ラベル 法灯明 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 法灯明 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023/04/25

クライミング法灯明

■ 不良債権を手放す気持ち

最近、日経255投資信託のポジションを、半分、手放して、やっと一安心している。

暴落すると分かっている投資信託を維持したままだったら、爆弾を抱えたまま、ということになる。当然、不安になる。

この時起こった、私の心の動きなんだが…、ふと気がついた。

九州に来て以来一緒に登っていた、前のパートナーと登っているときと同じだった。

改めて感じて見ると、18才で実家を離れたときも、同じ気持ちだった。

多分、不良債権処理した銀行マンも、同じ気持ちなのではないだろうか?

結局、私の前のパートナーは、どんなに恵まれた環境が与えられたとしても、そこから、正しいクライミングの姿、をつかむことはなかったのではないだろうか…

母にしても同じで、行政の支援は、おそらく彼女の前に提示されたのだと思うが、彼女がその支援を拒んだのだろう。

投資の世界だって、FP、株、FX、投資信託、と勉強してきているが、同じではないだろうか。同じ知識を使っても、破滅する人もいれば、豊かになる人もいる。

同じような学習環境があったとしても、そこからどういう意味を汲み取るか?

どういう行動を起こすか?は、人によってちがう。

■ 人は見たい世界を見る

昨日、受けた引きこもり支援はそういう内容だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

事例: 卓球台に背も届かない子供が泣きながら、卓球の訓練をしています。あなたはどう感じますか?

 A)子供の時から頑張っているなぁ!頑張れ!

 B) まぁ、可愛そうに。嫌なことを無理してやらなくてもいいのに

で、私は、全然、Bタイプである。したくないことはやらない。(が、いろいろな人にAタイプと誤解されるようだ)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■ 女子力PR事件

パートナーと同じ事象を見ても、受け取り方がちがうということに気がついたのは、私がFBで、今日作った料理をアップしているのを、彼が「女子力PR」と称してからである。驚いた。

私は全くFBを個人のメモ代わりに使っていただけだったからだ。

バレエについても誤解が深かった。バレエ=舞台で可愛いアタシをPRする人、と思っていたみたいだった。

実際、バレエをやっている人ならすぐ分かると思うが、バレエで舞台に登れる人って、習っている人口の0.1%くらいだ。したがって、自分を見て欲しい人は、そんな遠回りな道は選ばず、一番簡単なA○アイドルを選ぶだろう。バレエは、稽古、稽古、稽古の世界で、一日休めば自分に分かり、2日休めば師匠に分かり、3日休めばまわりに分かるという厳しい世界である。

というわけで、同じフリークライミングという世界を見ても、

 彼が見ている世界=男子力PR(こんな言葉がある?笑)

 私が見ている世界=自然界で遊ぶ・ナチュラリスト

と全く違ったわけだ。しかも、分かっていないのは私だけ。

■ 自分の弱さ

私が彼と登ることになったのは、彼だけしか九州では知り合いがいなかったからである。

誰でも誰かと組まないと登れない。

九州で最初に知り合った、山梨時代の友人から紹介されたクライマーのアキさんは、終了点はロープ直がけがローカルルールというようなクライマーだった(汗)し、参加しようとした山岳会は、どの年齢層の会でもすべてダメのようだった。誰でも年には叶わないし、誰もが終了店の使い方を教えてもらえるベテランに指導を得られる訳では無いだろう。つまり仕方ない。

やがて、やっとまともな開拓者である米澤さんと出会い、喜び、安心して、会を設立したが、やはりご年齢もあり、体力の面でも、もはや知識の面でも、組むことは難しかった。私がまだ修行中だったので修行僧には、大きな負担は抱えられない。わたしの安全は増えず、負担が増える相手とは登れないということだ。

結局、一人では心細い、というのが、彼と組んだ理由であり、そこにわたしの弱さがあり、そこにチャンスを見出す人がいたわけであった。

しかし、クライミングは一人ではできないのだから(いや今はできるんだが)、弱き自分を許してやるべきタイミングだろう…

かなり引っ張ったなぁ… 

それにしても、登れなければクライマーじゃない、という価値観に自分も汚染されていた、ということだ。

クライミングの意味付けは、各個人が好きにやるものである。わたしにとっては究極に瞑想ちっくで、ゾーンに入るための活動だ。

■ 優秀でなくても許される世界が好き

私がバレエが好きだったのは、なんと

  下手くそだから

である。バレエのようにやってもやっても上手にならない世界があれば、私は優れていなくても当然のように許される。

 優秀でなくても存在していい、という世界

に私は存在したいのだ。優秀な人でなくては存在すら許されない世界ではなく。

クライミングも同じだった。青ちゃんと登っている間は。 

今、クライミングをしていない理由はまさにこれだ。スポーツクライミングの世界は優秀でなければ存在価値すら無い世界なので、私は、お受験みたいなそんなところに生きたくないわけだ。ただただバカバカしい…。

