2024/12/13
【フレッドベッキー化】Happyクライミング♪ クライマーはクライミングだけしていればいい?んなわけないじゃん。
2024/12/12
【クライミングによる地域おこし】町は町民のもの、という視点がすっかり抜け落ちている?
■ロクスノに掲載の、日本アルパインクライミング協会の瑞牆・小川山集会の報告書
最近ロクスノに載っていたんで、ネットに上げておいてよ~と思いつつ…
読んだんですが…これだから、上手く行かないのだろう…と思います。
理由1)
町の代表者(行政職員)は、町民を代弁しているわけではない、ということに無自覚だから。
たぶん、都会の感覚だから、だと思うのですが、日本って民主主義ですよね?で、民主主義っていうのは、国民が主権をもっていて、官僚とかが持っているわけじゃないですよね?国家公務員って国民の代表?違いますよね?
同じことで、〇〇町だったら、町民を代表しているのは、〇〇町議。市だったら、市議。
それでも、代表している感じは少なくて、組長レベルまで下げないと、町の人たちは自分たちの意見が取り入れられているって考えないんですよ…。町長レベルでも、微妙で、もっと小さい集落に田舎って言うのは分かれているんですよ。椎葉村なんて、村の中に18個だっけ?別々に集落があり、それぞれ個性も考え方も違う、という合衆国状態…つまり、まさに衆が合わさった、状態でした。
ので、細かいことを言えば、須玉町と増富町では、たぶん、何をどうメリットと考えるのか?、事情が違うんですよ。
そういうのは、住まないと分からない…。誰が有力な人で地域で発言権が強い人、頼られている人、人望が篤い人なのか分からない…。
理由2)
その結果、全く地域の一般住民はスルーされれており、ついでに地元の山岳会ですら、ほぼスルーされて、山梨県岳連に連絡しておけば、義理は通したぞ、程度のことになっており、
行政と、有志という名の東京方面の”勝手に”(…と田舎からは見える)トポを出したクライマーと同じく、”勝手”に(…と田舎からは見える)名乗っている協会…なんとか協会とやらが話し合ってるぜ、と地元に人に言われても、仕方ないよなぁ…
議論から、疎外していることは、事実だからです…。
なぜ、組長、町長、須玉町、増富町、と話をしないのでしょう?
町の未来は、町の人々が主体性を持って決めるもの、なのに…
なので、これまでも上手く行かなかったのはこのような都会からのクライマーのアプローチの方法にあったのではないでしょうか?
もちろん、クライマー側は、義務感というか、責任感からこのような活動を立ち上げたのだと思いますが…。
一人一人のおじいちゃん、おばあちゃんと接する立場の人と話をするのが大事ですよ。
これじゃ、例えば、話がまとまったとしても、
明日からこうします、と上から言われた
という印象になってしまい、
そんなの聞いていない!
と地元の人々は反発を感じる結果になっても仕方ないよなぁ…
と思います。
心配だなぁ…。
■ クライマーは基本、共感力がない=相手の立場を考える力が弱い
逆の立場になったらどうです??
昨日まで、裏山で茅場だった林が、ここは国立(県立・市立)公園内だし、
「クライマーや登山者にも、権利があるんですから!」
とか言われて、町や市、県が、予算を使って、勝手に整備し始めたら、住んでいる人は、
えー、聞いていないよ? そのお金、俺らのカネよ?
ってなりますよねぇ?実際そうだし。
乗っ取られた感を相手が持っても仕方ないですよね?
そもそも、そういうことを起こさないために
○○協会
なり、なんなりの存在意義があるのでは?
■ 古い開拓者にも情報が行くように…
ロクスノ値上がりしていませんか? 情報が無料の時代に…1980円。え?!クライマーって、ビンボーの同義語でしたよね?な感じで、びっくりの高額雑誌なんですが。
日本アルパインクライミング協会の報告書くらい、重要な情報なら、ネットに上げないと、みんなに読めることにはならない。
公益事業なのなら、なおさら。
もし、瑞牆が、全国の岩場の模範となる、規範となる岩場になる予定だったら…つまり、厳しい倫理規定あり、ということですが…瑞牆プライドみたいなもの…
それに他の岩場も追随してね、と思うなら…
それは、誰もが見て確認できる状態にしておかないといけない訳ですよね?
お金払わないと、何がどう報告されたのかすら分からないのであれば、一般の村民、町民は活動内容を見ないのは、当然のことでしょうし、同志である全国のクライマーすら、九州みたいに、遠かったら、俺カンケー無い話、って思って、見ないでしょう…
しかも、ロクスノって一般書店には販売されていませんし。わざわざ取り寄せないとみることができない。超高額の雑誌というよりは、ほぼほぼ 同人誌、ってことですよね?
