2019/02/20

会を創設しました ラオスと日本のクライミング文化の違い

■ 本格的な登山=アルパインクライミングへ進む

一般に登山が嵩じると、雪へ進み、雪から岩へ、岩からフリーへ、と流れるはずですが、現代は、山岳会という教育機関を担っていた組織が機能しておらず、それに代わる新しい仕組みの到来を待つ過渡期のようです。

という事情から、一般登山を一通り終わった未組織登山者の方が、さらに成長するにはどうしたらいいか?という解を見つけることは、非常に難しい…。

結論から言ってしまえば、

・コースタイムの5-6割の歩き
・歩荷40kg
・5.12

をマスターしたクライマーは、たぶん、目立つので、どこからともなく、ギリギリボーイズの誰かからパートナーとして連れていかれるテストを受けるのでは?と思われます。みなが、どこかでつながっているくらい、狭いコミュニティです。

知り合いのOさん(5.13登る方)も、一度佐藤祐介さんに拉致され、低体温症で死にそうになったそうです(笑)。

スーパーアルパイン…祐介さんレベル以外の山…は、どうやったとしても、しょせん、名誉にはならず、自己満足の山です。いくら本人にとってギリギリでも。

なので、一般市民レベルの人が栄誉を求める山をしても、本人が楽しくないだけです。たとえば我先にと100名山を追い求める山などですね。

なので、自分が世界の一流登山者でないと思う人は、”エンジョイクライミング” こそ大事です。別の言葉で言えば、一般人にとって、山は自己満足、ということです。

■ 昨今のアルパインの舞台

私のこれまでの観察では、現代の登山の最前線というか冒険は、

・台湾、ニュージーランドの沢
・パタゴニア
・アラスカ 
・冬季黒部

などに舞台を移しているような印象です。もちろん、ヨーロッパアルプスやヒマラヤも凄いのですが…。

私はロクスノ、定期購読していなかったので分からないのですが、たぶん、ピオレドール賞を受賞した山を研究すれば、登山史の1ページを追加する山が見えてくるのでは?

■ 遅れている日本

最近、また知見が増えて、どうも日本では山岳関係の書籍の翻訳が遅れているようだということが分かりました。山書=古書。私は文学部なので、もとから古本屋が好きだったので、知見が広がっただけのことです。

しかし、私のような人は稀で、現代は活字離れ。一般的に言って紙の書籍は売れない。

という現状のため、池田常道さんが翻訳書を出していた時代から、時代が滞っているみたいです。

なにしろ、韓国語バージョンが出版されていたUIAAアルパインサマー、日本語バージョンがなかったくらいです。日本、韓国より遅れてる!日本ガラパゴス化の危機!

とはいえ、実は日本人は実力が高いのではないかという面もあります。つまり、脆い岩に強い=未踏の山に強い。大体、日本人クライマーって、世界に出たら強つよですよね。

とはいえ、一般のクライミングコミュニティが、市民レベルの成熟と広まりにおいて、時代遅れ感あります。

一般化するためには命がけを捨てないといけないのです…何しろ、一流クライマーと違い、一般の人は山では死にたくありません。

今は、もう世界はだいぶ先なのに、日本はまだエクスペディション時代の価値観みたいです。山で散るを美化しているということですね。

世界のみんなが気軽なバーベキューパーティの気分で行くときに、まるで包囲法みたいなやり方で、海外に登攀に行くとか。

では、最新の海外書籍の翻訳書を出せばいいか?というと、それも異なるように思います。

現代の若者は本を読みません。何をしているか?SNSです。

しかも、現代の若者には、翻訳書がなくても、自分で英語を読めるようになるほうが現実的というか、世界的に常識的に行われていることと近いと思います。補助輪をつけてもらうのではなく、自分で自立した国際人になるほうが早いということです。

何しろ、話せるようになるのにかかる年月は、たった2年。翻訳書が出るのを待つと10年です(笑)。

実際、私がラオスに出かけて、驚いたのは、世界中…例えばヨーロッパ各地、イギリス、アメリカ…から来ている人たちは、みな若者。日本から来ている人たちは、みなご老人ということです。いくら年配の人が出かけても、交流がないので、世界の情報は日本には入らないのではないでしょうか?

