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2023/04/06

為末大 制御するのは、自分がどこに注意を向けるか?

 ■ 為末大選手のメッセージが来ました

水平の物体移動が陸上なら、クライミングは垂直の陸上移動。傾斜が違うだけで、やることは、ほぼ一緒のような気がしますよね。 

1、クライミングは、物体移動の競技
2、クライミングは、自己理解の競技
3、クライミングのコントローラーは、”注意”をどこに向けるか?


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 陸上部に入部された皆さんへ。おめでとうございます。これから楽しい陸上生活が待っていますが、以下の三つに気をつけるときっともっと楽しいと思います。
 

1、陸上は物体移動の競技
2、陸上は自己理解の競技
3、陸上のコントローラーは注意


1、陸上は物体移動の競技
陸上競技は突き詰めれば物体移動だけを目的とした競技です。自分の身体をゴールに運ぶ。やりを遠くに運ぶ。自分の身体を高いところに運ぶ。しかも途中で方向転換をしたり止める必要もありません。
ということは物体を運ぶ原動力はどこにあるのかが重要になってきます。走る行為は地面に足がついている時以外に推進力を得る方法はありません。やりも投げてしまえばその後、力を加える方法はありません。勝負を決定づける瞬間があり、それ以外はそのための準備です。
 

ものが動くとはどういうことか。動かすために何をすればいいのかを考えていくことが陸上競技の最も面白いところです。
 

2、陸上は自己理解の競技
陸上競技ではグラウンドに通信機器を持ち込むことができません。その理由は外部の助けを得ることが助力行為と見做されるからです。陸上は全て一人でなんとかしなければならない競技です。ということは自分で自分をうまく扱えた人が勝つということです。
人間は自分のことを思いのほか知りません。自分の心がどう動くのか、どんな時にやる気が出るのか、どんな認識の癖があるのかに気付きにくいのです。この自分のパターンを早く見つけてそれをうまく利用した選手が勝ちます。
自分を知る行為はまるで自分を他者のように観察し、推測する行為です。自分の表情や体の動きから自分の心を推測していくことでその理解が進みます。
 

3、陸上のコントローラーは注意
陸上競技は他者との接触がほとんどないために、他者のフェイントを気にしたりチームの戦術を考えることがほとんどありません。代わりに他競技と比べ極端に自分の身体と向き合います。自分の身体を扱う方法は「注意」です。注意をどこに向けるかで動きも、身体の発達も変わってきます。
例えば、目の前5mを目指して走るのか、10mなのかで力の集約点は違います。スクワットでもお尻に注意を向けるのか膝裏か、大腿部かで動きが変わります。どこに注意を向けるとどのような動きが引き出されるかのパターンを理解し、うまく扱うことが大事です。注意の維持は要するに集中力です。

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■ 自分の注意力をどこに向けていくか?

ヨガと同じです。自分の注意力(=意識、集中)を、どこへ向けるか?で、発達が変わってくる。

私は、 アイスクライミングが好きでしたが、要するに注意を氷に向けるのが好きだったんですね。

乗ってしまえば壊れるか壊れないか?みたいなのに、これは乗っても大丈夫!という判断を下したり、モノポイントのクランポンのつま先1点に意識を集中したり…

バレエもトウシューズの先で立つ、ってのですから、同じです。

登攀はワルツステップと同じリズムだし…

■ 肉体誇示系は苦手

岩のクライミングの方は、クライマーの皆さんの 注意、が、

 自分の肉体誇示、

のほうに今のところあるようで、なんだか、活動に意義を感じないというか…。

そもそも、私、そんなに素敵な肉体、持っていないから、負け犬の遠吠えかもしれませんが、見た目のかっこよさ…広背筋?のために、犠牲にするもの…指関節の健全性…が、大きすぎて犠牲にする気になれないです…(笑)

奥村優くんたちの書いたものは、追求するもの、つまり、注意を向ける先が、岩そのもののようで、肉体ではないようでしたので、なんとなく好感しました。

私がクライミングを好きなのは、ものすごく集中できて、クライミングくらい難しいことをしないと、私の場合、集中できないから、です。

集中=瞑想。



2021/07/24

なんで子供や若者にワクチンを打つって話になっているんだろう...