大体、図書館にすら、入っていないし。
だから、みんな、買えないし、買わない。そうなると?
浦島太郎みたいな岩場が全国の僻地で、発生することになる。
ネットに上げるなんて、今時ただなんだから、読みたかったら買え!みたいな、せこいことしないでいいと思いますよ。
もうすでに、応援代、募金みたいな感じだもの。豊かな人が買って支え、ビンボー人はネットで見ればいいのでは?
なにしろ、名誉の記録のためにある雑誌で、ほとんど一般クライマーに役に立つ情報は載っていない雑誌なのですから。
地域の市民の皆様は、全く考慮に含まれていないようだった、クライマー会議の報告書…【クライミング心理学】 説明し続けようとする心理にハマっていました…
ーーーーーーーーー
いのち軸で自己肯定感を育む
心理カウンセラーの南ユウタです。
ナルシシストやボーダーラインの人の考え方や行動は、非論理的で利己的なことがよくあります。
感情的に未熟ですので、「子どもっぽい」ところがあります。
健康な人なら、ナルシシストやボーダーラインの人とかかわることがあっても、そうした子どもっぽさに対して怒ったり、困った顔をしてため息をついたりして、最終的には離れていきます。
ナルシシストやボーダーラインの人の非論理的な言い分に対して、
「正してあげなきゃ」と思ってしまいませんか?
そして、長いことそういう
実は、それもナルシシストやボーダーラインの人と
加害者、被害者、救済者の3つの役割をくり返して抜けられなくなる「人間関係の昼ドラ」にハマる罠です。
僕も、高校生や大学生の頃、相当な時間とエネルギーをそういうことに費やしていました。
当時は言葉にしていませんでしたが、
あなたも、そんな風に信じていませんか?
実際には、ナルシシストやボーダーラインの人の思考回路の大きな特徴は
論理的に考えられる時もあるけれど、非論理的な時も多くあります。
「そんなこと、普通の人でも同じじゃないか」と、思う人もいらっしゃるかもしれませんが、ナルシシストやボーダーラインの人の思考回路のランダム性は、そんなにかわいいものじゃありません。
非ナルシシストや非ボーダーラインの人なら、非論理的に考えふるまった後に、「あっ、これはまずかったかな」と気づく確率が高いですよね。
さらに、自分のふるまいが相手をどんな気持ちにさせたのか、想像がつきやすいです。
「私のあの時の言動は、きっとあなたを傷つけ、不快な気持ちにさせたよね」
ところが、ナルシシストやボーダーラインの人は、これがとっても苦手なのです。
また、思考の特徴として「自分を中心にしか考えられない」というものが出やすいです(いつもではないですが)。
こういう時のナルシシストやボーダーラインの人は、「論理でもの考える」のではなく
だから、どうしても被害的に受け取ってしまうこともあります。
そんな状態の人に、論理的になるよう説得をしながら絡み続けると、
そもそも、救世主を求めている段階や、救世主を実際にそばに置いているナルシシストやボーダーラインの人は、セラピーや心理治療の場にほとんど現れないです。
「自分で自分をよくしよう」とセラピーの主人公になっていないナルシシストやボーダーラインの人を、説得するのは無理があるし、原理的に不可能です。
【クライミング心理学】4年の心理的苦悩のまとめ 1
言語能力を獲得する以前に、父親にプールにつき落とされた。これが、クライミングでフラッシュバック(映像)で蘇るようになった。
裏切りの傷
が目覚めたころだったためだ…。普段なら、ホイホイ出かけていくところだったが、「これは、要注意だ、誰が良い人で誰が悪い奴か、私には判別能力が足りていないのかもしれん…」と過剰警戒、が起きてしまったのらしい。その時は過剰警戒とは思っていなかったが。自分で自分が信頼できなくなることをガスライティングというのだが、なぜそれが起きたのか?
ーーーーーーーーー
過覚醒(hypervigilance)として表面化する。
ーーーーーーーーー https://forbesjapan.com/articles/detail/69882 より引用
普通に安全安心の良いクライマー(ヒロさん)に誘われていたのに、なんか用心が勝って、そして、出かけていくことができなかった…。その間に萩原さんは亡くなってしまった…。
行くなら、今すぐ行動を起こさねばならんので、早く考えをまとめたほうがいい…。
■ 鬱の諸症状
考えをまとめようとすると… なんか脳がビジー状態…(鬱の症状)で、考えがまとまらないという問題が。書くとまとまるので、書いてまとめようとしているんだが… 書くにも体力が必要で、体力そのものを喪失しつつあった。
…というので、しょっちゅう、散歩に出ないといけないのです。
ひらめき
という形で、考えがまとまります。このひらめきをどう起こすか?が核心みたいな感じ。
■ 一人で海外をほっつき歩く
一回目は誰かについてきてほしい…
と思うそうでした。そうか~。1回目から現地集合というのは、普通の人には難しいということですね。
■ 地球家族
世界中の仲間が地球家族化できること
だと思います。しかし、私たちは家族ね♪と思っているくらいな人に、
自己愛的虐待
とか
「ランナウトが怖い?は?お前、金玉ついてんのか?」
とか、
「たぐり落ちる? 俺にはカンケーねー」
とか
子供時代の虐待の再演
が起って、自分の子供時代に本当は何が起こったのか?やっと分かるようになりましたが、これは私の母や父がどうこうというより、
九州の、あるいは、日本の、儒教的な生育環境
の弊害のような気がします。
2024/12/11
【クライミング心理学】自己愛的虐待を乗り越える〜回復中
2024/12/10
【クライミング心理学】自分は特別なクライマーだ?
