それが表れている文章がこちら。FBより転載。
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1. 開拓のプロセスと「未完成」による一時的な配置
- ボルト打ちの段階的性質ルートをゼロから開拓する際、最初からすべてのボルト位置が完璧に決まるわけではありません。文章内のジャックさんの事例のように、「まずはラインを設定してボルトを打ち、ムーブ(身体の動かし方)が解明されてからボルトを打ち足して完成させる」という手法が取られることがよくあります。
- 「仮置き」としての高さそのため、最初に打たれた1ピン目が、最終的な完成形ではなく「途中段階の暫定的な位置」である場合があり、後からトライする人にとって「なぜこんなに高いのか」という疑問や登りにくさを生む原因になります。
2. 安全性とクライミングスタイルのジレンマ
- クリップ前のリスク1ピン目の位置が高い場合、そこにクリップするまでの区間で万が一墜落すると、地面に激突する(グラウンドフォール)危険性が高まります。
- 開拓者の意図とトライヤーの思惑のズレ開拓者が「ムーブを解決した上でボルトを足していく」というプロセスを想定していても、別のクライマーがその途中の状態でトライすると、「プロテクションが遠くて怖い」「ロープや事前のセットが邪魔になる」といった不都合が生じ、お互いの安全管理やアプローチ方法に摩擦が生まれやすくなります。
3. 公開プロジェクトにおける合意形成の難しさ
- 岩場の公共性と個人のアプローチルートは「みんなのもの(公開プロジェクト)」であるため、特定の個人が独占して勝手に仕様を変更することはできません。しかし、掃除のためのロープの設置や、ボルトの追加・変更といった「ルートの整備」を行う際には、他の利用者のトライを妨げない配慮が必要になります。
- コミュニケーションの必要性「ロープが邪魔だから外された」「なぜその位置にあるのか経緯を確認した」というやり取りに見られるように、誰かが良かれと思ってした準備が他の人にとっては障害になることがあり、お互いの意図をすり合わせるための丁寧な対話が不可欠になります。
まとめ
1980年代の開拓当時の位置(あるいは当時のプロテクション環境)をそのまま踏襲し、ただ経年劣化したボルトを新しいものに打ち替えるだけの行為を「思考停止」と表現される背景には、時代の変化によるギアの進化や、それに伴う安全基準・登攀スタイルのアップデートに対する強い問題意識があります。
この課題の具体的な構造は以下の通りです。
1. 1980年代当時の背景と「遠い1ピン目」
当時のプロテクション事情 1980年代当時は、現在と比べてボルトの信頼性や種類、あるいはランナー(ヌンチャクなど)の長さの選択肢が限られていました。また、グラウンドフォールを一定程度許容する、あるいは「下部はロープを結ぶ前に抜ける(あるいはキャメロット等のカムで自衛する)」といった当時のローカルな慣習や開拓スタイルがそのまま反映されているケースが多くあります。
物理的なリスクの放置 現代のフリークライミングの基準から見ると「明らかに初手までのクリップが遠すぎて危険」とされる位置であっても、「昔の開拓者がそう設定したから」「当時のクラシックルートの歴史的価値(または雰囲気を残すため)だから」という理由だけで、現代の安全基準に照らし合わせずそのまま復元してしまうケースが見受けられます。
2. 「保全」と「アップデート」の混同
形骸化したリボルト(打ち替え) ハードウェア(金属製のボルトやハンガー)の安全性(サビや強度の劣化)を更新することと、ルートの安全性や快適性を現代の基準に合わせて最適化することは本来別問題です。
文脈を検証しない現状維持 「歴史的遺産の保存」という名目であれば意味を持ちますが、単に「昔の位置をなぞって新しくする」だけであれば、現代のクライマーの身体的リスクやムーブの合理性を無視した、形骸化した作業になってしまいます。
3. 「思考停止」と呼ばれる理由
時代に合わせた検証の欠如 ルートが置かれている環境、使われるギア、トライするクライマーの平均的なスキルやリスク許容度は時代とともに変化します。それらを一切検証せず、「前例通りにやるのが無難である」として思考を停止させることは、結果的に現代の安全管理や岩場の持続可能な利用にとってマイナスに働きます。
「誰のためのルートか」という視点の喪失 岩場が共有財産であるならば、現代の安全マージンや実態に即して「どこにボルトがあればより合理的で安全か」を考え抜く必要があります。歴史を尊重することと、安全のための適切なアップデートを怠ることは全く異なります。
この一言に凝縮されている問題の本質は、次のような点にあります。
1. グレードの数字と「リスクの質」の乖離
「たかが5.5」という油断と現実 数字上のグレード(5.5)だけで見れば初級者向けや易しいルートと捉えられがちですが、そこに十分なプロテクションが取れない(=落ちたら大怪我をする)という深刻なリスクが伴う場合、それは難しさの質が全く異なります。
技術的な難度とメンタル・リスクの混同 「難しくない(からリスクがないはずだ)」という思い込みや、安全管理の不備を「クラシックな味わい」「自然のままでスリリング」という言葉で正当化し、実態としての危険性を軽視している。
2. 「恐怖」をステータスにする歪んだ価値観
リスク管理の欠如を「男らしさ」や「シブさ」にすり替える 本来、安全マージンを確保して合理的に登ることはクライミングにおけるリスク管理の基本です。しかし、「あえてボルトを打たない」「ランナウトして怖い思いをした」という状況を誇らしげに語る態度(武勇伝化)の裏には、技術的な合理性よりも、恐怖に耐えたことや危うさを自己目的化する古い価値観が潜んでいます。
安全な設計への放棄 適切な位置にボルトを打てば安全に登れるはずのルートで、不必要に恐怖を強いられる状態を放置、あるいは美化することは、現代的なセーフティ文化や合理的なルート設定に対する冒瀆とも言えます。
本質的な問題
技術や難易度の低さを補うために恐怖心や運任せ(落ちたら終わりのリスク)を強いる状況を「すごいこと」として威張る姿勢は、客観的なリスク評価やルートの質を向上させる思考を放棄しているものとして、冷ややかに見られて当然の対象となります。
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