■ 治験終了予定日は2023年5月2日ですよ?

治験すっ飛ばしワクチン接種は、歴史的に見て、かなりナチズムと発想的に近しく、実は恐ろしい方角のようです。

ーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーーーーーーー

1930年3月にドイツ健康会議は
 「健康な被験者および患者に対する医学実験の許容性」
と題するセッションを設け、ミュラーとシュタウダーを報告者に招きました。

J. モーゼスは1930年に、結核ワクチンの実験で75人の子供を死なせた「リューベック事件」を告発する本を著しています。直接的にはモーゼスに促されて、ドイツ内務省は上記の医学実験の指針を作ったのです。

この指針は14箇条からなり、

・新しい革新的な治療法の実施に先立って可能な限り動物実験を行うこと、

・緊急の場合を除き、患者本人か後見人が新治療法に関する情報を予め知った上で、明示的な同意を与えなければならないこと、

被験者が18歳未満の場合は新治療法を用いることが妥当かどうか注意深く吟味しなければならないこと、

などが詳しく規定されています。
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https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/vuniv99/exp-lec3.html?fbclid=IwAR06ZjbfAYxz0ApUW6UksnW28byXNETgy0mRR7d3Cooh1d8NUVJlnRTUxJM より引用

■ 「最大多数の最大幸福」が間違っている理由

日本でも、皆が助かるためなのだから、ワクチン死は致し方なし、という論調がたまにありますが、危険です。特攻死と同じ論理です。

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20世紀に入ると臨床研究は急激に巨大化し、しばしば大量の被験者を要求するようになりました。
そうなると、研究者と被験者の個人的なつながりは薄れ、多くの被験者は研究者にとって名も知らぬ患者群となりました。

また、何よりも大きな変化は、被験者個人の直接的な利益にならない研究が増加したことです。

以前は人体実験といえども多くは治療的研究であり、実験の成功は被験者個人の幸福に直結していましたが、医学の発展に伴い「最大多数の最大幸福」が求められるようになると、目の前にいる患者の利益より、その背後に控える患者予備群の利益が優先され始めました。

医学研究という側面から見ますと、第二次世界大戦は、大量かつ容易に被験者を供給する恰好のシステムとして稼働してしまったのです。

中略

ナチス・ドイツでは、優生学や人種衛生学に基づく「劣等民族」排除政策を背景に、「いずれ始末される」人間として、強制収容所の囚人達が人道に反する人体実験の犠牲となりました。

日本では抗日ゲリラやスパイなどとして捕らえられた人々、あるいは戦争捕虜が、生物兵器開発や戦陣医学研究などを目的とする生体実験の犠牲となりました。
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https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/vuniv99/exp-lec3.html?fbclid=IwAR06ZjbfAYxz0ApUW6UksnW28byXNETgy0mRR7d3Cooh1d8NUVJlnRTUxJM より引用

■ 現在の国際倫理規定

1. 実験は被験者を尊重する一般的規則に従う、資格のある科学者によらなければならない
2. 医学実験の最初の成果は慎重に公表しなければならない
3. 人体実験を行う際には実験者が第一の責任を負う
4. 健康な被験者に実験する場合は、被験者の、完全に情報を与えられた、自由な同意を得なければならない。患者に実験する場合は、患者あるいは最近親者の同意を得なければならない。実験者は被験者ないし後見人に実験の内容とそれを行う理由と危険性を伝えなければならない

5. 冒険的な手術や治療は絶望的な場合にのみ行ってよい 

コロナワクチンは、全然治験終わっていないので、つまり人体実験中ですので、その責任は許可を出した政府=実験者、が負うべきと明示されています。

子どもや若者は、コロナにり患しても無症状で死亡率ゼロですので、健康な被験者です。健康な被験者に実験する場合は…に当たります。 ワクチン死のほうが確率的に高くなってしまいます。

お釈迦様も、人に拠らず、法に拠れと言っています。人によるというのは同調圧力で物事を決めるということ、法によるというのは、物事の原理原則に従って決めるということです。