【コレクティブハウス】オープンな家、地域コミュニティと暮らす家
2024/12/09
【グレード問題】 岩場自体にグレードを与えるのがいいのでは???
■ 岩場を選択する自由はない
九州に移動することになった時、ガイドさんから、
2000年以降の岩場が安全
というアドバイスを受けました。
しかし、
ローカルクライマーに岩場を選択する自由はない。
つまり、福岡に来たら、福岡の岩場を登るしかない。
日向神すら、3時間も離れているのでとても近場の岩場とは言えず、岩場に通うとか、岩場の主になるということは不可能ですが…
(日向神に関して言えば、岩場のある集落の黒木集落からですら、40分もかかるけどね)
これは、どこの地域でも同じで、岩場ってものが、そもそも、人家から遠いのです。
■ 岩場の性格や性質を客観的に伝える
今まで、
課題のグレード
はあっても、
岩場そのもののグレード
がないのですから、はじめて岩に触れる人は、その岩場を
相対化
できません。結果、日本の岩場は激辛なので、そのことを知らずに育つと、海外にでたら
とっても簡単
ってことになります。(ハイ、私がそうでした!)
辛いところからスタートして易しいところへ行くと、ある意味無難ですが…
自分の岩場の常識
が
よそでも常識
だと思いこむという…とってもいびつなことに…例えば、ロープを残置ビナに直接かけてトップロープする習慣とか…。
九州では、カットアンカーが普通で、え~?!と驚きました。
相対化できていない、客観的に自分の岩場が見れていないと、結局、視野が狭い、ので、これで何が悪いの?ってことになってしまいます。
かといって、誰でもが、日本全国を旅してまわったり、世界各国の岩場を探訪できるという厚遇を得られるわけではないので…結局、広い視野というのは得難い。自分の岩場の変さ、や、逆に良さ、や強み、をも相対化してみることができない。
というので、岩場のそのものに評価を与えたらいいんじゃないですかね?
ロクスノより引用 |
昭和グレード、平成グレード、令和グレード
って、令和が易しい=軽蔑、みたいな路線に必ず、古いクライマーは陥りそうですけど…
現実的には、
練習していないのにいきなり本番でリードはない
のです。そのピンがとおーーーーーい昭和グレードの岩場で登っている方たちも、もともとは、誰か先輩に連れられて、UIAA(RCC)Ⅲ級やⅳ級の岩場で、落ちるくらいならエイドしろ、という育てられ方をして、そもそも落ちないようなところしか登っていないから、ランナウトが平気になっただけのことで… 現代的目線で見ると、まぁ大したグレードではないよね…みたいな話なのです。
クライマー界最弱者の私にリードのお鉢が回ってくるような世界なのですから…
えばっていてもそんなもんです…
挑発に乗って、令和の岩場で、安全に外岩リードをデビューするべき人が、昭和の岩場で、リードさせられるのは、
誰のお得なのか?
俺はもう命をかけたくねー って思っているオールドクライマーの身代わりに
人身御供
させられているのかもしれませんよね?
■ 大事なことは、登るスキルと調和した岩場で、調和したグレードを登ることです。
簡単すぎもせず、難しすぎもしないところを登る、というのが大事なことです。
普通に”楽しい”という感性を大事にしていたら、そこに行きつくはずです。
ひえ~!という経験になったら、レベルが合っていない、って意味かも。
そういうレベルマッチング、という意味でも、
岩場そのものにグレーディングしてある
というのは必要な措置だと思います。岩場もそうだけど、エリアにも、そうしてほしいですね。
【日記】岩場と地域貢献
■ 相談相手が欲しくなり、大阪のクライマーを訪問
”クライミングによる地域おこし”で、私の夢が実現する機会が生まれた。
ところが、私は現在、無職で活動費が出ない上、家賃の負担も、現状の住まいの福岡は、不動産バブル最盛期で、家賃負担が重い。
そこで、一人住まいではなくシェアハウスの運用を考え、一緒に住んでくれる協力者を求めたら、協力、ではなく、
乗っ取り
に会いそうになっており…
どうしたもんか?ということを相談したかったのだ…
■ 岩場とローカルの関係性の構築を教えられる上級クライマーはいるのか?
