■ NVC=ノンバイオレンスコミュニケーション
という手法がありますが、内容は
セルフコンパッション=自分で自分に優しくする、
という活動です。
昨日の内容は、こちらです。中尾佳貴さんという方のワークショップに参加しています。
https://www.facebook.com/share/v/18CB6PhnDA/
■ 達成感、以外の価値
私は、登山は、雪の山からスタートしたのですが…、自分の中では、最初から、
達成感以外の価値
を追い求めてきたつもりでした…ところが、他の人からは、
達成感マニアックな人
である、という”レッテル張り”を受けることが多かったです。
お上りさんのころの西穂独評 ウエアもまだ持っていないので普通の服■ 他者の投影(期待)を生きるのが嫌 = 母の投影を生きるのが嫌
なんか違うな感があったんですよね…それは動物的勘だったのかも?
「〇〇さん(私のこと)は、努力で今までいろいろなことを達成してきたひとですからね」
という”励まし”とか…。
え?全然違うけど?!
他には、
「また、アシュタンガヨガも、達成されるんでしょうね…」
という”羨望”あるいは”非難”とか、はては
こんなのもあった…。
「また、目標を立てて達成するのかよ…(ダメな奴)」という”非難”や”軽蔑”とか…。
これらは、全部、その人の
努力できる人が正しい
のに、俺はできない…
ので、お前がやれ…
という”投影”だったみたいです。その投影が私になされたとき…なんか違和感。
私が行きたい方向性ではないところへ、向かわされそうな気がしました…
特にはっきりしたのは、スピードクライミングのコーチなんかを
誰でもできます
とかで、なんか押し付けられよう…としているような気配があったとき…
だって、アルパインのクライマーにスピード競技って??全く水と油ですよね?
逆から見えれば、それだけ、九州で出会った人たちにとって、私というイメージが
成功者(風)
に見えていたということですね。相手の勝手なイメージですが。
だから、私がグレードを追い求めないと、”なんでだよ!お前は、”努力の人”でないとダメだろ”と相手は怒ることになる。
クライマー界全員がこぞって参加している競争が、現在のところグレード競争だからです。
キリがない競争…満足もない。
報酬と罰の強化…になっている…。
そうなると、どう考えても挫折しか待っていませんよね?
”ありのままの私”、”3年で5.10代を登る私”、”普通のクライマーである私” を受け入れてもらえなくて嫌だった…!!!
最初っから、私はグレードはどうでもいいんですよ。雪の山が好きだから行っていたんで。
なので、九州で雪の山がないから、なんかつまんないなーと思う。そりゃそうだ。
40代スタートでもクライミングが楽しめること、それが私の価値なんで。
私があなたの理想の投影を生きないからと言って、私に向けて、要求されても、困ります…
■ 中尾さんの言葉
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<やる価値があるものは、下手くそでも、やる価値がある>
そう考える人は少ない。この言葉は非暴力コミュニケーションを体系づけたローゼンバーグ博士の言葉である。
多くの人は他人と比べて優れていることや自分が納得できるレベルであることを重要視する。
しかし、それではそれ自体に「やる価値」があるのではなく、「上手な人がやるから価値がある」ということになる。
そんなことを気にしているのは一部の大人だけだ。子供を見ればすぐに分かるだろう。彼らは周りの子供たちと比べたり、大人と比べたりすることなどせずに、真剣に無我夢中にそれ自体を楽しむ。そんな子供の眼を大人たちは何度も見てきただろうし、自分自身もそうだったはずだ。
しかし残念なことにそんな子供たちのイキイキとした眼を奪うのは大人たちの評価であり、レッテルである。そんな経験をあなたもしてきたことだろう。被害者として加害者として。
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■ 中尾さんはヒマラヤを歩いてきた若者でした
この中尾さんは、ヒマラヤのエベレスト街道につながる、その前座のテンジン・ヒラリートレイルで、中腹の町をつないで、古い古道を歩いてきた人でした。
で、情報もないのに、そこへ行ったことに、充実感を感じたそうです。特に、3パストレイルには、情報がなく、とても怖かったそうです。
しかし、ヒマラヤに行ってみると、偶然、エベレストを良く知っているガイドさんに出会い、その人がちゃんと教えてくれたのだとか…。それに、強い喜びと生きていく強さを感じたそうです。
求めよ、さらば与えられん、な感じというか…。世界は豊かで大きくて、望めば、それは実現する、ということです。
みなさん、最初から、実現をあきらめていませんか?
もちろん、50代、60代になって、5.12目指すというような、非人間的というか、チャレンジする怖さはないが、超人的と言われうるもの…いうなれば、
”すごいという賞賛ばかり” 求めていますよね???