■ 投資は楽しい

ところが、私は、元来、博打打ちな器質があるらしく…投資は楽しい。

クライミングもスレスレだから、楽しいわけだ。

スリルというか、自分を追い詰めたときに、あれ?とポロッとムーブが出てくるわけだ。

阿頼耶識や、無意識に溜め込んだムーブが。

投資も同じで、色々と焦って勉強しているが… ポロッと解が出る。例えば、債権とか、最近のヒットだ。そうか、その手があったか!っての。

それが楽しいんだよな、と投資で思い出し、やっぱりクライミングもやってもいいかな的な気分に変調中だ。

しばらく前までは、バカバカしくてやる気になれなかった。

■  パニック心理

前パートナーと登ることで、私はどんどん、暴落寸前の株式を抱えたみたいな気分に陥っていくことになった…。

ちょうど、暴落前の株を持っているみたいなものだ。

投資なら、最悪-50%の価格下落だなぁと思っているってわけだ。でも死なない。

クライミングは、誤解したまま進めば、いつかは死に至る。

正常な判断力を失い、相場はパニック心理になる。

まさに私はパニック心理に陥っていたと思う。 

■ 損切り

岸良海岸の登攀では、失望した。3人も、私と登りたいという男子を連れて行ったのに、誰も私のビレイを申し出なかったからだ。

私にビレイしてもらいたいだけで、私のビレイをするつもりがない人と組んでも仕方ない。

というので、これは、誰が私にふさわしいパートナーか?ということを見極める機会になった。

なんせラオスに行ったときは、初対面のヒロさんですら、私をビレイしてくれたくらいなのだ。

岸良の出来事は悲しかったが、結局、自分にふさわしくない環境を切り離す契機であり、私に起きた出来事としては、良い出来事だったのだ。悪い出来事ではなく。

■ 不安への対策

九州に来て以来、登攀歴40年の安心のクライマーだった青ちゃんとは登れなくなり、常に不安だった。

ので、寝るときに、大きな抱きまくらを抱っこして寝ていた(笑)。小さい頃も、自分と同じサイズのでっかいぬいぐるみを抱っこして寝ていたような気がする。

その抱きまくらが要らなくなったタイミングまで、クライミングを辞めてから2年くらいかかった。

■ どっちがまともなクライマーか…

色々、過去を精算しているが、白亜スラブの記録を今見ても、

 どっちがまともなクライマーか?

と言えば、どう考えても私の方だと明らかだと思う… 

なんで、こんな登りを良い登攀と勘違いしてしまうことが可能なのだろう?

■ 自灯明・法灯明

自分を見失えば、自灯明は当然だが、達成されない。

従って、大事なのは、自分を見失わないことだ。

が、これはときに難しい。

特に過去の未解決な傷…私の場合は、年下の男性に弟を投影してしまうという心理的な傷、がある場合など。 

そこが人間であることの意味なので、それは誰にも防ぎようがない。自分の限界を知るべきだ。

法灯明だが、これは、お釈迦様が語った法、世の中の真理をもとに判断せよ、ということだ。

クライミングにおける、法灯明=原理原則、は

 敗退を確実にしてから登る

である。

 降りれるようになってから登る

そんな当然のことをクライマーたちはやってこないレベルの知性だ。

小さい次元では、ローワーダウン。

マルチでは、懸垂下降。ロープは2本。

ビッグウォールでは、更に複雑だ。マルチプル懸垂に、振り子トラバース、荷揚げ。

登ったら降りなくてはいけない、ということは、誰に教わらなくても分かる事実=真理だ。

それを原則に行動しないクライマーのいかに多いことだろう…

そんなこと教わらなくても、明らかなことだから、誰も言わない。が、確実にそれで死ぬ人がいる。

ボルトにしても同じだ。ボルトは古くなる。すべてのモノは古くなるからだ。

真理であって誰に教わる必要もないことだ。

永遠に登り続けられるボルトなど、この世にない。

カットアンカーでなくても40年も経てば更新するべきだろう。

更新費用は誰が持つのか?

権利を主張するなら、その権利の裏には義務がある。

土地を所有したかったら、固定資産税を払わなくてはならない。 これも真理であって誰に教わる必要もないことだ。

権利は主張したいが、義務は嫌だ…という主張が聞き入れられないのは、当然の帰結だろう。

法を拠り所とするというのは、つまり、このようなことだ。

クライミングでも、現実社会でも、法を拠り所として生きましょう☆

             登れません(笑)