福岡では、米澤先生から、地権者との交渉術を含む、開拓を学びたかったが、これは失敗に終わった。
その代わり、いかにクライミング教育が不在か?ということを学ぶ結果になった。
クライミング界の問題点は?と言えば、アクセス問題に尽きる。
これまで、クライマー界は、
単純に、自分の欲望の充足”だけ”を第一
にしてきた人を、なぜか、
高いグレードが登れるから、という理由だけで賞賛
する習慣にあり、それは結論的に言えば、わがまま言った人が勝ち、という原理になっている。
つまり、子供っぽい態度でいればいるほど、取り分が多くなるって意味だ。駄々っ子が駄々をこねているだけで、賞賛が得られる、というのと同じことになっている。
特にグレードにオブセッションな人はそうで、たった一つのグレードだけを
執着心 という単なるわがままの正当化をオブラートに包んだ言葉
で、
パートナーへの責任や社会的責任、道義的な合理性
を無視して活動することの言い訳にしている。平たく言えば
強ければ何でも許される
という横暴が、なぜか公式見解、って言うことになっている…。
これは、ビジネス界も同じで、ただ利益だけを追求してきた結果が、
環境問題、貧富の格差の問題、
などなど…いびつな世界を作り上げた。その反省の波が、世界中で起きている中、日本のクライミング界はいまだに、グレード一点豪華主義、でなんかなー感がある。
そうでない、地域とクライミングのより良い在り方を構築してきた人…そういう人から、地域との関係性の作り方を若いクライマーは学んでいない。
そのため、幼稚園生が食べたいものを食べ、遊びたいときに遊ぶ、のと同じ存在になってしまっており、結局、地域の皆様にお目こぼしをもらって、
地域に落としているのは、迷惑と事故だけ
って結果になることを回避できないでいるのである…。
地域の人たちから、岩場があるおかげで、地域経済が成り立って、うれしい…と言われる… そういう風にクライマーは持っていかないといけないのだ。
なのに、そうなっていない…のが、まぁ全体的に共通の岩場の事情だ。
で、ヒロさんというクライマーの店に、岩場とローカルの関係性の作り方を知りたいと思って出かけた。
(※ほかにもネパールのことなど聞きたいことがいくつかあったが)
■ 中村天風の 霊性を中心とした生活
この日は気の流れが良い日で、朝から流れが良かった。毎朝のジョギング兼ねた散歩に出たら、中村天風の会にバッタリ。飛び入り参加したのだが…。
教えられていた行法自体は、ヨガを学んだあとの私には目新しいものはなく、クンバカも心身統一法も、ヨガの本に書いてあることだったし、バレエでもお尻の穴を締めるということは普通にやるんだが、
・マインドフルネス
・言葉に出す自己暗示
・欲ではなく、霊性を高めることを目的とする
・ビジョンを揺るがせないこと
などが、改めて、そうだよなぁと思わされた…
そういう偶然の出会いのあと、会いに出かけた。
■ 分かったこと
彼は岩場に住んでいるが、仕事は別のところでやっている。
会にもいろいろあるそうだ…。
しかし、清掃活動など地域貢献活動をしている。岩場に住む立場、というのはどういうことか?そんなことを聞きたいと思った。
その肝心のところは、先客が多くて聞き損ねたんだが…
面白い出会いがいっぱいあった日だった。
■ 高校偏差値
途中で学生時代のご友人が多かったせいか、大学進学と高校の偏差値の話になった。
偏差値75の学校だったそうで、大阪の高校ランキング…北野高校の話になった。北野高校と言えば、三井物産に勤めていた時代の後輩が、北野高校から九大に進んだ人だったんだが、福岡では、九州大学と言えば、そこのけそこのけおいらが通る…って感じだが…
私の母校、熊本高校での認識では、九州大学っていうのは、九州大学に”しか”行けなかったのね…って感じに受け取られること必須なので、普通みんなプライドがあるので、なんとしても九大以外の大学に行くのが普通だった。よっぽど親の事情で九大を避けることができない事情がある人しか行かない。家を継がねばならない、とか…。北野高校の後輩もそうだろうと思い、特に気をとめることもなかったんだが…
彼が非常に高学歴のクライマーであることが分かったのだった。阪大の研究室のつながりの人がいっぱい来ていた。大阪外大は阪大に吸収されてしまい、残念なことになっているのだが…。
外大生が大阪大学に吸収されたことを残念がるのは、阪大は理系で外大は文系で、まったく学術分野的にミスマッチだからだ。互恵関係にないよね、みたいな。
でも面白いことに阪大卒のヒロさんは、海外の放浪に出て語学が堪能になり、外大女子の私は、松下のロボット開発室でキャリアをスタートした…大阪で社会人になると、自分の立ち位置感が正確に分かるような気がする…外大って言うことのポジションも正しく設置されるわけだし…。
外大は、どちらかというと阪大よりも、京都大学の前座に近い立ち位置で、外大で教えた後に京都大学にステップアップして行ってしまう先生方が多かった。私の時代は、就職氷河期で、6コマもかけ持ちしても、食っていけない若手の助手やパートタイム雇用の教授たちが、外大の図書館には相談にたむろしていて…というのは、自費で研究に必要な書籍が買えないので、一般学生向きの図書予算で必要な本を買ってもらいたいわけ…そういうのを見聞きしている間に、今院に進むとこんな羽目になるんだ~と思い、私は在学中からパナで働くことにしたのである…。院に進むことはだいぶ色々な人に薦められたんだが、ただ痛みを後伸ばしにするだけのようにしか感じられなかった。
話がそれたが、やはり、
地域の中で視野の高いクライマー
が必要で、クライマーでも、知能知数が高い人は、人間力も高く、ちゃんとリスクを考えて避けて通ることができるのではないだろうか?
