弟を救うのに、間に合わなかった罪悪感
→ どうすればいい?
→ 思考のプロセスを見せる
→ そのために、ブログ、頑張る
→ 無知を知らせようと頑張っても、努力の意味なし…
ここまで丁寧に解説しても分からんか!みたいな??
ここまで丁寧に解説してやっても、分からないなら、
■ 弟を救えなかった罪悪感ドリブンだったのかも
というのは、私の弟は24歳で早逝し、私はその前の8年間、弟に会っていなかったのです。
まさか、その若さで死ぬとは思っていないので、
その人との時間を大切にしなかった&大切にする機会を逃した
のです。
■ 私にとって家族=責務=重荷。
本来は、家族と言うのは、
家族、親、兄弟、あるいは、クラスメート、あるいは上司、など、本来あるべき、安全基地、と言うような存在が、本当に安全基地であったことが、あまりないんですよね。
■ 私を必要とする人を探してしまう…
■ 繰り返し
という行動パターンは、私の人生に繰り返し現れているような気がします。
人生にはアップダウンがありますが、ダウンの時に気にかけてくれたクライマーが亡くなったと知り、だいぶショック。
私を大切にしてくれない人ばかりに時間をかけてしまう習慣は本当に治さないと、友人になってくれようとしていた良い人たちを遠ざけてしまう…
このことは本当に心に刻んでおかないといけない。
二度と失敗をしないようにしないといけない。
と思っています。
■ ホワイトピープル事例
当時を振り返ると、吉田スクールの日に、他のパートナーからクライミングの誘いが入ったりして、かなりバッティングが激しかったんですよね。
そして、山岳総合センターで私の班の講師をしてくださった村上先生の死。先生には何度か、九州で講習会を開いてもらう交渉をしていました。でも、私に集客力、知り合いがいなかったんですよね… それで延び延びになっている間に亡くなってしまいました。
そして、今回、ラオスでご一緒したいと思っていた、萩原さんの死に出会い、本当に、この人たちとの出会いを大事に出来なかったことに、残念な思いを感じています。ご冥福、心より祈っています。生前にお会いしたかったです。
悪いほうと言うと、言葉がまずいかもしれませんが、その意図するところは、
危険なクライマー、無謀な行為をそうと認知せず、粋がって登ってしまうクライマー
と言う意味です。
危険なことを危険と分かっていない → 教えなきゃ!
と私のスイッチが入ってしまうんですね。 そこが他人事化できていない。
かなり、母親側に近い姉スイッチが入り、「私が守ってやらなくては!」となりそうになります。これは間違った認知です。
正しい行動は、「はぁ~?何やってんの?ばっかじゃないのー」と切り捨てること、です。
弟が早逝したことで、私の中に、強烈な罪悪感…後悔まじりのもの…が、作られたことには、間違いありません。
■ 自己顕示欲を捨てる
そもそも、
自己顕示欲の手段としてクライミングを使いたい人
とつながってしまうのは、
自分の中にも自己顕示欲があるから
なのかもしれません?
■ クライミングは、きちんとリスク管理したら、大抵の事故は防げます
クライミングは、確かに、リスクを内包するものなのですが…
自分自身の ”自信” にのみ、従って登る、
ということです。これは、山も、クライミング、も変わりありません。例えば、懸垂下降を技術として知らなくて、敗退ができなかったら、自信をもって山に挑めませんよね?
■ 自分で自分を理解できない…という愚かな質問
山で、よく愚かな登山者が山小屋の主に尋ねることは、
「私にも登れるでしょうか?」
です。そんなの、他人が分かるでしょうかね?? そこを分かるようにしていくのが、登山であり、クライミングなのに…。
とはいえ、自分で考えられない人のために言えば、平坦で3時間で登れる山から徐々にサイズを大きくしていけば、自分がどこを登れるのか、自分自身で判断が付くようになります。
そうやって、自分で、自分に自信の根拠をつけていく活動が、登山であり、クライミングです。
■ 人生の歩み方
これは、人生の歩み方につながっています。
例えば、私の母は、15歳で私が海外の交換留学に行きたがった時、心配のために、行かせてくれませんでした。
しかし、その心配は根拠がなく、当人のほうは、自信たっぷりだったわけです(笑)。別に一人で行ける、と思っていました。それで、それを20歳で実行しました。なんせ、普通の人は親に出してもらっていく、大学すら一人で行きました(笑)。
この現象…周囲があなたにはできないというが、本人はできるという確信がある…は、私が積雪期の山を登っていた時代に、再演現象が起こりました。
ストローハットと言う山道具屋のおじさんには、散々「女性が一人で山に行くなんて危険だ」とか、「積雪期権現なんて100年早い」とか、いろいろ言われました…。私自身が無謀登山者扱いされていたのです(笑)。しかし、私は確実に体力とともに、自信を積み上げていました。間違っていたのはおじさんで、私はそれを証明する義務があるように感じさせられていました…。
実際は、積雪期の登山は、一般的に入門ルートである、積雪期の阿弥陀北稜を、初見&単独で実践しても、何の困難もなく、楽勝であるほどのことだったのです。
余談ですが、積雪期の八ヶ岳・権現は、登頂まで、7回もかかりました。規模的に権現のほうが阿弥陀北稜より大きいからです。阿弥陀北稜は小さい山です。それでも、きちんとしたステップを踏まないでチャレンジすることで、遭難者を多く出しています。山は個別で、どこそこが行けたという内容をきちんとかみ砕かないと、別の○○に行けるという意味にはならないです。
現在日本の登山では、遭難者を多く出しているのは、きちんとしたステップを踏まないで、山のレベルだけを上げていくという悪習慣が、登山界およびクライミング界に、はびこっているため、です。別名グレード主義と言います。この話も別の流れになるので、今回は割愛します。
つまり、人生も同じということが言いたいことです。
基本的に、
周囲の意見はなく、
自分の実感(別名、自信)
を大事にして、それを育てていくことで、大きな成果が得られるということです。
そして、自分の身に起こりそうな、厄災、については、事前にシミュレーションしてリスクオフしていく、ということです。
クライミングにおいては、それは、登りに行く前に懸垂下降を知ること。マルチに行きたいなら、マルチでどんな厄災…が起こりそうか?自分でシミュレーションするっていうことです。たとえば、ロープが上がらない場合、どうしますか?
その場合の対処方法を知らないのであれば、セカンドでもマルチには行けませんよね?
そういう事前のシミュレーションなしに、リスクオフせずに行く…ということが、
無謀なクライミング
の正体です。
これは、大きな会を率いている年配の人でも、若い人にきちんと伝える力がある人はいません。私の師匠であった青ちゃんでも、です。その計算こそが、クライマーの伝家の宝刀、だからです。よほどの人にしか、教えないと思います。
でも、ぶっちゃけ、自分で考える人にはすぐにわかることです。
マルチでロープアップされない、自分のミスでロープが上がらない場合にどうすればいいか分からない、ということには無関心なのに、今日の宿が見つからないことには焦る、フェリーを乗り逃しそうだから、本気ダッシュする、というのは、全く本末転倒です。
ぶっちゃけ、どっちに命がかかりますか?
クライマーっていうのは今日の宿がないならその辺で野宿しても構わないものなんですよ。全然リスクじゃない。フェリーを乗り逃したなら、明日乗ればいいでしょう。
きちんと論理的にクライミングを事前シミュレーションするだけの思考力がないことは、クライミングにおいて致命的な欠陥です。
■ そういう人を助けたい
と思ってしまうのが、私の思考の癖であり、自分自身を行き詰らせてしまう、悪癖です。
私はこれは確実に治したいと思っています。