2025/11/20

クライミングの価値の進化について考察

さて続きを書きます。

山梨にいる頃は、最初の師匠の鈴木清高さんと、「今後のアルパインクライミングの価値」についてもっぱら興味を分かち合いました。

私が山に行きたいのは、もっぱら美しい景色を見たいためだったので、私は無雪期の里山には全く興味がなく、距離だけなら、まだ若かったので、どこまでも歩けてしまうし…結局、当面は、フリークライミングはアルパインクライミングの基礎力です、という路線で、将来どこかアルパインの行きたい山に登れるためには、フリークライミングで登攀力そのものを上げるのが良い作戦だろうという結論でした。

山登りの価値観は、未踏の山に行く、それは素晴らしい冒険だ!でスタートしたと思いますが、そうした未踏の山でめぼしいところはすでに登られつくされ、取り立てて価値がある初登がすでになくなって、何十年もたっているというのが認識でした。

登山価値が、”初めての山に登る”から”難しい山に登る”に移行してからも、すでに何十年か、たっており、難しさに価値が移行してからは、経験者の経験の価値がなくなり、若い人が難しいグレードを一発勝負で登る、という時代になったようで、山梨にいたころは、競争は、

世界最高齢、とか、最年少とか、七大陸最高峰制覇とか、

庶民派というか、分かりやすい価値、誰が見てもへぇーとか、すごーいと、端的に言えるようなものになってしまい、それは、100名山のスタンプラリー登山が当然になってしまい、北アの山頂で、「あなた、いくつ目?」と見知らぬおばちゃん登山者にマウンティングされるような感じでした。

登山者全体が何を目指して、山に登ればいいのか、わからないのではないですかね?

登山の基礎というべき読図をおざなりにして、ルートコレクター的に登るため、何年登っていても、全然山の基礎力として積みあがっていかないみたいで、積みあがるのは、どこそこに行くならバスが混むから〇時から並ばないと時間が…みたいな些末なことみたいでした。

登山人口は増え、あいも変わらず遭難者は毎年過去最高を更新中で、対策っていうのが、”夏山リーダー”では、やっぱり、誰かに連れて行ってもらうという話。根本原因が連れて行ってもらうという依存的なメンタリティにあるのに。

私はそういう人たちが技術的に来れない山に行きたいと思い、それでアルパインに進んだんですよ。本当に山の価値をまじめに踏襲しようという人だけが自然とそういう場所に掃きだめのように残るはずなので。

そういう意味で、福岡では、油山川の岩場は、米澤先生の岩場で特に価値が高いと思いました。なぜなら、先生が足で稼いで見つけた岩場で二万五千の地図からは、決してそこに岩場があるとは思えないからです。ようみつけたね、って岩場ってことです。

さて、未知の山に価値がある時代の人(屋久島フリーウェイの開拓者)が、高齢になってたどり着く、着地点としては、素晴らしいのではないでしょうか?登山価値を棄損せず、小さな岩場でありながらも、秘められており、なおかつ道はつけられているので、非公開ってわけではないし、なんと都心から小一時間でたどり着けます。整備がカットアンカーだったのは、ちょっと残念ですが、全部の課題が立木から支点が取れるので、ボルトがあるというのは、ココにルートがあるよという自己主張程度な意味合いのように思います。ボルトがないとボルダーと同じでルートがあると分からないですし。リードしなければ、ボルト使わず登れるって意味です。このような、秘密の花園ならぬ、秘密の岩場を個人的に享受できる立場に立てるのは、長い間まじめにアルパインクライミングに取り組んだからで、素晴らしい結実だと思います。ちなみに、油山はいくつかルートがありますが、廃道になっているのが多いです。

大きな山じゃなくても、日々岩登りの日々を過ごすことが、老後のアルパインクライマーの人生の醍醐味なのではないでしょうかね?

記録的な山だけに価値を見出すのではなく、本当に人生において役に立つ山というか、誰かが三倉で言っていましたが、デイケアセンターと言われているそうで、それも一つの岩場の健全なありかたとして別に卑下するようなことではないと思います。インドアで、一日中ぼーっとテレビを見て過ごす老後したいですか?ねぇ…。

私は80歳の水泳の先生に習っているのですが、素晴らしい老後だと個人的に思うんですよね。

このクライマーとしての生き方は、師匠の青ちゃんが見せてくれた何年も同じ外国の岩場に通い続けるという価値と並んで、素晴らしい在り方のように思いました。たしか30回以上インスボンに行っているそうでした。私はラオスは気に入りましたが、なぜかというと、ここが初心者のクライマーにとって安全にリードできる岩場の作りだから、であり、初心者がリード三昧できないというボトルネックの解消のためです。だから、成長したら、そう何回も行くほどではないです。まぁ違い意味合いでいけばいいですが。

ちなみにインスボンは国策にてボルト打ち直しているそうでした。日本では、山岳文化の保全はどの省庁の管轄か?はっきりしないので、ボランティア団体に任されている感じです。韓国のほうがクライミングは市民スポーツとして根付いており、日本より先進的です。これはアイスクライミングも同じでした。

さて、まとめると、アルパインクライミングの価値は、世界的に見てもほんの一握りの人が初登の栄誉を得る、未踏峰の初登ラッシュ時代から、難度の時代へ、そして、一般の人が山に親しむことで実質の価値を得る時代へ…岩場と共に老後を過ごすというような自然と共に生きるありかたを提供する時代になったということです。