結局、そうでない人たちは、
人生の一発逆転
を求めてクライミングに来る。今はそういう烏合の衆のようになっているって話なんだろうなぁ…
という話だと遠回しに感じました(笑)。
考えていなくても、あまりにも明らかで、誰でも分かるようなリスクや危険でも、現代クライマーは、
いちいち言語化
しないと、現代のクライマーには理解すること自体ができない人が増えたのかもしれません。
なんとなくそういう結論になった(笑)。そういう知性の低下した相手のためには、言語化という能力がある側からない側への、努力、それによってしか、必要な相互理解が得られない時代ですね。
2024/12/07
【クライミングによる地域おこし】進捗があるが、前途雲行きは怪しい
■ クライミングによる地域おこし、で進捗があった。
瑞牆に家が見つかったのだ…。しかも、格安で貸してくれるという。
大家さんは、仏壇を残したり、法事などがあるときは地元に帰ってきたい。家族として使いはしたいんだけど、家は空きっぱなしではもったいないということだった。
■ どうやってこの家を見つけたのか?
さかさま不動産、というマッチングサイトで見つけました。
プレゼンシング。
思っているだけでなく、行動することが大事だ。
思っていても、行動していないことは、プレゼンシングしないからだ。
■ その地に生きることが第一で、二番目がクライミング
山梨で、クライミングは覚えた。
クライミングをするようになったのは、山梨という土地を、深く知ることになったら、もれなく、クライミングが付いてくるから…。クライミングしたいから、山梨、ではない。
これは山梨に住んでいて、山梨から出たことがない人にも言いたい…
自分の町の良さは何かな?と考えたときに、なぜ山や岩が入ってこないのかなぁ…
山梨にいるときから不思議だった。山梨県民の心は、東京への羨望に支配されているように感じられた…
山梨に親しむ、ということを考えると、山に親しむ、そして、クライミングに親しむということは避けて通れない課題だった…。 なぜなら、山梨こそ、日本のクライミングの発祥の地と言ってもいいような具合だからだった…。
分かりやすいように他の地域に置き換えてみよう。福岡県民にとって山に親しむというのは、特徴的行動だろうか?Noである。福岡には、特筆すべき山、というのはない。大きな山という意味でも”ない”し、個性的という意味でもない。もちろん、高いから尊い、個性があるから、尊いという意味ではない。単純に、福岡の山というのは、福岡という土地の個性として位置づけられるほど特筆的なものがない、ということだ。
山梨には、富士山があり、北岳があり、甲斐駒があり、大菩薩嶺があり、三つ峠があり、と日本を代表するような山がいっぱいあるのと違うでしょう…
あるいは、福岡の山の個性は、里山、つまり生活の場としての山であり、急峻な山というよりは、たぬきやいのししやサルが住む、里山。日本昔話の山だ。山梨の山は、奥山。そして岩山。
人間の役に立ってくれる生活の糧をくれるのが里山で、人が踏み込むことができない場所が奥山。
これくらい違いがあるんだが…私が山梨で山をするようになったのは、山梨にいたから。
私はただ、普通に山梨県民のふるさとの山…三つ峠や北岳、茅が岳に通っていたら…奥秩父最奥の地では、昇仙峡では、岩がにょきにょきと生えており、その岩は、登ることができる岩だった…というので、山梨を味わう、つまり地域の良さを知る、ということがテーマだったので…それで、登るようになったのだった。
なので、そもそもそこで暮らした最初から、ブドウの収穫は手伝いに行ったし、桃の滴果はしたし…地域に何か役に立ちたいということで、北岳を登る前から芦安で登山道の整備のボランティアに参加していた…
このような、
地域の催し、地域の保全活動に参加すること、
が、なぜ、”フリークライミングのクライマー”には、できないのだろうか?
