■ ポジティブパワー、パワーアップ中
さてと・・・、みなさんに、「パワーアップして帰ってきたね~」などと言っていただいているワタクシです。
まぁ、絶好調?ってわけでもありませんが、最近、ポジティブ思考の本質について、理解したことがあります。
■ 考え方次第は真実
どんな物事にも、2面性があります。意思が強い人は、頑固な人でありますし、心が優しい人は、優柔不断な八方美人でもあり得ます。
どのような物事であれ、人であれ、欠点がない、ということはありえません。
で、ネガティブサイクルに入っている人は、YesBut・・・になってしまっています。Butの後ろが真意である、というルールがあるので・・・
A: 自由だけど、お金がない
きれいだけど、寒い
これを 反転すると、ポジティブになります。
B: お金がないけど、自由
寒いけれど、きれい
つまり、フォーカスの違いなだけです。つまり、幸せな人というのは、Aではなく、Bで物事を表現しているだけで、受け取っている現実は同じなのです。
お金がない、寒い、を結論にするか、自由、キレイを結論にするか、だいぶ違います。
仕事は面白くないけど、安定している → 安定している → 幸福な人
安定しているけれど、仕事は面白くない → 面白くない → 不幸な人
と、状況自体はまったく一緒です。が受け取る感情は、全然違います。
そこに気が付けるか?ということが、大事な分かれ目です。
■ 強みを生かし、弱みを克服する
例えば、ですが、”安定しているが面白くない”仕事をしていたとします。ということは、弱みは面白くない、ということなので、面白くする、ということが、安定の次に課題になります。安定と言う強みを生かして、どんなことができるでしょうか?
逆に、面白いけれど、安定していない仕事をしていたとします。次の課題は、安定させる、です。逆にするだけです、面白いと言う強みを生かして、安定していないという弱みを克服する。
どっちからスタートしても、辿り着く目的地は一緒です。
ただ道中が違う。道中、退屈だけれど安定している道を取るか、安定していないけれど面白い道を取るか?
そこは、個人の適性で選べばよいのだと思います。
すでに安定している職をもっていたら、退屈であるこということに注目せず、安定しているというメリットを最大限に生かして、次はどういう面白いことができるか?を考える。
逆に、面白く仕事していたら、どうやって安定させるか?考える。
面白くする=創造性の課題、だったり、安定させる=労働量をこなす課題、だったり、課題は色々です。
■ 強みを生かす
要するに、現在手に入っていることの強みを生かす、ということです。
どのような状況にだって、強みはあります。たとえば、失職した人には、有り余る時間という強みがあります。
田舎に住んでいるとすれば、自然環境という強みがあります。
都会に住んでいるとすれば、文化資産という強みがあります。
強みが一つもない土地や、強みが一つもない人などいません。
与えられている強みを見つけ、それを強化する。
与えられていることそのものに注目することが、幸せな気分を作る大事な要素です。
■ 幸せには定義が必要
何をしたら幸せなのだろう?と自分に問うてはダメです。
〇〇さえしていたら、自分は幸せ、と定義します。
小さいころ、私は絵本さえ読んでいれば幸せな子供でした。絵本を読むことによって、つらい現実から守られてもきたのです。
同じことを大人もしないといけないです。何さえできたら、幸せなのか、決めることです。
6年前、私は、山梨では山さえ行けたら幸せと決めたため、決めて以来、山に行けたらハッピーなため、他のことには目をつぶっています。
例えば、この6年間、化粧品やアクセサリー類は、一個も買っていません。ずーとノーメイク。
以前はシップスやザラで服を買っていましたが、今は買わないか、古着屋で300円で岩場で履くジーパンを見つけてきます。
■ 幸せ=気分に過ぎない
幸せ、とは、実際のところ、単なる気分のことです。
幸せとは、究極的には、単なる気分です。誰でも幸せな気持ちになることがあると思いますが、それは良く考えると、ほんの些細なきっかけで得ることができる、”気持ち”、つまり、”気分”です。科学的には脳内の反応です。
幸せの気分の反対・・・つまり鬱ですが・・・は、なぜ起きるのか?
鬱は最新の知見では、脳内のホルモンバランスの変化らしいです。要するに、肉体的な健康と同じことで、脳がホルモンを分泌する機能の衰えです。
要は、パブロフの犬と同じこと。
つまり、トレーニングできます。
ですから、幸せを作り出すには、自分に幸せな気分をもたらすパブロフの犬と同様の条件反射を作っておくことです。
例えば、おいしいコーヒーを飲んだら幸せ~とか、適当です(笑)。何でもいいのです。
大事なことは、自己破滅的な快楽を幸せの条件反射にしてしまわないことです。たとえば、ギャンブル、酒、薬物などですね。
山でも、例えば、欲望が強すぎて、気象条件が悪いにも関わらず、何が何でも登頂したいなどとなると、それは自己破滅的になります。
クライミングも同じで、登れれば何でもいい、とスキル不足のビレイヤーを受け入れるとなると、自己破滅的になります。
環境が変わると、以前自分を幸せにしてくれた活動ができなくなります。
私の場合は、バレエができなくなりました。そうなると、自分を幸せにしてくれる別の活動を作り出さねばならないです。それが適応ということです。
今では、幸せ条件の塗り替えに成功し、山に行けば元気になる自分に作り替え、さらにクライミングに行けば元気になる自分が出来上がってきました。
何さえすれば自分が幸せ気分になるのか?自分で、先に定義してしまいます。それが幸せのコツです。
■ 子供のころにヒントがある
私は子供のころから、
TV嫌い バイオレンスがキライだから。時間を喰われるのがキライだから。
新聞キライ 悲しいニュースばかりが多いから
クラシック好き
本が好き
一人が好き
散歩好き
図書館好き
木が好き
こたつキライ 動かなくなるから
コーヒーが好き
絵画が好き
・・・ということがはっきりしている子供でした。
家族の皆がTVを見始めると、自室に戻って本を読み始めてしまうのです。特にお笑い番組・・・8時だよ全員集合!・・・は嫌いで、人の頭をバシバシ叩いていて、下品だと思っていました。面白いとは思えなかったのです。
新聞については、本当にネガティブなことを拡大視するのが新聞なので、同様でした。
友達とだらだらいるより、一人で本でも読んでいる方が好きでした。これは子供のころから、選択の結果であり、友達がキライと言うことではありませんでした。ただ一人が好きなのです。
要するに好き嫌いがはっきりしている=幸・不幸がはっきりしている ということです。
こういう風に”自分らしい自分”があるにもかかわらず、もし私が、毎日一時も一人になることができないような仕事についたら、不幸になるのは目に見えています。
小さいころから、流血映画が見れないのに、外科手術など直視できるはずがないでしょう・・・(実際、外科手術の術書の翻訳で、立会わなければならないことがあり、苦痛でした・・・)
クラシックが好きな人が、パチンコ店の騒音に耐えられるでしょうか?
