2025/06/28

【心理学】TEA(複線径路等至性アプローチ)

 

フェーズ 意図
1)経路の確認 「○○さんが今ここにいるまでに、どんな経路をたどってきたと思いますか?」 人生を道として見立て、語らせる枠をつくる
2)分岐点の特定 「そのとき、他にどんな選択肢がありましたか?」「その道を選ばなかった理由は?」 複線構造・選ばなかった経路への関心
3)意味づけの探求 「あのときの選択は、今振り返ってどう感じていますか?」「そのとき、自分にとって何が大事だったんでしょう?」 時間的視点をずらし、主観的意味の変化を探る
4)社会的文脈の意識化 「その選択をしたとき、周りの人は何と言っていましたか?」「誰かの期待や目線を意識していたと思いますか?」 社会的圧力や文脈の影響を可視化する
5)等至性への視点 「結局、今ここに至ってみて、何を得たと思いますか?」「今後、どんな地点を目指したいと感じますか?」 等至性(到達点)の探求。
複数の道の意味をまとめる枠

1)「私が、海外のクライミング至るまでに、どんな経路をたどってきたと思いますか?」

雪山でスタートし、ピッケルを使える必要があり学びたいということで、山岳総合センターのリーダーコースを受講した。積雪期のバリエーションへ。そこからアイスクライミングへ。沢もしていた。そして、フリークライミングに集中しろということでフリーへ。フリーへ来たら体力が落ちた。山やからすると、堕落の道だと感じたが、フリークライミングの作法とアルパインはだいぶ違った。九州に来て、ぼろいボルトでバンバン落ちるのがフリークライミングになっていて、驚いた。山梨では3ピン取るまで、落ちてはいけないというのが最初に教えられることだったから。海外は、以前アメリカに2年ほど住んでいたことがあるので、あまり問題なくこなせた。一回目から現地集合だった。1回目のラオスから、現地のクライマーと登る方が、快適だった。

2)「そのとき、他にどんな選択肢がありましたか?」「その道を選ばなかった理由は?」
山岳総合センターの時は、公立の登山学校以外に、私立の登山学校である無名山塾を検討した。価格の面で、公立のほうへ。小屋のバイトに行って費用を補填した。
沢はやっている会を見つけるまでは、習得法に苦労した。初級のウォーターウォーキングな沢なら一人でこなせるので、ひとりで沢に行くかもしれない。何度も同じ沢に行く。
クライミングも同じで、何度も同じ岩場に行って同じ課題を登っても、何度でも楽しい。

海外に行くようになってからは、ひとりが多い。なぜなら、英語ができるからという理由だけで、その国は英語圏でもないのに、すべての手配を丸投げされて、同行者はリードを取る、こちらはセカンドをさせられる、なんて不平等だからだ。国内岩場と違い、海外は5.10代のクライマーでも登れる課題がたくさんある。

台湾でタオと登ったのがよい思い出。

3)「あのときの選択は、今振り返ってどう感じていますか?」「そのとき、自分にとって何が大事だったんでしょう?」

私にとっては、じぶんだけで登れる自立したクライマーだということを世の中に示す必要があった。というのは、女性だというだけで、誰かに連れて行ってもらっているはずだ、という前提が働いているからだ、男性たちの頭の中に。

ところが、実際は私のほうが連れていく側であることが多く、男性でも依存者が多い。そういう人たちからは距離を置くことにしている。

だから、誰ともつるまないで、海外に行くことは、非常に大事だった。

さすがに行ったことのないユタは案内があってもいいかもしれないと思ったが。いったことがあるのは、SFベイエリア以外は、カンザス。

とはいえ、生まれて初めて免許を取ったのもアメリカで、運転もレンタカーさえ借りれれば問題ないので(日本から一歩も出たことのなかった夫ですら、メルボルンでは運転した)、18万円を正当化できるか?といえば、できないと結論した。その分、長期滞在したほうが得るものがあると思ったのだ。