不思議に思う…
今トッププライマーの平山ユージさんがクライミングによる地域おこしで、取り組んでいる、小鹿野でもこれは問題になっており、クライマーはクライミングしかしたがらない、クライマーズミーティングすら参加意欲がない、ということが問題になっていた…。
私が思うには、グレードにオブセッション、征服欲にオブセッションなんではないだろうか?しかも、あまりにもオブセッションなので、他のことを考えられなくなっているんではないだろうか?
■ 外国人を入れるとろくなことがない、よそ者を入れるとろくなことがない、は相手次第
クライマーのように、クライミング以外に一切関心がない人が村に入ると、地域活動には興味がないので、地域は結果としては安く利用されるだけになってしまう…(汗)
そうではない地域移住と言うのを私は八女や、和歌山で見てきました…
そもそも、クライミングと言うのは、その地域の特色の一つに過ぎないのです。
林間学校や、村内留学の一環として、クライミングが存在する、というのが、普通の位置づけなのです。だから、そういう風に移住してきた人はクライミングを何もかもに優先するということはしません。
八女では、農業の繁忙期や、地域の水路の掃除などは、外国人も参加です。もちろんゲストハウスキーパーだった私も参加でした。(クライマーなので結構戦力になった)
そういう地域の共同作業…消防団に参加するとか、組長をやるとか…
そういうのが大事なのです。
でも、フリーのクライマーって、登りたいだけだったりしますよね? 胃やフリークライミングも良い活動なのですが…
gグレードを追いかけている人っていうのは、征服欲にオブセッション、ということなのでしょうか?なぜクライミング以外の何の地域活動もしないで、クライミングだけしているのでしょう?
た確かにクライミングは究極の現実逃避ではありますが…。今ここ、というのは現実逃避って意味にもなるんですよ。
この地域はどうやって生き残っていくか?という課題に向き合わないといけないのですから。
その手段にクライミングはなりうるというのが私の意見ではありますが…
地域活動に参加して、みなでふるさとを盛り上げていく、そんな意思が欲しい、そう思うような、何となくリスクを感じる、事が、最近私の元では、起こっています。
味噌づくり。こういうのでも、バカにせず参加できるような人が必要なんですよ。
普通のおじちゃん、おばちゃんとどうやって交流しようというんです?こういうことをしないで…
2024/12/06
【クライミング心理学】クライマーの集団病理はこれだ!怖くなんかない!という自分を作らざるを得ない
連れていくvs連れて行かれる問題
■ いったい何が、連れていかれる山で、連れていく山なんだろうか?
山や登攀ルート… 一体、どういう状態が、
連れていかれている状態で、
連れて行っている状態
なんだろうか???
私の印象では、一般に、山岳会における、連れて行く・行かれる関係では、一般的には、
1)一回目は、”連れて行き”、
2)復習は自分でやってね、
というのが、自立と依存のバランスの取れた姿であるように、私の少ない経験では、思いました。
というのは、師匠の青ちゃんが、トップクライマーの伊藤さんに連れられて、荒船昇天に行き、その復習で、私やほかの人をセカンドにしていたので、なるほどねぇ、と思ったからです。
この仕組みで行くと、最初にルートに行った人以外は、全員が暗記の山…誰かに連れて行ってもらう、そこを次は自分が連れて行く、という順送りの”恩送り形式”で、このやり方だと冒険もない代わりにリスクもないでステップアップできる、からです。先輩から後輩へ、順繰りに下賜される…(笑)アルパイン界のレッドポイント登りっていうか。
それで、自分でルートファインディングする経験はゼロなのに、ルート経験は豊富という結果というのは、なるほど、こうしてできるのか、と思った経験があるからです。
■ 私を誤解する人々…
いつも一緒にいて気の置けないクライミングパートナーを、今度、あの岩場に…というのは、”連れて行く”に入るのだろうか?それとも、”一緒に行く” になるのだろうか?
私が案内した昇仙峡は、一緒に行った人たちにとっては、”一緒に行った”に入るのだろうか?それとも、連れて行ってもらった、に入るのだろうか?