それで、私は日本にラオスのような国際的なクライマーが集まる拠点が作れれば、おのずと地域情報の交換が起こり、若者は世界でどの山に登ればいいか分かるようになると思いました。 私自身が世界の山に誘われたからです。

それを実現するため、日本にクライマーのゲストハウスを作れないかしら…と思っています。

が、これは、世界から集まってきたくなるような、魅力的な岩場の存在が前提ですので、なかなか難しく、運もご縁も必要です。

私が見た国際的なクライミングカルチャーは、要するに西洋人の一般的なクライミングカルチャーと思いますが…、誰かが命がけクライミングをしないからと言って、侮蔑するようなことは一切ありません。

命がけに美学を見出す…そこは、日本人は共依存なのだろうと思います。それが山の本質だろう、と相手の価値観にどうしても、踏み込んでしまいます。それが登山の世界では先輩が後輩にしてあげる親切、という約束、伝統、だからです。体育会系という言葉で置き換えると簡単かもしれません。 

しかし、昨今の若者の心は、今までの日本人の心の動きとは違う動きをするのでは?と思います。

多くの場合、若者本人たちの登山に対する理解が不足して知見が低いことにより、ベテランの言動が理解できないこと、なおかつ若者特有の”自己有効感”…頑張れば、俺は何でもできる…そうですよね、まだ可能性がたくさんです…が抜けきっていないため、と思います。 

要するに若い時は自分の限界を知らないのでイケイケって話です。当然、ベテランの意見を聞かない。

これは野田勝さんの死にあてた山野井靖史さんの『アルピニズムと死』を読んで思いました。熟練の目と体力と情熱は、同時成立が難しいのです。

一般の若者の8割は憧れレベルで、アルパインのウエアを着たり、ヌンチャクを持っているだけで、その気になってしまうレベルですが、そういう彼らの中にも、登山に対する思いがある子もいます。

知り合いのR君はチリに単独ワーキングホリデーで、大学は行かないことにしたそうで、見込みがある子だと思います。未組織の人です。

しかし、現在の日本の状況ですと、日本では山のエリート=大学山岳部、つづいて社会人山岳会だったため、過去の日本のエリート登山者の英知は、会にしか、継続されておらず、未組織の若い人が、どこかに所属することなしにベテランと繋がることは大変難しいです。

若い人の山岳会は、えてして、出会い系へ傾きがちですし…。チャラい会なら多数あります。

むしろ、山をきちんとしている人は未組織の人の中におり、適当な会がないという状況だと思います。私がそうでしたので…。

この問題の解としては、

 1)国際クライミングコミュニティとの接点を持つ
 2)個人的にメンター制度に入る、

というのが一番良いかなぁと思ったりもしています。要するに私がやっている方法です。

しかし、私もスーパーアルパインは当然ですが、全く視野に入っていません。

しかし、本格的な山…スーパーアルパインで行われていることの本質と同じ本質の山を一般人レベルで、ということは可能です。

やることは大体同じで、強度が違うだけだからです。このレベルに達しそうな若者は、今のところ見かけません…が、出た場合、どこかにそういう人が一緒に登るべき人たちの伝手を知っている存在がいないと、そういうクライマーが出てきたときに、橋渡しが滞ると思っています。

というようなことを考えて、所属先を選びました。

また、初期教育で躓く人が多いので、私にできる社会貢献として、会を作りました。

私は、山とは何なのか?という問いを追求中です。 

その道すがら、ほかの人の役にも立てば、と思っています。現在私ができるベストが主催、ということになりました。