■ 自己変容にブレーキが低い人=独学タイプの人
心理カウンセリングについて、もしかすると、
”独学で何でもこなせて、大体のことを一人で解決してきた人”と言うのは、誰か、ほかの人を理解する、という立場からは、最も遠いのかもしれない…と不安になっている、今この一瞬…。
というのは、行動変容において、
自分にメリットがないと分かっている悪習慣などをなぜ変容させることができないのか?
そこのところが、独学の人は、ブレーキが非常に低いということだからだ…。
■ ヨガ講師時代
ヨガの講師を職業でやっているときは、人の体を触ることで、どういう風にすれば、アーサナが上達するのか?ということについては、かなり深い洞察が得られ、生徒さんもみなさん上達し、かなり深く感動したんだが…。
クライミングで落ちいった、”なんでできないのか?の沼”に落ちそうで怖い…。
ヨガ時代は、なんでできないのか?沼には陥らなかった…。なぜなら、”前提”として、そもそも、アーサナの習得が一朝一夕にできるものではないからだ。
■ Whyクエスチョンの危険性
Whyというクエスチョンは、危険だ。
なぜトポを読めないのか? → 「なぜなら無能だから…」
に落ち着きそうになるリスクがある。
なので、質問を「どうすれば?」とか、「どのように?」のほうに質問を変えてきた…のだが…それでもクライミングでは、他者の行動変容を促すことはできず、白亜スラブでは、私は、目下の男性が気の毒だ、という心理トラップにまんまとひっかっかり…(このトラップは生い立ちから来る)、自分の一つしかない生命を危険にさらすことになった。
その後、長い時間、考えて理解したことは、
九州でのクライミングにおける最大の挫折は、
九州のクライマーがそもそも安全を求めていない
と言うきづき(笑)。
そこに気が付いていなかったんですねぇ(笑)。
私自身が、
クライミングで死ぬのは、かっこいいという二次利得がある
とは…全然気が付いていなかったんですよね…。
一般的に女性は、現実主義者なので、タダの犬死を美化することはないので…。
■ かっこいい死にざま、という内容の再定義
しかし、一般的に言っても、男性の一般的傾向として
かっこいい死にざまを求める、
というのも現代人には、心理ニーズとしてある。
クライミングの場合、それを手っ取り早く満たす活動であるという側面も否定できない。
例えば、マーク・アンドレの死は、母親の目には痛ましい犬死だが、若い男性の目には、かっこいい死にざまに見える人もいるだろう。ディーン・ポッターなどもそうだろう…。
現実主義の女性から見たら、ただの犬死にしか見えないですけど、そこは男女の性差の価値観の違いなので、埋めようがない。
男性にとって、どのような中身であれ、”かっこいい”という定義をされたものが、どれだけ大事にされるものか…。
その執着心はすごいので、変えるべきは、
何をかっこいいと考えるべきなのか?という中身のほう
なのである。
昔の山やは、目をつぶっていてもロープが結べたり、岩角で流れなくなるようなロープの配分はご法度だったんですよ…
ところが今では、すっかり、そこは、”かっこいいこと”に分類されなくなった。
そこが問題なのです。
ロープクライミングにおける、ロープ軽視、は命取り、と誰も教える人がいなくなったということですね…
いやはや…。ちなみに私のあこがれはこれです。永遠に雪の山を歩きたいのです…