…というのは、以前、私は師匠の青ちゃんを昇仙峡やその他山梨の岩場に”連れて行き”、そのお礼が、このブログの初期の佐久の岩場&宴会なのですが…。
「(〇〇さんばっかり)連れて行ってもらっている!」という非難を私は非常によく浴びているように感じるからです。特に九州で。
これは、もしかすると、私の側の心理学的な投影かもしれませんが…。
■ 後輩を連れて行っていても…
以前、小川山に、熊本から進学し東京農大に入った若い男子を、私は完全におんぶにだっこで”連れて行き”ました…。というのは、なぜか九州で会った山岳会の会長さんに、この子を託されてしまったから、でした。
しかし、当の本人は、”連れて行ってもらった”と全くカウントしてないようだったのです…。運転も、どこを登るか?どこに泊まるか?も私が決めているにもかかわらず、です。
その様子から察すると、彼からすると、
”私が連れて行っている”事実
については、なんとなく私の印象では、スルーされており、一方で、私が荒船昇天などの
”私が連れていかれている”事実
のほうが、このブログにせよ、他のクライマーにせよ、強く意識に登っているのではないか?という風に思われて、何かアンフェアな感じ、を感じています。
■ 感謝が誤解を受ける元なのか?
これは、私が、”感謝”を前面に出すタイプだからなのかもしれません???
話の流れで、感謝する。すると、そういう言葉遣いになるから?
だって、「連れて行ってくれてありがとう」と人は言い、
「一緒に行ってくれてありがとう」とか、「ついてきてくれてありがとう」と言いませんよね?
■ 一回目から、連れて行く側だけど…
これはルートでも同じで、私は初めての山岳会である御坂山岳会の1回目から、他の会員の人たちを”連れて行っている”側でした。例えば、3月に行った川俣尾根というバリエーションルートは、120%私の企画でした…。これは別の山岳会のリーダーがパクッて、それが入会希望者だった私にバレてしまったことがありました…。どこの会でも、オリジナリティのあるルートで、そう難しくなく、しかし、人のあまり入らない場所で、いろいろな要素が詰まった山というのは、物色中なのです。
入会後1回目の山から連れて行っている新人なんて、聞いたことがありませんが…、やっぱり、いつも”連れていく側”でした。これは、ありがとうというなら、
ついてきてくれてありがとう
な山でした。というか、ついてきてくれたせいで、山のサイズ感として小さくなり、予定より短縮コースを行く羽目になりました。というのは、60代の歩けない女性までついていくと言い出したからで、断り切れなかったからです。
私のポリシーで、足が弱い人にも会は合わせるべき、というのがあり、それで山を小さくする羽目になった。ので、一緒にいることで、山が成長するのではなく、縮小することになりました…(笑)。
ただ、このときのお礼で、私が、100%連れて行ってもらった、と考えているのは、
前穂北尾根
です。これは、明らかに連れてってもらったなぁと思っています。
■意見の相違はなぜ生まれるのか?
あとは、連れて行ってもらった、というような山はないよなぁ…と個人的には考えていますが、
連れていく、連れて行かない、問題
では、最初に師匠である浮雲の鈴木さんと意見の相違があったことがありました…甲斐駒です。
私には、鈴木さんに連れて行ってもらった、とは考えられない、一回目の厳冬期甲斐駒で、鈴木さんは連れて行った、と感じたようでした。
朝、登山口で合流して登ったのですが、私は無雪期に甲斐駒はすでに黒戸尾根で登っていたので、特に難所を感じず山小屋までご一緒し、登頂も、翌朝、流れでご一緒して、あまり問題点を感じなかったのです。ロープも出しませんでしたし…。
しかし、鈴木さんの言い分は同じタイミングで山小屋を出たことで、その登頂判断に私が便乗した、と感じたようでした。私の側は、いつも山で会った人と同行する場合、相手に合わせたり、自分の都合がとくにある場合は自分の都合で動きます、と声をかけたりで、その時は自分の都合が特にはなかっただけだ、と感じました。
師匠はこれには不服だったようだったので、それで、甲斐駒は一人で登りなおしました。
■ プライドがあると連れて行けないことを白状するのも一苦労…
そのあとですが…ある先輩が正月に甲府の我が家に泊まり、黄連谷を計画したのですが、たぶん、わざとだと思いますが甲斐駒へ続かない遊歩道をどんどん速足で進み、敗退になり、転進で石尊稜と言われたんですよね(笑)。
あれ、思い出すと今でも笑ってしまいますが…きっと本音は最初から石尊稜に行きたかったんでは… 先輩は、登山計画書を書くときに、まさか、石尊稜と書けないから、黄連谷としたのではないか?と思えました…。というのは、あんな明瞭な登山道を間違う人なんていないからです…。ただ、あの時、私は一度もその先輩とアイスをゲレンデでも行ったことがなかったので、なんか、予習なしで本番って変だなぁと思ったりしていたので、間違いを指摘しないで、事が流れるままにした…のでした。
女性にとって一番安全な山は自分がリーダーシップを取る山です。
■ 連れていく、連れていかれる、一緒に行く
この3つは、登山でも、クライミングでも本当に分かりづらいです。
ラオスでは、私は、N保さんに誘われて、”一緒に行った”、のか?それとも、”連れていかれた”、のか??
