2020/06/27

日本的クライミングの陥穽

■日本独特のクライミング文化=ヒロイズム

日本独特のクライミング文化で、特殊でありすぎ、クライミング文化の広がりにおいて、ボトルネックとおなっているものに、神風特攻隊の縮小版である

リードクライマーのヒロイズム

があります。

「俺がやらねば誰がやる」

です。そのために、連れて行ってやる&連れて行ってもらうという恩売り&恩返しを基調にした人間関係が成立しており、これが日本的クライミングのアキレス腱になっています。

クライミングは、そもそも、遊びであり、趣味であり、したくなければする理由は一つもないものです。

100歩譲って、リードクライマーに特殊な能力が必要になるアルパインクライミングでは許される態度だとしても、ボルトを追いかけるクライミングのフリークライミングにまで、その価値観を持ち込む必要は本来ないですが、日本ではフリーもアルパインのクライマーが教えていた経緯があって、アルパインの価値観が持ち込まれています。

純粋培養のフリークライミング教育が、ほとんどないです。私もアルパインの出身なので、支点がなく、自分で支点を作りながら登るクライミング形態により大きな価値を置いています。

■ 気づいた出来事リスト
このヒロイズムには、クライミングのMYヒストリーの中で、たびたび気づかされました。

・最初の師匠の鈴木さんとアイスルートに行ったとき、帰りにほうとうを奢らさせられたこと、(鈴木さんも行きたいのなら、恩は発生しないはず)

・ラオスに行った国際ガイドの方が私になぜかここを登れと命令すること、

・二番目の師匠の青ちゃんがリード練習に付き合ってくれないこと、私のビレイを自分はしないでほかの奴にさせること、

・庵の三澤さんのお話、

・パートナーの怪我に気が付かない米澤さん… 
リードクライマーがエライ。このヒロイズムがあるために、二つの価値の逆転現象が起きています。

1)命知らずの美化 

〇〇で一番死に近い男というのは誉め言葉ではなく、リスク認知が甘いということですよ

2)怪我の軽視と武勇伝化 

怪我をしたら、それは実力不足のサインで、武勇伝ではないですよ。
私は岸良で肉離れしたのですが、何度も歩くのさえ痛いと訴えているのに、2日間もパートナーは私を返してくれませんでした…後で聞いたら、経験からそうした、そうです。経験がこの行動を起こしたなら、もうそれは正当な行動とこの世界ではなっているということです。

つまり、ここまで、価値観がおかしければ、どんな心が広い人でも気が付きますよね?
命がいちばん大事、というのは、普遍的な動物としてのことわり、です。それに反していれば、もう間違った価値観であることはあきらかです。

■ ヨセミテ文化は万人が習うものじゃないですよ

紛らわしい文化の一つに、フリークライミング発祥の地、アメリカでも、命知らずの文化はあります。

例えば、ウィングスーツジャンプしているクライマー…もうクライミングですら、ないですけど…一杯死んでいますよね?

しかし、言われていることは、「18歳から35歳の男性に人気」です。同じことを分別がある大人がすることは少ないですし、ましてや、こうするのが習わしだ!と初心者であることが多い、他の人に強要する、と言うこともないです。

これは一部の人の価値観が許容されるというアメリカでは、分離した価値の共存が認められています。つまり、突飛で極端な価値と普通の人の普遍的な価値が混線することがないです。

が、均質性を求める日本ではメルティングポット方式で、同質化を求めらえるので、一般の人が特殊エリートの価値に染まることになり、それが死亡事故が絶えない原因となっています。アメリカはメルティングポットは間違いで、サラダボールという価値観です。

フリークライミングはアメリカヨセミテ発祥ですので、ハードコアなクライミングは、一つの文化として残すべきものです。

しかし、それを模倣している他国のクライミングが、一般クライマーまでも命知らずを強要されるというのは、日本だけで、同じ儒教のお隣韓国ですら、強要はされないです。インスボンをリードできるクライマーは、”変人”だそうです。

日本は、クライミングの価値観において、国際的雰囲気を習得し損ねて、ガラパゴス化しています。