私はヨガを教えていて幸せですが、それは、教えるということについては、全権が私にあるからです。つまり、一人で作戦を練ることができます。そこが私がヨガを教えていて幸せで入れる理由です。
クライミングも同じで、一人でする活動です。これがバスケットボールなどとなると、一人で動けないため、ストレスに感じるでしょう。
自分のタイプが分かっていれば、「なんで私ってこうなの?」と自分を変えようと自己嫌悪に陥らずに済みます。
「昔から一人が好きなんだよな~」と考えれば済むことだからです。
そう言う意味で、問題を必要以上に大きくしないためには、自分を知っている必要があります。
■ 問題は、そもそも存在しない
雪崩事故は、下に人間がいて初めて事故となります。誰もいない斜面が雪崩れても、ただの自然現象。
雨・風も同じで、自然界には、悪い天気も、良い天気もありません。ただ変化があるだけです。雨が降って悪い天気と思うのは、人間の一方的な思考です。
お百姓をしていれば、雨の日は種まきチャンスです。
したがって、物事というのは、良い出来事、悪い出来事があるわけではない。それはその出来事を見た側の主観です。
じゃ、主観なんだから、見方を変えれば、全部良い出来事。
■ 不足ではなく、良い面に着目する
現代は、なぜか、物事の悪い面、不足している面に着目し、不足を補って完璧に近づける様な教育を受けます。
例えば、どこかで死亡率が高いとします。すると、医療不足ということで、医師を送ろう、という話になります。これが欠点を見つけて、欠点をたたく、という思考法です。
しかし、歴史的にみると、そうした思考法でなされたことは、どれも対症療法で、他に問題が遷移するだけのことになります。医師が十分いるようになると、未病の人まで医者にかかるようになったりなど。
結局、人間はあえて問題を解決しようとしなくても、いいのかもしれません。
その最たるものは、自然保護やエコ活動などです。最善の策は、人間そのものがいなくなること(笑)。
そのような活動は、終わりがない戦いなので、不毛です。取り組む人を消耗させます。
やってもやっても、解決しないような活動には、最初から、取り組まないことです。あるいは、枠を設けて、どこそこまでできたらOKと決めてしまうことです。
物事には善悪はなく、ただ起こっているだけだということは真実です。良しあしを判断するのは人間です。
■ 単純な喜びほど強い
一方、物事がうまく行っているように感じられるときは、もともと持っている、
純粋で原始的な喜び
につながることが多いです。
原始的な喜び・・・というのは、誰かに褒めてもらったから、とか、宝くじが当たったとか、そういうたぐいのものではなく、
お日様がさんさんと輝いて、気持ちがいいな
風が頬を撫で気持ちが良い
スピードを上げて、滑ったり走ったり気持ちが良い
高いところに立てて全貌を見渡す
ただの水が美味しい
お腹が空いて、お食事が美味しい
生まれたての赤ちゃんを見て、頬がほころぶ
子猫が遊ぶ姿を見る
咲いている路傍の花を見る
などです。
単純な喜びほど、基本的なので、価値が揺るがない。そのような、揺るがない価値に立脚することが大事です。
たとえば、人に褒めてもらわないと幸せになれない人は、常に褒めてくれる人を必要とするため、幸・不幸が安定しません。
クライミングも、そのような、単純な喜びの一種ですが、人にもよります。
こうした単純な喜びは、大きな前進力となります。
喜びが蓄積すればするほど、さらに喜びが大きくなります
■ ミッションなきスキル
現代の人は、私も含めてスキルフルです。教育のレベルが上がったからです。
ところが、それを活用する場は、過去と比べて増えてはいないので、スキルが余っているけれども、そのスキルを使って何をしたら、良いのか分からない、という状況に陥りがちです。
何をしたらいいのか・・・分からないと、人から、すべきことを与えられることになります。
人にあれこれ指示されて事に対して、自分のスキルを活用するわけで、自分にその成果が残るわけではないので、じきに不公平な感じがしてきてしまうでしょう。
こうなったら、必要なのはミッションです。自分自身の使命を何でも良いので決めることで、自分のスキルは自分のミッションと言う、より高い目標のために使っていることになり、やらされ感が減ります。
私は、もともとプログラマーなので、ITは楽勝です。
HPなどを作ることも、その辺の人よりは楽勝ですが、このスキルは、クライミングの喜びを伝えるというミッションに使っています。
そのミッションに沿わないことは、たとえスキルがあってもやりません。たとえばガイド登山のようなことは、できますが、やりません。山の世界に貢献する活動とは思えないからです。