2025/05/09

若いクライマーたちよ、君らが責任転嫁を受け入れる必要はない

 🪨 クライミング界の“責任転嫁”には、私はもう巻き込まれない

― 古い構造がつくった負債を、なぜ私が引き受けなければならないのか? ―


私がフリークライミングを始めたのは、2015年ごろであり、当時ですら、5.12を登る人は中級者と言われている時代に入って、すでに15年くらいたっていました。そこからしても、現在は2025年、もう5.12中級者時代に入って、25年です。人が一人大人になるのに十分な時間が過ぎています。

クライミング界では、グレード競争が行き着いた後で、さらにその傾向は今でも続いています。

競争の舞台は、種に外ボルダーとコンペ(インドアのスポーツクライミングによるコンペ)です。時にアイスクライミングも既に氷には登っていませんが、コンペの舞台(ドラツーワールドカップ)になっています。


私は誰かと張り合いたくて氷や岩を登ったわけではないし、43歳からスタートしたクライマーが、グレードにすがって生きていこうと、思うと思います?そんなわけないですよね?

それでも、クライマー界というのは、

 【競争による生きかた 以外の生き方を知らない】

人たちなのです。

登山やアルパインクライミング、あるいはフリークライミングの多様な価値観という世界観を持つほどには、心自体が発達が未熟である、業界全体の集合無意識として、まだ小学生くらいの精神成熟の段階にあるということです。

そのため、私が少しでもクライミングで自己実現という成果(アルパインサマー出版景気を作りました)を出したとたん、周囲はこう言い出す。

「あなたなら、この業界を変えられる」「わかる人の責任」
「あなたはまともだから、岩場のことも考えてくれるでしょう?」

「どうやってビレイを覚えたらいいんですか」

その言葉に、私は

 “私は何もクライミング界からもらっていないのに、負債だけ押しつけられる構造”

を感じました。特に九州では、負債ばかりを押し付けられているのに、金払え!と言われていました。実際もらっていない恩にお金を使う羽目になったと思う。

🧱 岩場のアクセス問題は、古いクライマー社会の構造の産物である

アクセス問題、地元との摩擦、イケイケなクライミングマナー、不適切な位置にあるボルト、40年以上経過しても、誰も交換できないボルト…などなど、クライミング界が50年前で止まってしまっているのは、業界の価値観の仕組み(構造)にあります。

この何十年か、日山協が注力してきた領域は、スポーツクライミングだけです。

要するに、高グレード一点豪華主義をあおり続けた旧型社会。 競争社会を反映してきただけ、です。

結果、社会性よりパフォーマンスを優先。それは、古参の第一世代クライマーたちが挫折し、俺の息子でリベンジ!という方法で育ててきた“文化の結果”です。

そこへすい星のように現れた才能が輝いているクライマーもいました。倉上さんのような…ところが、この枠組みの中では、死に向かっていくしかない。

高グレード追及の旅は、死で終焉を迎える以外、構造的に選択肢がないのです。

そのことは、言葉にしないけれど誰もが分かっていますよね。

で、最初から、その構造の外側にいるのが、大人からスタートした一般クライマーです。

私も当然そこにいて、私は古いクライミング界の構造には加担していません。

アクセス問題を作ってきた側ではないってことです。むしろ、その構造に対して異議申し立てをしてきた側です。

で、恩恵を受けていない者が、なぜそのツケを払わされるのか?

若者は声を上げていいですよ。君たちのお父さん、おじいさんの世代が作ってきた世界の副作用なんです。アクセス問題は。一般的な問題ではない。


🔄 善意であった可能性を否定はしない、でも

私が感じていた違和感、防衛、距離感は、中学時代に担任教師に進路を利用された経験と通底しています。私は、当時、学校内で成績トップ争い常連生徒でした。

「自分の成果が、誰かの栄光のために使われる」
「目立った瞬間、先生のコマにされる」

あれ以来、私は“使われる予感”にとても敏感になりましたが、今回もこれによるアラートが発令しました。

JFAのリボルト職人新田さんが、日向神の課題をリボルトしに来てくれた時、「さあ、安心して登っていいよ、安全になったよ」っていうよりも、「この人が登る課題なら、JFAがリボルトに納得するだろうから、今後は彼女に危険な課題を登らせることでJFAを動かすだしにしよう」と聞こえました。

なぜなら、その課題、ちょっと前に(開拓者のススメで登らさせられていた課題)だったからです。私が登りたかった課題っていうより。

たとえ善意だったとしても、それが私の魂の望む方向でないなら、受け取らない自由がある


🧭 私が生きたい生き方は、「世直し」ではない

私は、社会運動としてクライミングを選んだわけではありません。私にとってクライミングは常に瞑想でした。

私はADHD気味なうえ、集中力も高いので、なにかストレス化に置かれないと、すっきりしないのです。

また、自然と対話するということが、息を吐くのと同じくらい自然にできていました。感覚を磨き、身体と魂をつなぐために岩を登ってきました。

だから、岩場の政治に巻き込まれることは、本来の自己実現からそれていく行為でしかなかったのです。

もうほんと、男性同士の名誉争いの巻き込まれるのは嫌でした。


🛡 これは、責任を拒否する宣言である

私は、“善意のある人”として都合よく利用されない。
私は、“まともだからこそ引き受けるべき”という幻想を断る。

私の登攀は、誰かの代理戦争ではない。
私の人生は、他人の負債を清算するためのものではない。


✨ わたしが掲げる旗は「魂の自由」

もし旗を掲げるとしたら、
それは「岩場を守れ」でも、「クライマーを正せ」でもない。

私は、私の手で、私の選んだルートを登る。
誰にも書き換えられない、私だけの心の旅を行う。

私のクライミングライフが、私の生き方そのものであるように。

そもそも、私はクライミングは完全独学です。最初は雪の山でスタートです。

その後アイスに進み、アルパインクライミングは、仲間の点で無理が大きかったです。なんせ、外敵危険をリスクとして評価できる知性自体がある人がなかなかいないのです。

なので、それほどリスクがシビアでないフリークライミングに転進したのです。

結果は、フリークライミングでも、ソロクライミングのほうがむしろ安全だ、でした。

白亜スラブで明らかでしょう。え?私のせい?

どうでしょうか?この白亜スラブの後、初対面の外国人クライマーと台湾でマルチピッチを登っていますが、何事もなく楽しく登って帰ってきています。

そう、私が依存的だとか、そういう話にしたがるのは責任転嫁なのです。事実はリードするクライマーが、5.12俺登れる、以外にリードクライミングに必要なクライミングスキルを身に着けていない、身に着けるニーズを日本のクライミング教育では感じ取ることができないってことなのです。

私が台湾で組んだクライマーは、アメリカのヨセミテ育ちでした。

もう、日本人クライマーもAAC(全米クライミング協会)で、インストラクター資格を義務付けたらどうでしょうか?

5.12が5本オンサイトって、インストラクターとなるのに必要なリスク管理能力をまったく度外視したものです。

今時のクライマーなら、ジムで練習していれば、外岩でもお買い得課題を選べば登れてしまうかもしれません。一日で5.12オンサイトする高校生なんていっぱいいます。

そうすると、まったくクライミングのリスクや守るべき価値観を理解していないままインストラクターになることが可能になってしまいます。

それが今クライミング界に起こっていることです。

私とは全く関係のない世界での出来事です。

         わたくし あー楽しかったなぁ。このころは