現地集合は連れて行った、に入るのか?
それとも、一緒に行った、に入るのか?
実は、ラオスでは、私はほかの外国人と登れ、そのほうが日本人と登るより成長できました。
一方、同行者のN保さんは、私がいないと、一緒に登ってくれる人を見繕えないようでした…。
白亜スラブは、トップが、セカンドの私を連れて行った、のか?
それとも、私とトップが一緒に行った、のか?
彼の中では、確実に、俺は連れて行ってやったぜ!に入っていると思うのですが、私の中では、私は対等のパートナーとして行った山になっています(笑)。
なぜなら、私なしでは、あれはヘリレスキューになったからです。
■ 連れて行ってもらってる!?(笑)
インスボンも同じで、一回目は、連れて行ってくれた、という認識が私はあるのですが、2度目は、”一緒に行った”認識です。
なぜなら、パートナーがいなくて困っていたので、”付き合ってあげた”からです。これは相方もそう言っていました。
しかし、そのお礼で行った、3度目のインスボンでは、”連れて行ってやった”3人目、つまり、白亜スラブでまともなトップが勤められなかった人の視点では、”連れて行ってもらった”くせに、たぶん、”一緒に行ってやった”と思っていると思います…(笑)。
この人、誰にどこに連れて行ってもらっても、いや違う、”一緒に行ったんだ”と言いそうです。
なんせ、私のほうが岩場から遠く、私が負担が重いのに、途中から合流して車を1台にするのに、ガソリン代取ろうとした人でした…、つまり、相手の優位に立つ、ということを視点に行動しているタイプで、協力ということは視野になさそうでした。
私はO君という大学生の後輩がいたのですが、ほぼ、毎回、”連れて行って”、いましたが、彼から宿泊費どころか、交通費すら、請求したことはないです。なんせ彼がいないと私もルートに行けないわけなので。
彼を連れて行ったと感じるのは、彼には、そこへ行く発案能力、ナビゲーション能力がゼロだったからです。
同じことで、夫は全部連れて行っている、と思いますが、お君も夫も、私に
ついて行ってやっている、
と思っているのではないでしょうか(笑)?
お礼を言われたことがないので、そう思います(笑)。
■ 主体性、と リーダーシップ
最近、カウンセリングにかかっており、
私は、生まれながらにリーダー
であるようで、何か行動を起こすときに、
自分も含めた全体の人たちにとって最も良き解
を自分の考えや希望、要望、として出すのに対し、一般の人は、
”自分だけの都合”
を自分の希望や要望として出すようです。
そのやり方で行くと、どんどんと、私の個人的なニーズは、ないがしろにされていく結果になります。
なぜなら、私が出す要望には、自分を含めた全体の最適解、であるのに、相手の出す要望には、私の側の都合への配慮はゼロだからです。
それが、クライミングで起きていることだし、私の結婚生活で起きていることなんですよ。
カウンセラーさんによると、これは、
リーダーシップをとっている
という状態で、
自分の要望を通している
という状態ではないそうです。
だって、3回目のインスボンって、膝が脱臼している状態で行きました…
全体最適解がそれだったからです。残りの二人は、どちらも、私が参加しなければ、飛行機代を無駄にして、いーかない、って話になりそうでした…。
そうすると、師匠の青ちゃんの、素晴らしいロープワークの妙技を見る機会が永遠に失われます。
■ 山のリーダーシップが取れる人かどうか?
ルート経験数に戻りますが、自分がトップを取るか?どうか?は関係がなく、
山の計画を自分が立てるかどうか?
が大事なのではないかと思いました。判断を自分が行う、ということです。
そういう意味で行くと、みんなが〇〇というルートを登るから、俺も、と考える人は、大体が便乗派つまり、主体性がなく、リーダーシップがない人であり、どんだけトップを登っていたとしても、”連れていかれる”側ですね。
それは、もしかすると、これまで私を育ててくれた師匠や先輩も同じかもしれません。
それだけでなく、ほとんどすべての男性クライマーは同じかもしれません。
山ヤ独特の言い回しで
自分の山
という言い方をしますが、行きたいところがある、ということが、計画を立てるに該当しますが、自分の山があることは、他の人に来てもらうということになり、弱い立場です。
弱みを握られている、相手に対して、優越的な立場に立てない、
という意味になるので、ナルシスト男性たちからはその立場に立つこと自体を避ける意味から、主体性がない山、皆と同じ山に、みんなで同時に行こうぜ、ということになるのではないでしょうかね?
本当に自分の山、には、ほとんど、みんな登っていない、ような気がします。