余談だが、アメリカでは働きながら暮らした。今話題になっている不法移民と同じことだが当時は日本人は6年頑張れば、既成事実ができてグリーンカードがもらえた。その間の低賃金に耐えれるかどうか、が移住成否の分かれ目だった。私は日本での大学卒業が残っており、当時育英奨学金に縛られていたので、その6年をアメリカに使うことができなかった。帰国して6年後にはソフトウェアエンジニアとして働いていた。

当初はアメリカに戻り、元彼と結婚したいと思っていた。

4)「その選択をしたとき、周りの人は何と言っていましたか?」「誰かの期待や目線を意識していたと思いますか?」

落ちればいいのに、と九州のクライマーは思っていたと思うが?その同調圧力に屈したくはなかった。なんせ、あまりクライミングを理解していると思えなかった。樋口先生以外は。

中高と親の期待を生きて失敗したので、次からは嫌だと思ったので、九州での岩場の改革者を期待しているようなそぶりには閉口した。転勤で来ている人に期待する役割ではないだろう。

5)「結局、今ここに至ってみて、何を得たと思いますか?」「今後、どんな地点を目指したいと感じますか?」

多少人から誤解を受けても、やっぱり正しいと思うことをする方がよい。
そもそも、クライミングは趣味で、私にとっては別に本業ではないのにもかかわらず、海外に一人で登りに行けるわけだから、日本のクライマーはもうちょっと頑張れて当然だろうと思う。

今は一部のトップクライマーだけのご褒美みたいな位置づけだが、海外のクライマーは気楽に湯河原幕岩にいる。

私もラオスに行く前に、湯河原で外国人クライマーに会い、「この岩場よりラオスのほうが簡単だよ」とか教えてもらった。

登攀グレードという意味ではなく、自立という意味で、自分と同レベルの女性クライマーがいたら、登りたい。相方がフィジカルの差を理解していないせいで、不当に女性の側が危険な目に合うというのが、大体今までの流れだった。



ありがとうございます。以下に、あなたの語りを**TEAモデル(Thought=思考、Emotion=感情、Action=行動)**で心理学的に解析します。


🧠 TEAモデルによる分析

■ 1)Thought(思考)

あなたの語りには、明確な「信念」「価値観」「認知スタンス」が複数含まれています。それらを抽出・整理すると以下のようになります:

◯ 自立に関する信念

  • 「連れて行ってもらっていると思われたくない」
    → 女性であることに付随する偏見(“連れていってもらう存在”という見られ方)への抵抗

  • 「登山・クライミングの技術は、繰り返し通うことで身体で覚える」
    → 教わるより、自分の身体知を信じるという自己効力感の高さ

◯ 公平性・役割分担に関する信念

  • 「英語ができるという理由だけで手配を任されるのは不公平」
    → 実力や努力に基づかない依存的構造への強い違和感

  • 「転勤者に岩場の改革を期待するのは筋違い」
    → 地元の責任は地元が持つべきという、適切な責任分配意識

◯ 自分にとっての「自由」と「誠実」の定義

  • 「誤解されても、正しいと思うことをした方がいい」
    → 評価より信念に基づく行動を重視するスタンス

  • 「本業でなくても海外で登れる=自分の自由度」
    → 自分のリソースを活用し、制限の少ない人生を選んできたという誇りと自己肯定


■ 2)Emotion(感情)

語りの中には、以下のような感情の流れが見られます:

◯ 怒り・苛立ち

  • 「連れていく側なのに、女だから連れて行ってもらっていると思われる」
    → 不当な認識や構造への怒り(=認知的不協和

  • 「手配は私、相手はリード」
    → 利用される感覚、搾取されているという感覚

◯ 防衛と疲労

  • 「中高で親の期待を生きて失敗した」
    → 過去の刷り込みに基づく“役割期待”から逃れようとする心理的防衛

  • 「登攀グレードの差より、フィジカル差の理解のなさのほうが危険」
    → 肉体的・心理的に消耗した経験からくる警戒心

◯ 誇りと充足

  • 「一人で海外で登ることは、自分の証明だった」
    → 自己達成とアイデンティティの回復

  • 「台湾での経験」「湯河原での会話」など
    → 特定の出会いや経験に対する穏やかな満足感や感謝


■ 3)Action(行動)

行動としては、以下のようなパターンが顕著です:

◯ 自立志向の選択行動

  • 一人で同じ沢・岩場に繰り返し通う
    → “習得の孤独”を厭わない反復的行動

  • 一人で海外へ行き、現地で登る
    → リスクも引き受けたうえで自由を選ぶ自律行動

◯ 回避・線引き

  • 不公平な構造を感じた時点で同行者と距離を置く
    → 境界設定と構造批判に基づく回避行動

  • 九州の“改革者期待”に応じない
    → 不本意な役割代入を拒否する脱構造的行動

◯ 教訓化・次への戦略化

  • 「自立した女性クライマーと登りたい」
    → 被った不利益を言語化し、今後の選択基準として活かす


🔍 総合的な心理的理解

あなたの語りから浮かび上がるのは、「誤解されても、自分の道を生きることの強さ」です。そしてその裏には、過去の「親の期待に応えようとして失敗した経験」や、「性別による偏見への怒り」が蓄積されています。

その反動として、「正当に評価されない場所では、誤解されても自分の感覚を信じて行動する」という原則が形成されていると読み取れます。

また、自立と自由へのこだわりは、単なる反抗ではなく、「誰かの夢にされないための自己防衛」であり、「自分で人生を選びたい」という主体性の発露でもあります。


ご希望があれば、ここから**「TEAの再統合ワーク」**(思考・感情・行動を自分の価値観に再接続するワーク)も行えます。続けますか?それとも、ここで得られた洞察に基づいて、別の角度からまとめ直しますか?


ありがとうございます。では、あなたの語りを素材にしたTEAの再統合ワークを、心理学的に丁寧に行っていきましょう。


🔁 TEA再統合ワークとは?

「TEAの再統合ワーク」とは、

  • **T(思考)**が感情や行動とずれていないかを点検し、

  • **E(感情)**が正しく認識され受け止められているかを確認し、

  • A(行動)が本当の価値観と一致しているかを見直すことで、
    心と行動を
    自己一致した形に戻していく
    作業です。


🪞ステップ1:素材の選定

今回は、あなたの語りの中でも非常に印象的だったこの部分を軸に進めます。

「女性だというだけで、誰かに連れて行ってもらっているはずだ、という前提が働いている。実際は私のほうが連れていく側であることが多い。だから、誰ともつるまないで海外に行くことは、非常に大事だった。」


🧠Step2:TEAを整理

●Thought(思考)

  • 「女は誰かに連れて行ってもらっている」という社会的前提がある。

  • 実際は自分の方が同行者を支えていることが多い。

  • だから、私は自立していることを“証明”しなければならない。

●Emotion(感情)

  • くやしさ、怒り(偏見に対する)

  • 疲れ・不信(役割のねじれによる)

  • 誇り(独力で登っている自分)

  • 哀しみ(正当に見られない経験が重なっている)

●Action(行動)

  • 誰ともつるまない選択

  • 海外に一人で登りに行く

  • 同行者に頼られすぎる構造から距離を取る

  • 期待される役割(岩場改革など)を拒否する


🎯Step3:ズレと不一致の検証

ここで、「誇りの行動(自立)」が、証明せねばという思考に動かされているところに、少しズレがありそうです。

  • あなたは本当は「登りたい」だけだったのでは?

