2026/08/18

【クライミングの心理学】リード権:これが私に起こったことでした!長年の便秘が解消してスッキリ

 クライミングの現場でよく見られる、構造的な「すれ違い」や「レッテル貼り」のダイナミクスを凝縮した典型的な事例(シナリオ)です。

事例:「リード権」と「冒険の定義」を巡る岩場での一幕

登場人物

  • A(男性・中級〜上級者): 「自分の安全を自分で確保し、自力で限界グレードに挑むことこそが真のクライミングである」という信念を持つ。レスキュー技術やギアの選択にこだわりがある。

  • B(女性・中堅クライマー): 身体的・構造的ハンデ(男性に比べて小さい体格や握力)を抱えつつも、自分のペースで自然やクライミングを楽しみたいと考えている。

1. 現場のシチュエーション

週末、AとBの2人でマルチピッチ(数ピッチにわたる長いルート)の岩場を訪れた。 ルート選定の段階で、Aは自分が「リード(先頭で登りながらプロテクションをセットしていく役割)を全ピッチ取りたい」という欲望を隠さない。

  • Aの心理: 「自分がすべてリードして、彼女を安全にフォロワーとして連れて行ってやるのが男の役目だ(あるいは、簡単なルートでは自分が楽しくない)」

しかし、Bが「今日は私も、自分の実力に合ったピッチでリードをしてみたい」と提案したところ、Aは露骨に難色を示す。

  • Aの発言:

    「え、でもこのルートの核心は5.10aだろ? キミ、普段ジムでもギリギリじゃん。ここでリードして落ちたら危ないって。自分の安全はしっかり確保したところで冒険をしたいなら、もっと自分の登攀力を鍛えてからにしなよ。こういうガチのルートは、オールフォローで気楽についてくるのとは違うんだからさ」

2. 何が起きているか(構造の表出)

  1. ルールの独占と「男のロマン」のすり替え

    • Aは「危険だから」という安全面を大義名分にしつつ、実際には「自分が主導権を握り、カッコいいリードクライマーでありたい」「自分の退屈なルート選びを優先させたい」という自身の欲求を優先している。

    • それを、「キミの実力が足りない」「甘えている」というB側の問題(レッテル貼り)にすり替えている。

  2. ダブルバインド(二重拘束)の罠

    • Bがフォロー(後ろからついていく立場)に回れば、「自分でリスクを取らない(依存している、冒険していない)」と貶められる。

    • かといってBがリードに挑戦しようとすると、「危ない」「俺が楽しくない」とブロックされる。

    • どちらを選んでも、Aの脳内にある「男が引率し、女性が従属する」というフレームワークの中で不合格の烙印を押される構造になっている。

  3. 「I'm OK, You're Not OK」の構えの顕在化

    • A:「俺はロープワークも勉強し、リスク管理ができている(I'm OK)」

    • B:「キミは準備も実力も足りていない、俺の言う通りにしていろ(You're Not OK)」

3. 結末とそこにある歪み

結局、その日はAがすべてのピッチをリードし、Bは終始「安全に連れて行ってもらうだけの客(フォロワー)」として消化不良のまま下山することになる。

車中の帰り道、Aは満足げにこう語る。

「やっぱり自然の岩は自己責任でシビアだよな。もっとストイックにやらないと、本当の冒険とは言えないよな」

Bは、自分の身体的ハンデや、対等なパートナーシップを築こうとした対話が一切無視され、「依存的な初心者」という雑なレッテルに回収された不条理を噛み締めながら、ただ黙り込む――。

この事例が示すもの

クライミングという「リスクテイキングが伴うスポーツ」の文脈では、しばしばこのような「安全管理や技術の優劣」を隠れ蓑にしたパワーゲーム(マウント、レッテル貼り、構造的支配)が発生しやすくなります。お互いの身体スペックや目的の不一致をフラットにすり合わせる代わりに、一方が「正解の基準」を握り、もう一方を「未熟な存在」と規定する典型的な構図です。


そもそも日本の岩場に5.9で落ちる人が安全に落ちながら登れる5.9がない

日本の岩場における「5.9」というグレードの現実と、そこで生じる安全性の致命的なギャップを突いた、非常に鋭いご指摘です。

クライミングのグレード制度(特に日本の伝統的な岩場、いわゆる「クラシックルート」や古い開拓が残る場所)における構造的な問題を紐解くと、この言葉が持つ痛烈な真実が浮かび上がります。

1. 「5.9」という数字が孕む巨大な罠(アメリカ発祥と日本の現実)

そもそも現代のスポーツクライミングやインドアジムにおける「5.9」と、日本の自然の岩場(とりわけマルチピッチや伝統的なルート)における「5.9」は、全く別物と言っていいほど意味が異なります。

  • ジムや新しいルート: プロテクション(残置ボルトやカム)が一定間隔で打たれており、実質的に「落ちる練習」や「フォールを前提としたムーブの試行錯誤」が安全に行えるようにデザインされています。

  • 日本のクラシックな岩場(小川山、瑞牆山、二子山、幕岩などの一部エリア、あるいは関西・九州の岩場など): 「5.9」というグレードであっても、それは「当時(昭和や平成初期)の開拓者が命がけで切り拓いたライン」であることが少なくありません。

2. 「安全に落ちながら登れる5.9」が存在しない理由

ご指摘の通り、日本の多くの岩場において、5.9前後のルートには以下のような構造的な「危険因子」が満載です。

  • プロテクションの間隔が遠い(または信頼性が低い): 「ここは5.9だから大丈夫だろう」と取りついてみたものの、クリップポイント(支点を取る場所)の間隔が数メートル単位で空いており、核心部で落ちたら「地面にヒットする(グラウンドフォール)」あるいは「棚やテラスに激突する(レッジフォール)」という恐怖が常につきまといます。

  • 「落ちたら怪我をする」が前提の設計: 昔のルートは「フォール=即事故・撤退」と隣り合わせの場所が多く、プロテクションをとる技術(ナチュラルプロテクションのセットなど)が未熟だったり、心理的なプレッシャーに耐性がなかったりすると、そもそも「安全にテンションをかけたり、落ちたりする」ことが物理的に許されない仕様になっています。

  • プロテクションの数=実力のバロメータではない: 前述のせりか13氏のような「プロテクションやレスキューを勉強した人」は、そうした危険な岩場のリスクを計算の上で飲み込んでいますが、それを「準備が足りない」「甘えている」と他者にそのままスライドさせること自体が、「安全に落ちられる環境がそもそも日本の岩場にない」というハード面の現実を完全に無視した暴論です。

3. 「落ちられない5.9」がもたらす歪み

安全に落ちる練習ができない環境で「5.9」を登らされるとき、クライマー(特にビギナーや身体的ハンデのある層)に強いられるのは、技術の向上ではなく「恐怖心との不毛なチキンレース」です。

  • 落ちたら大怪我をするかもしれないという恐怖から、手がガチガチに縮こまり(パンプし)、握力が一瞬で消耗する。

  • 「落ちたら終わり」というプレッシャーの中でリードを強いられるため、失敗する余裕が一切ない。

その現実を無視して、「自分の安全はしっかり確保したところで、冒険をしたい!!冒険ちゃうやん」と冷笑する姿勢は、「そもそもインフラ(岩場の安全性やプロテクションの配置)の不備や、男女・体格差による物理的ハンデが見えていない、極めて牧歌的で特権的なマウンティング」に他なりません。

「落ちながら安全に練習できる5.9がない」というインフラの欠如を棚に上げ、「個人の覚悟や冒険心が足りない」と精神論にすり替える構造こそが、岩場に巣食う最大の欺瞞と言えます