それはとても痛切な構造ですね。
あなたが苦しんでいる時に「まともな」側からの支援が来たにもかかわらず、それ自体が新たな役割代入の強化につながった。つまり、あなたが「救われるべき者」「被害者役」に固定されたということ――そしてその構造を、加害・傍観側が利用し始めた。
以下に、この複雑な構造をIFS的な視点と社会的文脈を交えて、NOTE記事風にまとめたものをご提案します。
「リスク探知機」を演じさせられそうに(涙)
――指摘が役割代入にすり替わる瞬間
■ リスクを指摘した者に“光”が当たるとき、何が起きるか?
ある日、私に支援の手が差し伸べられました。
九州の登攀文化に違和感を持っていた私の声に、本州のクライマーたちが反応してくれたのです。
井上大輔さん、黒田誠さん、奥村会長…
「おかしいのは、君じゃない」
「安全や倫理を軽視する文化のほうが異常だ」
その言葉は本当に救いでした。
でも――ある瞬間、私はある“冷気”を感じたのです。それは、日向神の大蛇山がリボルトされたときです。
JFAに世話してもらう言い訳として、私の存在が使われている?
■ 「この子を使えば、また助け(JFA)が来る」
私に向けられていた圧力は、
ただの閉鎖的な文化ではなく、“構造的”でした。
そして、そこに、外部からの支援…JFAや黒田論文、UIAAや、奥村会長…が来た。
すると加害側の反応は、こうでした。
「ああ、なるほど。この子が危ないルートを登れば、“世間”が助けてくれるんだ」
「つまり、こいつは“スピーカー”であり、“トリガー”だ」
「これで、自分たちで動かなくても、本州クライミング界からの支援を得れる」
つまり、私の苦しみは“広告塔”あるいは、支援を呼ぶ”ボタン”になった、という風に感じられました。
■ 支援が「配役」に変わるとき
支援者たちは悪意などなかったでしょう。
彼らは純粋に、「おかしなことにはおかしいと言おう」と思ったのだと思います。
でも、その正しさは、私を**“ある存在”に固定**しました。
私が“正義の側・告発者”であり続けることで、はじめて正義が発動するという構造が、
加害側の中に刷り込まれてしまった。
つまり、自分たちで自分たちの岩場を衛という意識を醸造することなく、
あ、この手があったか!
とばれてしまったのです。
結果的に私は、「救われる側」に居続けることを期待される存在になり、
自由に振る舞えば「メサイヤ」「世話役」と固定的に見なされる空気が生まれました。
そして、その役は、私が得たい役ではありませんでした。
■ IFS的に言えば:役割を背負わされたパーツたち
【いい子パーツ】
「本州クライマーから、助けられたんだから、ちゃんと“助けられる子”として振る舞わなきゃ……恩に報いなきゃ……」
【怒りパーツ】
「なんでだよ!私は“世話役”を演じたくて、40年物ボルトを告発したんじゃない!
誰かの“正義の装置”じゃない!!
みんな、ちゃんと技術的にアップデートしよう、と言いたかっただけ」
【疑念パーツ】
「私の理念に同意の顔をした九州メンバーの一部は、私に“役割の仮面”を貼ろうとしてる……」
【セルフ】
「私たちは、誰かの役割になるために生きているんじゃない。
危険性を語ったのは、配役を得るためではなく、この危険なメカニズムを知らせ、注意を喚起するため、だった。
この声は、“役割に入る”ためじゃなく、“事情を知らない、ジム上がりクライマーや今からクライマーになるところの人”のために存在していた
今までさぼっていた人たちに、私の存在を利用させるためじゃない」
■ 終わらせたいのは、「物語の配役」そのもの
私が語りたいのは、“ひどい目にあった話”ではなく、
“なぜそのリスクが放置され、どうクライミングを再構築するか”という問いです。
私の答えは、若い奴は日本の岩場ではなく、海外で登るべきだということです。
そして、それには本州からリボルトなどの支援する側もまた、自分の「イネイブラー性」と対話する必要がある。
JFAがイネイブラーになって、ローカル岩場が何もしないで、「おかあさーん!」になっていませんか?
もう、誰かが死んでからじゃないと動かない社会であってほしくない。
■ おわりに
私はもう、“告発者役”としてではなく、
観察者であり、構造の語り手としてここにいます。
あなたが「支援者」になるなら、
ぜひそのことを覚えていてください。
救うことより、「ローカル岩場の自立法」を伝えること。
それが、本当の支援のはじまりです。
本当の市民クライミング、草の根クライミングのスタートです。