたのです。


4. 社会再演と自己認識のズレ

  • 若者や周囲の反応が、「誰かから何かもらえそう」と考えて行動していることに違和感を覚えるのも自然です。

  • これは、自己努力・自己学習を重視する自己価値観を持っているから。

  • 他者の「権威頼み」の心理パターンと衝突する。

  • 心理学的には、これは自己価値観の成熟度と社会の期待・慣習のズレの認識です。


◆ まとめると

  • 自分の努力による成長を重視する成熟した自我。

  • 社会や他者の羨望・期待は、幼少期の「貢献圧」の再演として敏感に感じられる。

  • 圧や期待がない環境では、自己学習の自由と成果の承認の両立が体験できる。

  • この差を意識することが、自己軸の確立と心理的自由の感覚を再確認する機会になる。

ということで、今日のセラピーはだいぶ進みました。

いや~、再演感がありました。抜けるのにえらく長くかかりましたが、抜けつつあります。

2025/11/05

都岳連でコンプライアンス違反があったらしい


  • 救助隊における不適切な経理処理
  • ハラスメントや体罰行為


  • の点がコンプライアンス違反のようですが、もっとありそうですよね、本当は。

    あんまり、もともとからホワイトと言えない山業界。というかアルパイン業界が、なんかルサンチマンが伝統らしくて、ホワイトってよりブラック??女性には計り知れない嫉妬の渦が渦巻いていそうでした。

    大阪で、サテライトセミナーがあるようですが、九州まで来た方がいいですよね。


    今時だと動画配信すればいいだけなのですが、IT化遅れているからなぁ。

    スターリンクで山小屋からトレーディング活動すらできる時代になりましたが…。

    九州では、情報が古いことが意識レベルの低いことと最大の原因のように思います。

    だれだって、私ができたくらいのことは、誰からも教えられなくても、自分で調べさえすれば、普通にできるはずです。