そんなの、私は求めていない。与えてもいない。
どこにも冒険がない山は好きじゃない。
いわゆるチャレンジって、ただのスポコンで、ただ未知への怖さを乗り越える必要はなく、つまり冒険精神がなく、ただ肉体の辛抱だけ乗り越えれば、もしかして達成できるかも?みたいなことに望みをつないでいませんか? まるで人間であることを超えようかとでもいうように…。
そんな、非現実的な望み、望んだことはないですよ。私の山の達成において。
そこの切り分けがみんなできないのではないかと思うのですが…。
というより、
やりたいことだけど、知らないから、怖い、
という恐怖に打ち勝つということです。英雄気取りするためのすごいではなく…本当の勇気のこと。
これに負けてやらないで済ませる人こそ、ほんもののカワード、臆病者、です。
パソコンが怖いからって逃げているのは誰です?
■ 8割くらいのことはやったことがなくてもできる
私の感覚では、物事の8割くらいは、やったことがなくても、できるもの、です。
かくいう私も、出張先のウェリントンで、クライミングしてみる?と水を向けられ、えー?無理無理!!!と、首をブンブンと横に振ったのでした…
でも、今じゃその辺の人より、登れますからね…。
そう… 私が強く、クライマーにお勧めしたいこと、特にクライマーじゃなくても、日本人全員にお勧めしたいことも同じことです。
怖がらず、試してみよう!
そして
色々な人に助けてもらおう!
ってことです。
願っていれば、多くの人にあなたのしたいことが透けてみえたり、何がしたいことなのか?を語ることになるので、それを聞いた人から、助けは来ます。
でも、最初、ちょっと怖いのです。
その恐怖をなしでやろう…と期待していても、無理なんです。
なぜなら、怖い!っていうのは、誰にでもあること、で、知らないことが怖いのは、ほとんど、動物の必然だからです。
でも、行ってみて、やってみれば、全然そんなことはなく、怖かったのは、
思い込みだったんだー
と8割はなります。
■ 山をやる人間に悪人はいない、は嘘
私は、山ヤはみないい人だ、とか、クライマーはいい人だ~というのは、いつもそうではない、ということを今回は学びました。
九州ではいまだにカットアンカーを用いて開拓しており、
大ランナウトで小川山コンプレックスを解消しようとしており、
山岳会はどこも頼りにならず、
クライミングジムは素人さんの集まりで、
訪問外国人はロープもビレイ器も持ってこないで、
ローカルクライマーの善意にぶら下がってクライミングしようという、ちゃっかりした輩ばかっかり・・・
のようでした(笑)。
さて、セルフコンパッションの考え方が以下です。
■ 左が自己批判 → 右がセルフコンパッション
・自分なんて苦しんで当然だ → 誰だって苦しむときがある
・上手く行かないのは自分が悪いからだ → 困難から学んで成長できる
・自分の能力が低くなければこんな風にならなかった→どれほど立派な人でもみんな苦しい経験をしている
・人生は苦しいばかりで希望などない → 人生に困難はつきもの
・こんなに人生が上手く行く資格はない → 私にもみんなと同じように人生をうまくやる資格があるはずだ
・そのうち悪いことが起るに違いない → 先のことは分からない
・上手く行ったことは偶然だったといずれバレるに違いない → 誰かが私を本当に理解してくれれば好きになってくれるに違いない
・自分が上手く行って喜んでいるのをみられたら、その人に嫌われてしまうだろう→私を嫉妬する人がいたとしたら、その人は自分の中にある美しいものを認識する方法を学んでいないからだ
■ クライマーバージョン
・クライマーなんだから苦しんで当然だ → クライマーでなくても、苦しむときがある
・上手く登れないのは自分が悪いからだ → 他に登れない要因があることもある。
・自分の能力がクライミング能力が低くなければ、落ちなかった → どれほど立派な人でも最初は新人時代を経験している
・クライミングは苦しいばかりで希望などない → クライミングに困難はつきもの
・こんなにクライミングが上手く行く資格はない → 私にもみんなと同じようにクライミングをうまくやる資格があるはずだ
・そのうち大怪我するに違いない → 大怪我する前に考え方や行動を修正しよう
・上手く登れたことは偶然だったといずれバレるに違いない → 誰かが私を本当に理解してくれれば、一緒に登ってくれるに違いない
・自分が上手く登って喜んでいるのをみられたら、その人に嫌われてしまうだろう → 私を嫉妬する人がいたとしたら、その人は自分の中にあるクライマーとしての宝を認識する方法を学んでいないからだ