前項で述べたような、”アルパインクライミングの死”は、ボルト追っかけの山から生まれたに違いないと思ったりしました。

「登山価値の空洞化」の現代
  • みんな“何を目指して山に登るのか”が分からなくなっている
  • 未踏も難度も一通りやり尽くされ、価値の軸が失われた
  • 一般登山は「スタンプラリー化」し、読図や判断力が培われない
  • がゆえに、登山人口は増えても基礎力は上がらず、遭難は増える
  • 文化を支える制度的裏付け(整備・教育・保全)が曖昧

この「価値の空洞化」がアルパインに向かわせ、
そして福岡での“秘密の岩場を享受する生き方”に至らせた。

「次世代の登山価値とは?」

① 「到達成果」ではなく「山との関係性」が価値になる

初登でも難度でもない。
では何かといえば、


“どれだけ深く山と関わり続けたか”


という関係性の価値のようですよね。

米澤先生の足で稼いだ岩場。青ちゃんが何十回も通ったインスボン。それは、22年かけてユージさんが登ったラーキングフィア7ピッチ目とも重なりますよね。しつこく頑張る

これが油山川の岩場の“発見者の意志の跡”に価値を見いだす姿に重なります。

山そのものより、山との関係性が人生の滋養になる。

というのが、次世代の登山価値の本質になるのでは。

② アルパインクライミングの価値は「探す力」に回帰する

米澤先生が足で稼いで見つけた岩場。二万五千図では読めない地形。廃道の先にひっそり残されたルート。

“誰かに連れて行ってもらう登山”では決して得られない価値がそこにある。

ボルトを追うだけの登山ではなく、

「山のどこに可能性が隠れているのかを読む力」
「自分で山を歩き、見つけ、判断する力」

つまり、


地形を見る力=アルパインの価値の核


です。

トップクライマーはそれをグローバルでハイレベルでやり、
高齢者は一時間以内の山でやり、
その中間にある人は、自分の体力が届く範囲でやればいいだけなのです。

現代は逆行しているからこそ、この価値が一周回って輝いている。

そういえば、私が見つけてきた氷瀑を師匠はロマンがあると言って、見に来てくれましたっけね。

③ 高齢期の「山との時間」こそ登山文化の到達点になる

  • 老後の岩場の日々
  • デイケアセンターとしての岩場
  • 80歳の泳ぎの先生の持つ“美しい日常”

これらは、かつてのアルパインクライマーには“想像できなかった未来”です。

だって、昔は山やは、若くしてボロボロと死んでしまい、結婚すれば、山にはいかないで、の世界観だったんですよ?

今ではアルパインクライミングとされる山に結婚後の人も普通に行っていますよね。沢のバリエーションくらいなら、日本三大デート沢っていうのがあるくらいです。デートですよ、デート。

昔のノリで死を覚悟していくところじゃないってことです。まぁ、いろいろ死亡事故が沢では起きていますから誰と行くか?と何人で行くか?は大事な要点ですが。

デイケアセンター化、それは登山価値の衰退ではなく、「成熟」だと私は思います。

冒険 → 挑戦 → 大衆化 → 生活文化

これはどの文化も辿る自然な流れで、登山もついにそこに到達しつつある。というか、昔は峠を越えて隣村まで行っていたのですから、むしろ回帰しつつある、というだけかもしれません。

むしろ、
岩場と共に老いることができる社会こそ、
未踏峰の時代には実現し得なかった「山との共生文化」ですよね。

④ 次世代の登山価値は “内面の冒険” に向かう

初登も難度も記録も、山そのものはもう奪い合いの対象でなくなりました。

では、これから「冒険」とはどこにあるのか?

それは、


自分の生き方と山をどう重ねていくか


という内面的な冒険になるのではないですかね?

  • 同じ岩場に何十年も通いつづけ、いつまで通えるかな?がチャレンジになる
  • 誰にも知られていないラインを自ら探し出す
  • 廃道を読み解き、山に眠る“過去の登山文化”と対話する
  • 日常と山をつなぎ、老後に向けて身体を整えていく

これは、公式な記録では測れない価値であり、むしろ“次世代の登山”の中心にある価値ではないでしょうかね?

私のような40台でクライマーになった人にとっては、5.8でスタートして3年かけて5.9ノーマルになったことも相当な冒険でしたけどね。


アルパインクライミングは、未踏峰という外側の価値から、
自分自身の在り方を山で整えていく生涯の営みに変わっていく。
そしてその変化こそが、山と人間の関係を成熟させた証だ。

若い頃に追い求めた“困難な壁”は、老いるほどに
“静かに通い続けられる場所”へと変質していく。
それは、むしろ登山文化の到達点だと私は思う。

要するに、一言で言えば、老若男女楽しめるスポーツに進化している途中だということなんですよ。

そして、亡霊のように市民クライマーにまとわりつき、死の淵をのぞかせるのが、適切なクライミング指導の欠如と古いアルパインクライミングのイケイケ主義&ルサンチマン。

囚われた人から死に至る。死に至らないまでもクライミングの停止に至る。そんな罠に引っかからないのが大事です。