  • でも、「証明しなければならない」という構造が乗ってくる。

  • それが、**「自由に行動しているのに、内的にはまだ誰かの評価を意識させられる」**という二重性を生んでいるかもしれません。


💡Step4:自己一致への問い

以下の問いに、あなたの言葉で答えてみてください(書いても、話しても、心で考えてもOKです):


① もし、誰にも「証明」しなくてよかったとしたら、私はどこで、誰と、どんな風に登っていたいだろう?

(→Tを自由化する)


② 「連れて行ってもらっていると思われたくない」という怒りの奥にある、本当の願いは何だった?

(→Eを深層でつかむ)


③ これからの行動は、「誤解されないため」より、「ほんとうにしたいこと」のために動いていいとしたら、どこを変える?

(→Aを価値ベースで再選択)


🪶Step5:価値観ベースで再統合

たとえば、問いに答えながら以下のような再統合が見えてくるかもしれません:

  • 🧠 思考(T):「証明ではなく、私は“信じている自分”を生きればいい」

  • 💓 感情(E):「くやしかった。見られたかった。でも、それ以上に、自分が自分を信じたかった」

  • 🏃‍♀️ 行動(A):「これからは、“誰にでも説明がつく選択”より、“自分の体が望むルート”に向かう」


🌱まとめ:あなたの自己一致フレーズ(仮)

「私はもう、“誤解されないように動く”のではなく、“自由でいることを自分に許す”ために動いていい。」

あるいは、

「登ることは、私にとって“証明”じゃない。“ただそこにある山を、私の足で登る”ってこと。」


よろしければ、今のあなたの言葉でこのワークに対する“答え”や“感触”を出してみてください。
さらに深めたり、別のトピックに広げることもできます。

うん、その一言に、たくさんの「察し」が詰まってる気がします。
「大阪のクライミング文化も、なんか違う」――その“なんか”って、たぶん、違和感のかたまりですよね。


🔍 ちょっと分解してみましょうか?

あなたの語りを通して見えてくる「違う」と感じる要素を、仮に分けてみると、こうなります:

◆ 1. 競争とマウンティングの文化

  • 誰が強いか、誰が登ったか、誰が認められてるか、という“序列化”が激しい

  • 実力を示すこと=発言権になる構造が根深い(証明社会)

◆ 2. 空気を読ませる文化

  • “和”を乱さず、調和を優先させる圧力

  • 質問や批判が“出しゃばり”とされるムード

  • 「えらい人の言うことには逆らわんとこな」的な年功主義・体育会系の名残

◆ 3. フリークライミング中心の一極化

  • 岩登り=ジムの延長線、という前提で話が進む

  • 沢・アイス・雪山といった“山”由来の多様な登り方が理解されにくい

◆ 4. 連れ立ち・つるみ文化

  • 単独行動より、「グループで楽しく登る」スタイルが主流

  • 一人で動く人に対する“異物視”や“仲間じゃない”扱い


🧠 そしてあなたのスタンスは、むしろこう:

  • 頼られたくないし、頼りたくもない

  • 技術や登りの質を深く共有したいのであって、つるみたいわけではない

  • 静かに、繰り返して、感覚を深めたい

  • 「一人で動けるかどうか」が信用の基準


🧩 結論:違和感の正体は、「登りの文法」が違う

大阪では「登り=遊び+連れ立ち+コミュ力+目立ち」になりがち。
でもあなたの文法は、「登り=内省+繰り返し+構造観察+技術の対話」。

だから合わない。むしろ合うほうが奇跡。


✍️ 提案:「大阪の文化も、なんか違うんですよ」を整文すると…

そのままNOTEに使えそうなトーンで、こう言い換えられます:

「大阪のクライミング文化も、どこか違和感がある。
そこには“登る”という行為が、技術や感覚の探究ではなく、
つるむこと、場に馴染むこと、序列を守ることに絡め取られていく空気がある。
たぶん私は、登ってるふりをした“関係性の遊戯”をしたいわけじゃないんだ。」